カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

自己実現の罠

えー、奥山さんが書いた脚本で賞を受賞したとのことでしたが、そちらへ進もうとは考えなかったのですか?

もっともな疑問である。ただし、この問いに結論を出すのは容易ではない。
8階の会議室。ビルはガラス張り。田舎にはここまで立派な建物は存在せず、平らな街が延々と広がるのを超然と見下ろしていた。
なぜ、自分がここにいるのか。その問いは根本的にそこまで戻らなければ答えは出ない。
答えられないわけではなかった。しかし、そこで私の視線が揺らいだのを彼らは見逃さなかったのだろう。
この先どこの会社に行ってもこれを説明させられると思うと、もう演劇のことをエントリーシートから削除したほうがいいのではないかとも考えたが、その他に書くことなどない。
私はどこに出向いても場違いだ。よそに行ってきみの夢を追いかければいいではないかなどと無責任なことを期待されているような気がするが、そんな夢など私にはない。
演劇は仕事にはならない。だから他に仕事が欲しい。
好きなことをしたいから仕事を探しているのではなく、月給をもらいたいから仕事を探しているのだが、いったいそれの何が悪いのか。なりたい自分になりなさい。夢を持って生きなさい。やりたいことをやりなさい。みんながみんな妄信的に自己実現の道をまっすぐに走破できるならそんなに楽なことはない。
他ではなく御社でなくてはならない理由を一生懸命考えても、落とされれば別に御社じゃなくても良かったと自分を慰めなくてはならない。なりたい自分が見つけられた奴は世界を自分の形に変えてしまえばよいのだが、そうでなければ世界の形に自分を変えていくしかない。どう考えても、後者の方が世のため人のため秩序のため平和のため良いに決まっているのに、前者のような生き方が持て囃される。
私が言いたいのはつまり、自分の形に合わせて世界を変えていくことが、私には向いていないことが演劇をやって気が付いたことだということだ。もうすこし正確に言えば、そういう生き様はきちんと生活をするうえでひどく障害になる。自己実現は自己責任であり、自身の加害性に自身が被害を受けて自滅した私が世界に対して働きかけようとしたところで、自己実現の論理で自身を説明しなければならず破綻する。何を言っているか自分でもよくわからなくなってきた。
ある程度単純に自身を説明できれば良いのである。単純に自己を実現し、単純に世界に身をゆだねることができる。そういった都合の良い存在になることが今求められている。
残念だがそういうわけにはいかないが。

新聞社採用試験

山形新幹線指定席 東京→山形 4年あまりのこれまでの大学生活で何回同じことをしたかわからない。この往復には一体何の意味があるのか、自分でもよくわからずに東京と山形の反復横跳びを必死でしていた。そのほかの場所へはほとんど足を運んでいない。東京と山形の二項対立に苦しみ続けた4年あまりだったと感じているが、そもそも苦しむ必要があったのだろうか。
東京での暮らしに疲れたら実家に逃げてある程度怠けたらまた東京に戻る。ということの繰り返しであったが、私は今や崖っぷちの大学5年生である。心優しき両親もさすがに6年目の学費は用意できないし、私だってこんなところに6年もいたくはない。そして、大学を出た後に、何者になるのか、どうやって生きていくのか、否が応でも選択が迫られる。
そんなわけで今年の4月からは未だかつてないほど張りつめた日々を私は送っている。授業への出席、就職活動。私の生活の残りの余白にあるのは喫煙とソリティアテトリスだけである。たまに八つ当たりのようにおふざけ動画を編集してインスタグラムに投稿している。そのせいでスマホの写真フォルダは就活と授業の情報のスクショか、スーツを着た自分の自撮りしかない。
採用担当者と仲良くなり、脈があると確信していた建設会社に履歴書を送っただけで落とされ、人気職だろうからと半ば諦めながら初めて書いたエントリーシートを送った新聞社の選考に残った。本当にこの5月は長い。4月はぼーっとしていたら一瞬で過ぎていったが、説明会をまわって企業探しをしている段階から実際の応募へと段階が移り、職を得るための具体的な行動が5月に始まってからはやることなすこと全部にいちいち困難を覚えながら仕方なくもろもろの雑事をこなしていった。自分が一体何を目指しているのかよくわからないまま、なんでもいいからはやくこの困難が過ぎ去ってくれと願っていたが、5月はなかなか終わろうとしなかった。当然、上手いこと行かなければ6月も7月もその先も永遠のような長さに感じるのだろう。こういうことを考えるのはあまり楽しくはない。
地元の新聞社の書類選考とWebの1次面接を通過したので、このたび2次面接と筆記試験のため地元の本社へと出向くことになった。前日の夜に実家に帰り、一泊して翌朝本社へと自分で実家の車を運転して向かう。基本的にいままでは何の用事もなく、怠けるためだとか、正月とかお盆だから親戚で集まって美味いものを食えるんだろうと帰っていたが、今回のこの帰省は性格が異なっていた。ろくでなし息子が仕事探しを始めたうえに、ふるいにかけられて残ったというのだから両親は大喜びであった。喜びは喜びなのだが、なんにも安心はできない。まだ採用されていないわけだし、仮に内定をもらっても私の今の状況ではそう容易には大学を卒業できない。両親はある程度私の苦労を認めながらも、依然として家には緊張感が走っている。私は怠けにではなく闘いに帰ってきたのである。去年逃げ帰っていた場所へ闘いへ挑むため向かった。状況は変わったのだ。
この往復には一体何の意味があるのか、自分でもよくわからない。それでも東京と山形の反復横跳びは今も続いている。飛び出すことも居座ることもできたろうに。
採用試験と面接は14時半頃に終わった。最善は尽くしたし、悪い点を見つけようとしたらきりがないので、もうなるようになれと言った気持であった。午前中に背中を丸めて必死に作文を書き、午後は無理に背筋を伸ばして自己主張を行ったので、背骨がどうにかなりそうだった。本社をでて近くのコインパーキングまで歩く。高校の時通っていた道を背広を着てネクタイを締めて歩いているわけだが違和感などは覚えなかった。それだけあの時代は遠ざかったのであろう。実家の軽自動車の運転席に座りエンジンをかける。ハンドルの上に両腕を載せて、シートに背中を押し付け精一杯身体を伸ばした。骨格が粉々になりそうな気がした。
外は暑くはないが、日差しのせいで車の中は暑い。だが、エアコンはつけなかった。今日のために最近はずっと新聞を読んでいて、やたらと出現するSDGsという言葉が頭から離れなかったので、どこか後ろめたい気持ちがあったのであろう。人類の未来など私にとっては他人事のような気がしている種類の人間であるが、悪人にはなりたくない。罪悪感は居心地が悪い。ただそれだけの話である。こうやって信念がないまま適当に生きていくのだなと、なんでもかんでも人生設計の方向に思考が引っ張られていくからうんざりする。
だけれども、冷房をつけずに窓を開けて走るのは悪くない。私はこの山形の地でいちばん好きな季節は5月だと思っている。山形には季節が5月とそれ以外しか存在しない。過ごしやすく美しい季節は5月であり、どのような楽しみがあろうとも逃れられぬ苦痛が支配しているのが5月以外である。
窓を開けて車を走らせると、心地よい涼しい風が吹き込んでくる。緑と土の香りがする。5月のその香りには比較的トラウマが結びついていないだけのことである。私の心的外傷は4月と9月に集中し、そのほかは極端に寒かったり暑かったり暗かったり眩しかったりして耐え難い。
もうやることは喫煙と帰宅だけである。最優先は喫煙である。私は最高の喫煙を行うため馬見ヶ崎川河川敷へと向かった。
だれもいない川沿いのサッカーグラウンドの駐車場に車を停めて、もくもくやりはじめた。相変わらず川の上の空はばかみたいにデカく、全部どうでもよくなった。もくもくやっていると、自分も煙になりたくなる。なにもしないということをしに来る場所としてこの河川敷は私の生涯の中で不動の地位を維持し続けるだろう。

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濃紺無地の背広、黒い革靴、白いシャツ、水色のネクタイ、七三に固めた髪、指先のハイライトから立ち上る煙。そういった人物が河川敷に佇んでいるので客観的に見てかなり不審だが私はいままで河川敷で不審な行為しかしてこなかったし河川敷とはいかなる不審な行為も受け入れてくれる場所であると私は信じているし、何より私はいま煙になっているのだからどうでもよいのである。

 

あ゛~

 

川にかかる橋を渡る人影が見えた。それは散歩に訪れる市民の一人であろうと気に留めていなかった。その人影は老婆であった。私は特に気に留めなかった。老婆は私に近付いてきた。喫煙していることを怒られるかもしれない。禁煙などどこにも書いていないし、私は携帯灰皿を持ち歩いているが、行為自体が持つ害に関しては一切の弁解の余地がない。老婆が接近してくる。火を消すか?どうする?私の腕は虚空で静止し、指先のハイライトからはもくもくと白い煙が上り続ける。
老婆は口を開いた。

「あたし川のこっち側きたことないのよ」

怒られるわけではないようなので安心した。その切り出し方はあまりに唐突だったが話しかけてくれたのは嬉しかったので私は答えた。

「はじめて渡ったんですか?」
「そう」
「この辺に住んでらっしゃる?」
「息子がこの辺に家を建てて、2年ぐらい前に越してきたの。」
「へえ~」
「こっち来たことないのよ」

こっちというのは私が車を停めてもくもくやっていた場所である。あっちというのは対岸であり、彼女はあっちに住んでいて、歩道橋を渡って今日初めてこっちに来たのだという。

「ほんとにはじめてなんだ。すごい瞬間に立ち会ってしまいましたね。」
「あっちって何あんの?」
「うまい飯屋がありますよ」
「あらほんと」
「なんか、こっち側は、役所みてえのしかなくて、用事ねえといかねえとこしかねえくて」
「はあ」
「んでも、仕事してる歯医者が、仕事してるって言っても、週に一回しか行ってねえんだけども、あっちのほうにあっから。あ、でも昔は東京で働いてたんだっけ」

こういった具合で彼女は自分の人生の話を始めてくれた。私の「うまい飯屋」という発言にはまったく関心を示さなかったのでどうしたものかと思ったが、何の前触れもなく過去の話がはじまった。わたしはこういう話を聴くのが好きなので続けて聞いた。22年遊んでただけの私の話など恥ずかしくてできないと思っていたが、こちらが聴きに徹していても彼女のお話は次々と展開されるので集中して聴きいることが出来た。

彼女は山形県内の生まれだが、もともとこのあたりではなく別の地方で生まれたのだそうだ。彼女が最初にしてくれたのはご主人の話であった。ご主人と言ってもいまは離婚しているらしいが。
旦那は同じく山形の人間だったが、東京で仕事をしていたらしく彼女と子供たちの一家は東京で暮らしていた。いまから2~30年前、彼女は富士フィルムの事業所で広報の仕事をしていたようだ。仕事に関しては東京でしていたのがいちばん面白かったと語ってくれたが、彼女とその家族の東京での日々は過酷であった。旦那がろくでなしだったのだ。職を転々とし、ついには引っ越すぞとまで言い出したらしいが、彼女は引っ越したら今の職場に通えなくなるから嫌だと言ったらしい。これはあくまで私の推測だが、この一家を収入面で支えていたのは旦那ではなく彼女だったのではないだろうか。旦那に嫌気がさした彼女は子供たちにきいたらしい。
「おまえら父ちゃんいるか?」答えは「あんなろくでもねえ親父いらねえ!」だったそうだ。それがきっかけで彼女は旦那と別れ子供を連れて山形に戻ってきたらしい。
ろくでもねえ親父が具体的に働いた悪事だが、子供のための貯金の通帳を持って消えたことがあったらしい。「あなたの名前の通帳を持っているひとが今警察にいるんですけど、この名前の方に覚えはありますか」と警察から電話があった。その名は旦那であった。まごうことなきろくでなしである。貯金は警察が無事に取り返してくれたらしい。あのとき警察が取り返してくれなかったら一家は路頭に迷ってのたれ死んでいたと彼女は述懐している。彼女は終始ニコニコしながら話していたが、わたしはかなり恐ろしい思いをしながら聴いていた。
彼女はいまは息子が建てた家に住んでいるというが、旦那と別れ、山形に帰ってきたばかりのころ住んでいたアパートに旦那が押しかけてきて息子たちが追い払ったことがあるという。
ほんとうに、息子たちが立派でよかったと私は思った。なんと素晴らしい息子なのだろう。
彼女自身の兄弟や両親について聞いてみた。最近兄貴が死んだらしい。死んだらしいとだけ聞いていて葬式には行かなかったという。この兄もろくでなしだったらしい。彼女の家は商店を営んでいたが、彼女が幼いころお父さんが早くして亡くなり家業を続けられなくなった。長男は東京に働きに出ていたらしいが家業を継がなかったため、彼女の姉が務めていた銀行を辞めてほとんど一人で商店の仕入れや配達業務をこなし、傍らで彼女も手伝っていたという。本当に大変だったらしい。このようなことがあり、彼女は姉との絆が深く、そして姉妹と長男は疎遠である。彼女が言うには姉がいなければ兄が死んだことも知ることはなかったという。
「身勝手でろくでなしの男ばっかだな」彼女は言う。私もそう思った。
「ろくでなしにはなりたくないです。」
「あんたは家族のこと大事にして、まともな結婚すんだよ」と言われたが、自信はない。
「できれば、いいのかな、と思います。」
「お嫁さんが出来たからってそっちばかりを可愛がって父母兄弟をないがしろにすると恨まれるし、子供出来たからってそっちばかりを可愛がって嫁さんをないがしろにすると恨まれっぞ。」
「ぼくは、みんなを愛したいです。」
「そう、みんなを愛してやるのさ。」

話を聴いてくれてありがとうと彼女は私に言った。私も良い話が聞けて良かったと礼を言った。彼女はまた上流の方向に歩いて行ったが、少し行った先で出会った別の男性にまた話しかけた。たぶんその男性も私のように全く知らない人だろう。
私はそれを見送ると、軽自動車に乗り込み実家に帰った。
大学を留年したろくでなし息子の就職活動は続く。

逗子開成高校「三年王国」に寄せて

※この文章は、2022年10月に行われた横須賀三浦地区での上演後に書いた文章です。※

 

  1. はじめに

    逗子開成高校演劇部の皆さん、地区大会お疲れさまでした。とても楽しく拝見させて頂きました。改めて、私の台本を選んで演じてくださったことに感謝したいと思います。ありがとうございます。このような機会を得ることができ大変光栄に思います。私自身はこの台本の作者である上、三年王国は今年の二月に書き終わり三月に上演したばかりなので、これから述べることは完全に外部から見た客観的な意見にはならないと思います。時折自分の脚本を自分でほめているだけのように受け取られかねない記述も見受けられると思いますが、私が自分の脚本を好きでいられるのは、愛するキャラクターたちとともに生きてくれた素敵な役者さんたちと、脚本をよく解釈し心地の良い世界観を構築してくれた演出や裏方の方々のおかげですので、私の作った物語を尊重して輝かせてくれたみなさんへの賛辞でもあると思って受け止めてください。原作者の要望とは別に、審査員や観客の方々、ほかの先生方の意見等もあると思いますので、それぞれを適切に取捨選択しながら取り入れて皆さん自身の新しい「三年王国」を作り上げて頂ければと思います。

  2. 自己紹介(隙あらば自己紹介する癖があるので飛ばして頂いても構いません)

    三年王国を書いた奴が一体何者なのか、飛塚先生とはどういったつながりなのか、明らかにしておくため自己紹介をさせて頂きます。私は、逗子開成高校演劇部の現顧問でいらっしゃる飛塚先生と同じ山形東高校の演劇部出身で、飛塚先生は私の7つ上の代になります。現在は都内の大学4年生で、人格社という劇団を主宰し脚本や演出や役者をやっています。私は、今から5年前の2017年、高校2年生の時に「ガブリエラ黙示録」という脚本を大会作品用に書きました。この作品が全国大会に出場し、飛塚先生がこれを観てくれていたことが7つ離れた先輩後輩のつながりのきっかけでした。「ガブリエラ黙示録」は「三年王国」と同じように、進学校に通う主人公が不満の限りをぶちまけ、暴れまわり、周囲への劣等感からやがて力尽きるお話で、まるっきり自分のことを書いたものでありました。私はこの作品を高校二年の7月から高校三年の8月まで書き直し続け、演劇部での生活の後半はほとんど他の作品に関わることなく引退を迎えたため、良い思い出であり巨大なトラウマでもある作品です。本当は国立劇場まで行きたかったのですが、最後の最後に全国大会の審査員に「主人公はなんでこんなに絶望してるんだよ。もっと人生楽しいだろ」と言われたのが私の高校演劇の最期になってしまいました。全国まで進んでこんな屈辱を味わうとは思っておらず、きわめて遺憾でありました。当時、勉学を放棄し演劇部での活動以外に消極的だった私は自分の存在意義をこの創作劇だけに見出していたため、全国大会で終演を迎え1年以上にわたる戦いから解放されたときの喪失感は大変大きなものでありました。8月に最後の上演が終わると丸裸で受験生活に放り出され、演劇部を引退して何者でもなくなってしまった自分自身を憐れんでいるうちに卒業を迎えてしまいました。自分は高校の演劇部に生かされていただけで、高校を出た後に新しい居場所を見つける自信もなく、演劇を続ける覚悟も決まらないままなんとなく受かった大学に入りました。演劇が好きなのではなく、演劇部が好きだっただけという自覚があったのです。

  3. 人格社の「三年王国」

    演劇とは距離を置きながらいじけた大学生活を送る一方で、高校生活に大きな未練があった私はあの「ガブリエラ黙示録」を自身の最後の作品にしたくはないと強く思うようになります。叶うならば、高校生活をやり直したい。それが出来ないのならば、せめて未完成のガブリエラ黙示録に決着をつけたい。そういった野望を抱えながら、自分を今いる場所に連れ出した運命に復讐するべく、架空の高校生活についてちまちま妄想し続け3,4年が経過して出来上がったのが「三年王国」です。ここまでのお話から、小田川、間宮、薮、旗田、権田原はみんな私自身から切り離した人格であり、高校生活とその後の各段階で考えていたことを同じ時系列に配置する構造をとったことがお分かりいただけるでしょう。三年王国そのものが私の大それた自己紹介なのです。

    逗子開成「三年王国」によせて

  4. ギャグについて

    ものすごく客席のウケが良くて私まで嬉しくなりました。人格社の三年王国より間違いなくみんな笑っていて羨ましい限りです。テンポ良く物語が進行する合間に笑いが起こり、客席と舞台がつながっているような、客席も含め劇場全体が居心地の良い60分でした。おそらくみなさんも感じていたのではないでしょうか。自分の発した声で多くの人々がどよめくあの感覚はどんなドラッグよりも強烈な快楽だと思います。高校演劇の大会は人を集めなくても客席に人が座っているのが前提でスタートできるわけですから、暗闇に人間を閉じ込めて、見させ続けることが出来ればもう勝ちです。その点で皆さんは無敵だと思います。

    今まで人を笑わせるような芝居をいくつか作ってきましたが、あの規模の会場でここまでの笑いをとったことはありません。これから規模が大きくなっていって何が起きるのか私は楽しみで仕方がありません。しかし、決して上演の目的が笑いを取ることだけではないという点は留意して頂きたいと思います。私が脱力ギャグを書くようになったのは、高校演劇の大会があまりにも眠すぎるという体験が原因です。現代人を暗いところに一時間座らせたら眠くなるのは避けられないことです。一日に数回の上演を行う大会ではなおのことです。全国大会まで行っても多くの人が客席で眠っているのを見かけます。見続ける力を必要とする作品は高校演劇には構造的に不向きであるという、決して多くの人が触れようとはしないものの仕方なく存在する抗えない事実です。だから、笑わせるしかないのです。

    既に今回の地区大会でも感じましたが、客席が笑いすぎて肝心の台詞がかき消され聞こえなくなってしまうという問題が発生します。これはもう本当にどうしようもないので、観客が笑い終わるのを待つしかないのですが、そうすれば当然間合いも狂ってしまうし、60分の制限時間がある以上タイムキープ上不都合をきたします。私が全国大会で上演したときは、この問題のせいで後半を急ぎ足で進めるしかなく、それでも間に合わずラストシーンを役者のアドリブで削って60分に何とか押し込まざるを得ませんでした。それで講評で「後半は失速した感じが目立った」と言われたのですから世の理不尽には呆れるしかありませんでした。そういう事態もあり得るのです。今回の演出はとくに緩急と抑揚がうまく配置されていて、失速を感じる心配は一切ありませんでしたが、役者も観客も温まるあまり飛ばしすぎてしまわないかが心配になりました。聞かせる姿勢を最後まで貫いてほしいです。

  5. 新聞部

    新聞部部室の雰囲気がリアルと言うかとても生々しくてとても良かったです。とても仲良しというわけではないけど、他に居所がなさそうでなんとなく馴れ合っている距離感や空気感が秀逸でした。現実の部活ってあんな感じだったような気がしてきます。高校演劇では虚構の友情が陳列されがちですが、皆さんが醸し出したあの新聞部の空気はいい意味で異質で、それでいて親しみやすいものだと思います。あまり仲良くなりすぎないでね。薮ちゃんと小田川くんと間宮くんはお互いを見下していながら弱い部分でつながっているかわいそうな奴らというのが私の認識なので。「安心しようと必死だな」というセリフがその象徴です。あのセリフがウケていて私は嬉しかったです。誰にとっても他人事じゃねえからな。

  6. 各登場人物について

    開幕直後に座っている小田川と間宮と薮の三人が全員眼鏡をかけていて、「本物だ!!」と思いました。遠目に見ると似たような雰囲気でも、言動ややり取りを見ていくうちに際立った自我が嫌でも見えてくる様子が鮮やかで印象的でした。

    全員個性が強いので、役者が自分の役柄に関して解釈して好き勝手暴れまわることでどんどん面白くなっていくと思うのですが、各場面の持つ意味に合わせて適度にコントロールしなければならない点もあります。

    1. 小田川

      今回、モノローグで客席に向かって不満をぶちまけるシーンの時点で、私はこの小田川には三年王国の主人公を任せられると思いました。(私の中で小田川は一応主人公です)冒頭のシーンで、隙あらば自己紹介したがる強めの自我の片鱗を見せながら、間宮の「友達じゃああるまいし」というキツめの冗談に本気で傷ついてしまうような繊細さ、人と話すときは「違うんだよ」と言ってしまいがちな頼りない彼が、それらを踏まえたうえで次の内的なシーンで大声で鬱憤を爆発させる様子は見ていて爽快ですらありました。独裁者のような演説を始めたと思いきや、駄々をこねはじめ、「おまえらの知らないところへ行く」といって、自分を納得させ、どこへも行くことが出来ない…まるで自分を見ているようで笑いながら泣きそうになりました。この必死さが、終盤で部長の座を狙うというちっぽけな、それでいて彼自身にとっては大きな意味を持つ野心に火が付く流れにつながっていて大変良かったと思います。

      黒板消しクリーナーに異常に執着している描写について、不気味さが本物で大変良かったです。薮先輩が黒板消しクリーナーを持ってくるところとか、権田原と恋バナの勘違い芸を繰り広げるところとか、一番最後の「電子黒板粉砕闘争とホワイトボード排斥運動」のくだり、極めつけはブレーカーが落ちるところ(とても良い改変だと思いました)など、要所要所でしっかりと笑いが起きていたので小田川の特殊性癖を表した異常な演技が相当効いていたのだと思います。据わった眼で「アレ」を見つめる表情や、恍惚とした様子でブツをキメている全身を使った演技が迫真そのものでありました。人格社の公演ではSEを使用しましたが、今回は実物の黒板消しクリーナーから聞きなれた音が鳴っている状況と、小田川が常軌を逸して悶え叫んでいるとち狂った状況が、序盤からこの作品の滅茶苦茶な世界観をよく示していて効果的だと思いました。どんなテンションで作品を見たらよいか、観劇するにあたり求められている姿勢を開幕直後から観客が理解しやすいととても引き込まれます。小田川役の方の必死な演技は導入として優れていたのではないでしょうか。しかし、もっとやれると思います。後述しますが、会場が大きくなってお客さんとの距離が離れると、息遣いが伝わりにくくなり、沸き起こる笑いに負けてしまいます。日ごろから黒板消しクリーナーを渇望してください。新たな次元を切り開き、真実の光を垣間見るまで邪な眼差しと狂喜の拡大を止めてはなりません。

    2. 間宮

      斜に構えていて鼻に付くような物言いの演技が間宮というキャラクターそのものでハマっていたと思います。写真部の幽霊部員のくせに新聞部にちょっかいを出していて、小田川と薮ちゃんだけの冴えなくてどうしようもない新聞部を適度な距離で客観視している立ち位置が、飄々としていてつかみどころのないキャラ造形からよく見てとれます。ダルいやりとりの中でぼそっとツッコミを入れて新聞部の現状を彼ら自身だけでなく観客にも見せつけるのは尊大な態度の間宮君だけにできる重要な役割です。ツッコミの切れが良くて見ている人はだんだん間宮を好きになる、そんな演技だと思います。小田川との関係性もよく出せていたのではないでしょうか。「小田川ツッコミ向いてないよ」も、今回の三年王国の間宮が言うと説得力が増します。最後まで権田原のことをさん付けで呼んでいたのも間宮らしくていいなと思いました。小田川や薮がへなへなしている分、間宮には鋭さが求められます。それも、権田原のような厳つい攻撃的な種類のものや、ハタダのような超然としたものではなく、ついぽろっとひどいことを平気で言ってしまうような、そんな鋭さです。突っ込むときだけ力を込めて小田川に切り込むのはあまり間宮らしくないと思うので、間宮には常にはっきりとした台詞の発話が求められると思います。前半、権田原が登場するまでは間宮の台詞で可笑しさが表現され、みんなが笑うと思うので通常時の切れ味を研ぎ澄ましていってほしいです。こういうギャグでかつぜつは命です。

      私としては、ハタダと話しているときの「面白いかどうかは本当に面白いものを目の前にしないとわからんのですよ」や、文化祭のシーンの「この文化祭という競争市場に購買と学食が参入したら圧勝に決まっている」など、屁理屈をこねて持論を展開するシーンの演技がとても間宮らしくて好きです。間宮こいつ、絶対ひろゆき好きだろ。

    3. 権田原

      男子校での上演ということで権田原の造形が一番心配ではありました。私はクールな後輩キャラの女の子権田原理香子が書きたくて三年王国を起稿したようなものなので、どうなることかと思っていましたが、杞憂でした。正臣という名を授かり生まれ変わった権田原。ただでさえ曲者揃いの役者陣に舌を巻いていると、途中から登場する権田原に完全にとどめを刺されました。完成しきった新聞部の関係性の中に他者として客観的に介入していく、客席と視点を同一にしたキャラクターと言う機能が構成上はありますが、切れ味が突出しています。彼は間違いなく「逸材」だと思います。いちばん最初の「何部ですか」の一言や、ハタダの「校舎が半分なくなってるんだよ」に対する「最高ですね」の切り返しだけであれだけ笑えるのはすごいです。マジで。強者の旗田と権田原が対面するシーンでは、他の部員たちとの日常とは違った緊張感が漂い印象的でした。ときたま拡声器を手に取る演出もとても良かったです。

      保健室のシーンの権田原はあまり弱っているように見えず物足りなさを感じてしまいました。あの堅物の権田原がはじめて弱さを見せるギャップが、物語の流れが変わったことを予感させる大切な効果をもっているので、普段の権田原が横になっているだけではいけないと思います。とはいえ、彼のキャラクターを保持しながらは難しいところですので、やはり慎重な造形が必要なのでしょう。ネクタイを緩めてみたり、ブレザーを脱いでみたり、頭を抱えたりして、普段の権田原とは違うような動作があると良いのかもしれません。

    4. 薮ちゃんを演じている方が一年生なのはビビりました。そういう奴がいるようにしか見えない体の動きや情けない声など、本当にそういう奴なんじゃないかと思うほど生々しかったです。薮繁治という人物は私が人格社で演じていた役でしたが、逗子開成の薮繁治はもっと強烈で、それでいて不思議な親しみを感じました。友達になりたいです。余談ですが、「…僕のことを言われてるんだと思って泣きそうになったんだけど…」の部分で笑いが起こったとき、まるで自分が笑われているような気がしてなんとなく腹が立ちました。あそことても良かったです。細かい部分ですが、小田川が権田原に「ネクタイなんか誰もしてないし」というシーンで、薮ちゃんが戸惑って自分のネクタイを引っ張るところも不憫で良かったです。ただ、謎のエネルギーで予測不能の動きをする薮ちゃんは終始どこか楽しそうにも見えてしまい、思い詰めて保健室で横になっているときの悲壮感や、引退を迫られたときの絶望感がやや弱く感じてしまいました。新聞部の日常の場面ではあのままでとても良いと思うのですが、放課後や行事の最中に新聞部にいるときの薮ちゃんに比べて、それ以外の時(授業を抜けて保健室へ向かうようなとき)や、新聞部についてではなく自分自身(主に引退問題や、これからどうしたいのかなど)について問われている時の薮ちゃんはもっと孤独で気の毒なほど情けないと思うのです。本人は言いませんが薮ちゃんは新聞部が好きなわけですから。まだ高校一年だと難しいとは思いますが、演劇部を放り出され、気が付けば受験まで半年を切っている高校三年の状況を想像してみてください。彼は漠然とした恐怖に怯えているのです。

    5. 旗田

      ハタダ先輩は、一人だけとても落ち着いていて、立ち姿に芯がある様子からしてその異質さが構成上の役割を非常によく反映していたと思います。なんとなく憧れてしまう男の子と言うのは淡々としていて物静かに誰も真似できないことをするのですね。逆カフカを朗読するときに、場面転換のため机といすを動かす音にかぶって聞こえなくなってしまったのが惜しいです。

      追加されたセリフもよかったと思います。原作では唐突に始まった「栄冠は君に輝く」の合唱ですが、ハタダの野球部に対する毒舌がのちのシーンに効果的に誘導していると思いました。あの合唱のシーン、今回一番笑ったかもしれません。脚本の展開的には何が起きるかはだいたいわかっていて、それを待ち構える姿勢で開幕から観ていましたが、椅子をバンバン叩き始めたあたりでもうだめでした。あんな暴れ方はとても私には思いつきませんし、山形東高校でも人格社でも真似できるものではありません。大好きです。まだ入学して数か月のはずの一年生の小田川と間宮が、ハタダ先輩の言葉に(文字通り)踊らされて、薮は見たことのないような動きをするので、みんなハタダ先輩が好きなんだなあ、と思う素敵なシーンでした。あれはまさに「ハタダを中心としたカルト」だったと思います。まわりが勝手に盛り上がってるのに対して、ハタダ先輩はあくまで冷静で、合唱が終わった後、部員たちがストップモーションになる中で語りだすのがとてもよい演出だったと思います。ストップモーションのときに部員のみんなが静止できずカクカクしているのが見えてしまいました。あれはあれで面白いと思いましたが、私はハタダが言うことをすでに知っているからそう思っただけで、初めて見た人はそっちが気になって気が散ってしまうかもしれません。

      私は厄介なカメラマニアですので、写真をめぐる見解は少し偏ったものになると思われますが、ハタダ先輩の造形の細部に関わってくる部分でもありますので書かせていただきます。ハタダ先輩がスマホで写真を撮っているのは、少し違う気がしています。平凡な高校生に見えてしまうのです。間宮君はハタダ先輩に憧れて写真部に入り一眼レフを持ち歩くようになったので、ハタダ先輩がスマホだとやはり少し違和感があるように思えました。「代わりに自分を説明してくれるもの」というモチーフが本文上でも登場するように、持ち物もその人物に関して物語っています。薮の場合腕章やICレコーダー、権田原の場合ハリセン(今回は拡声器も加わりさらに強力になっていました)、間宮の場合一眼レフなど。小田川は黒板消しクリーナーですが、常に持ち歩けるものではなく、たいていの場面で小田川は手ぶらで、小田川の肩書や役割のない決まりの悪さを暗に示しています。人格社のハタダ先輩では、古いカメラを手慣れた様子で操作しながら話す感じで玄人感を醸していました。特にハタダ先輩は、高校卒業後はカメラを手放してしまったという変化が描かれているので、その点は重要に思えます。今回のハタダ先輩は、静かに佇んで言葉を発するのみのシーンが多く、台詞に力が入りがちのように見えたので、カメラでなくとも何か手元にいじれるものがあると意識が分散され自然な発話になり、所作からも一味違う感じが出るのではないのでしょうか。決して他の登場人物のように大きく暴れまわる必要はありませんが、細部に宿る「らしさ」を作りこむことができれば「あの人は特別」と後輩に言わせるだけの存在感をより示すことが出来ると思います。猫背でぶれてそうな間宮君の撮影スタイルと、伸びた背筋でしっかりと脇をしめ、ファインダーの中の視界に集中するハタダ先輩の対比がみてみたいです。

      「写真は引き算。究極的にはカメラもいらなくなる。決定的なものを見つけたとき、私はそっとファインダーから目を離す」というのは、見たいものだけを見ようとすると、みんな鬱陶しくなって目を閉じたほうがよくなる、決定的な瞬間は、表現意図とか残すこととかを忘れて、その状況に自分がいることに没頭してひたっていたい。という、ハタダ先輩の見え隠れする厭世観や刹那主義が見て取れる描写です。文面や発話だけではなかなか伝わりにくいと思います。私は、何かをフレームに入れようとして、あきらめてため息をつくハタダ先輩の動作が観てみたいです。スマホはどうしても画面を遠巻きに見ているので視界を預けている感覚が生まれにくいのです。これは余談ですが、標準的なスマートフォンの背面カメラは人間の視野よりもやや広めの広角レンズが多く採用されており、近くにある食べ物を大きくダイナミックに写したり、人物とその周りに拡がる風景を同時に収めるのには向いていますが、何かを強調してクローズアップしたり、少し遠い被写体を表現するのには不向きです。それこそ、ハタダ先輩が言うように余計な物が入ってしまうのです。ハタダ先輩には、被写体から一定の距離を置き、自分に見えている特別な何かを際立たせて描写したい、理想主義者的な側面があるのだと思います。

      カメラが難しそうだったら、パソコンのキーボードだけ用意してカタカタ音を立てながら記事や文芸部の原稿をタイピングしている動作を取り入れてもいいかもしれません。この作品、誰も記事書きたがらねえし。推測ですが薮ちゃんは授業中に書いてると思います。衣装もパーカーだったのは間宮君とかぶっていてどうかな…と思ってしまいました。ハタダ先輩は標準服を崩すにしても端正なスタイルなイメージだったので、青いシャツや、昔の大学生のようなニットベストを着ていてもいいかと思いましたが、高校演劇でそれをやると先生に見えてしまうかもしれず難しいところです。一人だけボタンダウンの白いオックスフォードシャツなんかを着て腕まくりをしていてもいいかもしれません。ハタダ先輩の特別な存在感と佇まいを視覚的にもわかりやすくできると効果的かと。翌年の文化祭で変わらない姿で現れるのも時間の経過が分かりにくい気がして、衣装は工夫できる気がしました。ハタダ先輩は常にみんなの話題の中心ですが、意外と登場シーンが少なく、とくにカリスマ扱いされていたころのエピソードは意識させなければすぐに終わってしまう印象でした。その後、唯一現役時代のハタダ先輩を知らない権田原が、それと知らずハタダ本人と対面するシーンが控えており、あそこでの二人の対話を観客に興味をもって聞かせるためにも、ハタダ先輩という人物が観客にとって気になる存在で、注目しなければならないものとされなければならない難しい役どころです。圧ばかりかけてしまって大変申し訳ないのですが、ハタダが部員にも客席にも爪痕を残す存在であるほど、三年王国という作品の賑やかで可笑しいだけでない部分がきちんと伝わると思います。

      これは酷な話かもしれませんが、新聞部現役世代の生々しい情けなさに対し、学校を去ってしまったハタダ先輩の内面から染み出る悲哀がやはり足りないような気がしてしまいました。これは高校生にとっては想像で補うしかない部分ではあると思いますが、本作タイトル「三年王国」が示しているように、本作の主題はやがて過ぎ去る理想郷です。その終焉の先にいる先輩だけが、狂乱の時代の輪郭を客観的に物語ることができるのです。河原で小田川と話すシーンはハタダ先輩の語りに任されている難しいところではありますが、あの場面の台詞が言わされているように聞こえてしまってはいけないと思います。カリスマだと思われていた先輩がただの人みたいなことを言っている静かな絶望と悲哀が感じられれば、引退を迫られた薮ちゃんの断末魔もより重く轟くことでしょう。

  7. 当事者

    とはいったものの、人格社の三年王国と、逗子開成の三年王国では「当事者」がどこに位置しているのかが違うとも考えました。人格社で舞台に立っていたのはみんな21歳くらいの人間で、我々が演じる高校生活はどうやっても「若作り」であり、「若作り」してでも高校を作らなければならなかった切実さそのものが綴られているものでした。あの場で「当事者」として扱うことが出来るのはハタダ先輩だけで、かつて自分の青春があった場所を訪れ回顧するという切り口は当時すでに大学三年生になってしまっていた私が三年王国を書く姿勢と一致しています。しかし、逗子開成の皆さんにとっては、新聞部の現役世代が当事者で、ハタダ先輩だけが空想の産物になり得るのです。演技力で埋められない隔たりがここにある気がします。

    ここから先は少し乱暴な見解です。教育上あまり手本となるような記述ではないかもしれません。

    私は高校時代、戦争や災害の悲惨さを現地の高校生が伝えるものや、いわゆる感動ポルノ的な高校演劇を多く見てきました。そこから伝わってくる悲しみや恐怖は結局偽物に過ぎず、脚本書いて演出している時点でそれは嘘であろうと考え、にもかかわらずそういった作品に対する評価もその大部分が憐れみや同情なのではないか、舞台そのものへと向けられた眼差しとは大きく異なるものなのではないか、とかなり冷ややかな目で見ていました。題材が時代や社会を反映しているとか、誰が演じているとか、そういうのは舞台の外にあるものの話で、評価するなら舞台の上に造られた世界だけを見てほしい。舞台の外のノイズではなく、劇場の中で聞いた音を感じ、すべて同列のフィクションとして扱われるべきだ。と考えていたのです。

    しかし、高校演劇を離れ4年がたち、なぜあれほどに戦争や災害、社会的なテーマ、露骨な自己憐憫、同情を誘う茶番、奇をてらっただけの陳腐な教訓の押し売り等々が一定の評価を得ていたのか、わかるようになった気がします。高校演劇において、当事者の生身の肉体に対する同情が強く生じるのも事実である。特に普段演劇を見ないような人たちにとって、テレビや新聞やSNSではなく、生身の人間が声を発し、観客がその場に居合わせているというそのシチュエーションが、その演者自身の「当事者性」に無意識にフォーカスしてしまうのです。演劇でやる必要性をあまり感じないものが、演劇だからこそ注目されていたのだと考えるようになりました。

    私はなんか面白そうな部活として新聞部を取り上げたにすぎませんが、高校演劇の舞台の上に立たされた「当事者」性と、それを取り巻く構造が報道やジャーナリズムと関連しているような気がしてならないのです。

    当然ながら学校は多くの人が通りすぎる場所です。つまり多くの人はかつて「当事者」であった。18歳を過ぎた人の多くは「元・高校生」と定義することが出来る。その「元・高校生」に対して「現・高校生」が当事者性を武器に発信することが出来る。高校演劇とはそういった場所とも考えることが出来ます。潤色して頂いたセリフにもありましたが、よく高校演劇界隈で取りざたされる「高校生らしさ」という正体不明の抑圧の姿を、ここに暴くことが出来るような気がしているのです。

    自分の現状を痛々しく誇張して書いた高校時代の私も、災害の傷やハンディキャップを見せ物にしていた者たちも、また、懲りずに自分のことを書き続けている今の私も、言ってしまえば身勝手な自己憐憫に他人を巻き込んでいただけなのかもしれません。しかし、学校生活を支配するこの切実な苦痛が描かれることで、間違いなく救われる人だっているのです。客席にいる多くは高校生なのですから。同情と共感は別物です。「これは僕の話だ。僕が出てくるんだ。」と思ってもらえるような、「誰にとっても他人事ではない」そんな迫りくるような存在になってほしいです。

    執筆の段階で権田原の台詞として書いたものの、使わなかったものをここに記しておきたいと思います。長すぎてもはや台詞とは言えませんが、何かの参考になればと思います。

     

    これは我が東高校の百周年記念誌です。我が東高校は今年で135周年です。残りの35年を誰が書くんでしょうか? 同窓会ですよ。立派な地位を手に入れた大人たちがあのころはこうだったとか思い出しながら、美化しながら、残りの35年の歴史を書くんでしょう。ですが、歴史を解釈する史料があったらどうでしょう? 同窓会のもはやとうの昔に「当事者」ではなくなった人々の記憶よりも、「当事者」が書き残したものが歴史として信頼を得るのです。 いいですか、こんな田舎の芋くさい高校で迫害のような日々を送っている我々が、ただひとつ獲得している事実は「当事者」であることだけです。世間知らずのなんにもできない高校生が、3年の間だけもつことのできる「当事者」としての恍惚と不安が、この新聞部にはある。そうあるべきです。「当事者」が沈黙したら、事実はなくなる。この沈黙は空白を意図したものですか。

     

    私は「もう帰れない場所:高校」を、高校生を過ぎ去った当事者として三年王国を描きましたが、現在高校生の当事者が描くとすれば、「取り返しのつかない今いる場所:高校」として描かなければならないのでしょう。これは生徒創作ではなく既成台本ですが、皆さんには私が書いた言葉を自分自身の声にすることができると思います。もう高校を出てしまった私に言わされているのではなく、自分自身が嘆いているような、そんな姿が観てみたいです。
    それはもはや演技ではないのではないかもしれませんが、今回見ていて、特に現役部員の方々がなんだか皆さん素っぽくて、私の思い違いかもしれませんが、あまり演じていなさそうな感じがどこかしました。役に入っている状態から素に戻ってしまう瞬間が舞台上にあるととても嘘くさく見えてしまうのですが、そもそもみんな素で演じているような感じがしたので、あの見たことの無いような迫力が成立しえたと考えます。

  8. 謎部活

    私は三年王国を作るにあたって、「究極超人あ~る」の光画部に始まり、「涼宮ハルヒの憂鬱」のSOS団、「けいおん」の軽音部、「氷菓」の古典部「日常」囲碁サッカー部に代表される謎部活ものの漫画・アニメ作品を参考にし、それらを想起させるような仕上がりを意識しました。大多数の大人たちの青春に対する誤解や虚構に委ねられてきた願望とありふれた現実との落差を意図的に表現しようと試みたのです。創作物の中で高度に理想化され、作り上げられた現実逃避の場とされがちな学校という場所ですが、現実逃避の先にある原体験にだって逃げられない現実があるのです。(以下は参考です)

    それにしても、謎の部活、なぜここまで増殖しているのか? これらの部活が登場する作品は、いずれも“日常系”と呼ばれるものばかり。学校に行って美少女とたわいもない会話をして……というほのぼのとした日常を描く“日常系”が、いまラノベやアニメの世界を席巻している。その誕生とブームのきっかけになったといわれるのが、『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川 流、いとうのいぢ角川書店)と『けいおん!』(かきふらい芳文社)。“宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと”を目的として作られた「SOS団」や、実際は部活の様子などほとんど描かれず、部室でお菓子を食べてしゃべっているだけの「軽音部」。そう、実はどちらも“何やってるかよくわからない部活”ものでもあったのだ! 他にもさまざまな日常系作品があるが、“何やってるかわからない部活”や生徒会が出てくるものは少なくない。口うるさい親がいる家でも、イヤな奴のいるクラスでもない、日常の場所、それが部活。でも、ふつうの部活のように、甲子園やコンクールなど明確な目標に向かって努力なんてし始めたら、それはもう“日常”でなくなってしまう。つまり“何やってるかわからない部活”は日常系のために作られた舞台で、この2つは切っても切れない関係なのだ。(ダ・ヴィンチweb 「“なにやってるかよくわからない部活”が大人気」から抜粋)

     

     青春物のアニメや漫画には美少女のキャラクターがつきものですが、今回の逗子開成の上演ではそれを完全に排除し、その結果今までにほかに見たことのないものが出来上がったと思います。大変なことが起こったと思いました。何もかもが新鮮で否が応でも釘付けにされるような世界観になっていたと思います。あの激震が迫りくるような勢いはなかなか真似できるものではありません。
  9. その他

    音響について、ト書きに指示した交響曲第九番のモチーフを省略したのは正しいと思いました。たしかに私の思い入れの強い部分ではありましたが、ただでさえ要素の多い構成で、あまり本筋に絡んでこないこういった要素を切り落としシンプルにしたことで観やすい仕上がりになっていました。オリジナル三年王国ではベートーヴェンの第九の1~4楽章の配置に倣って構成を進行し、音楽もそれに合わせて使いましたが、無理に音楽で場面転換を行わなくても物語が進んでいたように思えたので他の楽曲に入れ替えても良いかと思いました。ICレコーダーの音声が再生されるシーンで流れるSEが丁寧に作られていて良かったのですが、役者さんの手元でレコーダーを操作する動作と音声(再生開始やスキップのボタンを押す動作とピッという電子音)の間でラグが生じているのが気になりました。音を聴いてから動いているように見えて少し不自然に感じてしまいました。人格社でやったときは演者と操作で間合いを覚えて、動作と電子音のタイミングを合わせるだけでどうにかなったので、音を聴きながら何回か練習してみるといいと思います。舞台上の部員が無言でレコーダーの中身を聴いている間、SE(合コンみてえな取材や権田原の陰口)だけを聴いて観客が笑っている状況がシュールで可笑しかったです。

    照明に関しては私の知識が乏しく詳しく分析できていませんが、感じたことを述べます。基本的にシンプルですが、ハタダ先輩に関する回想のシーンで時系列が前後し状況がコロコロかわる部分は機敏に対応し上手く切り替えられていたと思います。今回の会場は上下の出入り口から光が漏れていて完全な暗転はできなかったり、演技エリアが広く取られていたりと難しかったと思います。会場が変われば照明による表現の幅が広がりそうで楽しみです。本作の舞台は基本的には屋内ですが、唯一学校の外に出る河原のシーンや、少し異質な雰囲気が漂う保健室など、特別な場面を光が彩っていたら綺麗だなと素人目に思いました。

  10. おわりに

    書いていたら楽しくなってしまい、たいへん長くなってしまいました。とはいえ、こんなふうにみんなが楽しく語れる作品に仕上がっていることは確かだと思います。冗長で要点を得にくい文章だったとは思いますが、読んでいただきありがとうございます。私はただ観ているだけでしたので演出や演技の苦労も知らず好き勝手に述べてしまいました。オリジナル三年王国を作っていた当時を思い出しながらもう一度作り直す機会を得ることが出来たような気持ちになり勝手に盛り上がってしまっています。自分の作品を一観客として解釈しなおす機会を得ることは今までなく、私自身もたくさんの発見がありました。とても刺激的で楽しいひと時をありがとうございました。実際ブラッシュアップしていくのは、ほかならぬ部員の皆さんや先生方だと思いますので、脚本や演出の改変は皆さんの意志を尊重したいと思います。私はこの逗子開成演劇部の三年王国を、上位大会でより多くの人に観てもらいたいと強く思いました。どうかこの台本を立派に育ててやってください。それでは、またお会いできる時を楽しみにしています。

あたいの夏休み《後編》

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9月12日(月)

目覚めたのは朝の7時半。南と西の窓のカーテンが全て開いていて、僕は光に包まれていた。それはあまりに突然の目覚めで、どの記憶も現在につながっていなような感じがした。眠りから覚めたような感じがせず、ただ目が開いただけのように感じた。そして、記憶が継続していない。どうしても納得いかないので、仰向けのままここまでの経緯を思い出してみる。思い出そうと思えば思い出せるのが不気味で、それはまるで、蓋を外して中身を確認するような感覚だった。自分の記憶なのに。最後に見た時計の針は4時と5時の間を指していた気がする。だからこんな早くに目覚められるはずはないのに。たしか、最後に見たその時計は腕時計だった気がする。だってデジタルじゃなくてアナログの針だったから。その腕時計は机の上にあって、その横にウイスキーの瓶があった。そうだ。珍しく酒を飲んだんだ。夜中の4時に。重いふたが持ち上がり、中にある記憶が見えてくる。なんで酒なんか飲んだ?蓋をされていた事実がそのなかに眠っていた。夏休みが終わったのだ。
起き上がり朝食を食べ終えると8時半になっていた。最初の講義は13時から。4時間半、昨夜の絶望の続きのための時間が用意されていることになる。現時点のこの瞬間では平気だったが、耐えられなさそうな気がしたのでまた横になって寝てしまおうと考えたが、眠ることは出来なかった。もちろんあきらめはついていた。逆らっても無駄だ。この4時間は絶望の続きなんかじゃあない。ゆっくりと、丁寧に準備を進めるための4時間だ。耐えられなさそうな気はしたが、あまり眠っていない上に酒が残っているので余計な感傷は意識には浮かばず、不思議と素直に大学へ向かうことが出来た。
       

「前期の試験を受けていない人は後期この授業いくら頑張っても無駄です」
前期に試験をやったなんて知らなかったが、それは知ろうとしなかったからであろう。7月、僕はまともな点が取れそうな授業のことしか考えていなかった。いまはもうないもののことを考えても仕方はない。知りたい情報は得ることが出来た。先生さようなら。また来年お会いしましょう。僕と同じような境遇であろう数人が大教室を後にした。僕は行くあてもないので席に座りながら夏休み前のことを考える。頭をひねって思い出すまでもなく、克明な記録が残っている。この「カリフォルニア・日記」に。自分は今授業に出席し、聴くでも聴かないでもなくこの場にいるが、この授業は受けても無駄であり、そしてそうなった背景は自明である。そしてあれが(前編)しかなかったことを思い出した。さらなる追求が必要であると感じ、かならずや(後編)を完成させねばならないと再び強く思った。

 

あたいの夏休み 《前編》 - カリフォルニア・日記

 

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8月6日(土)
僕の部屋には本棚があるが、これは本棚としての機能を割り当てられたただのカラーボックスである。このカラーボックスのほかに、入りきらなかった本が段ボールで自作した本棚に格納され押し入れに収まっている。
今年の5月の連休に両親が僕のアパートを訪れたとき、このカラーボックスが倒壊しかかっているのと、押し入れの空き容量がなくなりつつあるのを見かねた母が通販で本棚を購入し送ってくれた。
カラーボックスの寸法をLINEできかれたので、測って送ると、横幅が同じで背の高い本棚が届いた。なんて、なんて良い親を持ったのだろう。後は組み立てて蔵書を移すだけなのに、部屋が散らかっていて組み立てられなかったり、時間がなかったり、時間があってもずっと寝ていたりで、組み立てられず梱包されたままの本棚が3か月ほど部屋の片隅に安置されていた。親の思いやりを、この息子は何だと思っているのか。
母と電話するたび本棚は組み立てたかと聞かれるのでそのたびに誤魔化していたが、十分な時間を手に入れたため僕は本棚の着工を決意した。《定礎 令和4年8月》
箱には「必ず二人で組み立ててください」と書いてあったので僕は山田くんを招聘(しょうへい)した。本来は8月4日に彼を招聘することになっていたが、彼は当該期日の日中から夜にかけて熟睡しており、一方の僕も本棚を組み立てる準備が整わないまま寝床で邪神ちゃんドロップキックを見ながらへらへら笑っていたので、これといって揉めることはなく着工は本日8月6日へと移された。
とにかく部屋が蒸し暑く、エアコンを入れながら作業をしたが、ホコリが舞ったので換気をするとまた暑くなり、暑くなった部屋にまたエアコンを入れるのはなんか嫌で、作業効率は著しく低いものであった。カラーボックスから出した蔵書が平積みされ、部屋の半分を占拠した。何かをどかそうとすると何かをどかさなければいけなくなり際限がない。収納を作ろうとしているが部屋は散らかるばかりだ。工具を探し出そうとするとまた何かが動く。たしかに部屋は余計な物がたくさんあったが、こんなにも物が多いとは思わなかった。なぜこんなに増えたのだろうかと考えても、最初からそこにあったようにしか思えない。すべては生活の痕跡である。決して部屋を汚そうとしてこうなったのではない。生活がうらめしい。本来は反省すべきであろうが、なぜだかうらめしいだけであった。見苦しい。一人暮らしが出来る人は立派な人だなと実家にいた時代は思っていたが、一人で暮らしているだけで立派な人になることはできず、荒れていく一方の様子を当事者であるにもかかわらずただ傍観するだけである。みんなどうやって生きているのだろう。
稽古をこの家でしていたころは、ある程度は保っていたが、寝起きだけの場所になってしまうともうなんのこだわりも生まれず決壊した。今日、山田を招聘したことが何かのきっかけになるかとも考えたが、なんで8月の上旬はこんなにも蒸し暑いのだろう。
「必ず二人で組み立ててくださいというのは、部品を押さえる側とねじをしめる側に分かれる必要があるということだ。山田くんは受けと攻めどっちがいいかな?」
「知らん。決めてくれ。」
気怠い。
なんとか本棚は組みあがったが、本や書類を整理して収納するところまでは行かなかった。
この日は夜から用事があった。人格社第一回と第二回の公演でお世話になった役者のはるひさんの出る舞台を観に山田と出かけるのだ。はるひさんの団体でも感染症関連の問題が発生し大変だったらしいが、なんとか本番は守り抜いていた。これを観ることも叶わなかったら本当に絶望していただろうから、なぜか勝手に励まされていた。本当に、みんなどうやって生きているのだろう。
知り合いが出ていても出ていなくても、お芝居を観るときに思うことはいつも同じである。
「うらやましい。おれにもやらせろ。そんな楽しそうに。ずるいじゃないか」
もちろん、楽しいばかりでなく、上演を迎えるまでの苦しみだってよく知ってはいるが、それでも、おはなしの中に連れていかれるとそんな気持ちになる。劇場が真っ暗になるとわくわくしてしまう。暗闇の中で黙って待っていると僕自身はこれまでの時系列から切断されて、違う世界に閉じ込められる。実生活の中では稀有な体験である。
実生活を好きになれれば、僕はもう劇場に来なくて済むようになるのだろうか。生活に自分が閉じ込められ、劇場の中に無限に拡大していくような何かを求める。そうした逆転した認知を正せるだろうか。と考えたところで、劇場の舞台の上で僕が今まで繰り広げてきたのは実生活の延長であった。
僕にとって、東京よりも、劇場よりも、寝起きする六畳よりもはるかに小さい頭の中におさまっていることが全てなのに変わりはない。広大なインターネットの中でこのカリフォルニア・日記が占めている割合に関しても話は同じことだ。
それなのに、なぜ…と劇場に来るたびに考えてしまう。とはいえ、小さな小さな僕の頭でできる唯一のことは考えることそれ自体だけである。
舞台を観終わった後、山田と火鍋を食べに行った。火鍋ははじめてだった。パクチーが、細かく刻まれたパクチーが、感じたことのない刺激を喉に催し、90分コースのうち実に50分はむせていた。山田がドン引きしている。涙をぬぐいながらむせかえっている間も、僕は劇場について考えていた。

人は誰しも人生という劇場を持っている。

人生劇場(神田神保町にかつて存在していたパチンコ屋の名称)

8月7日(日)
そびえたつ真新しい本棚の中には何も入っていない。濃い色の細長く四角いシルエットはまるでモノリスのように六畳の隅に屹立していた。

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部屋の中央には平積みされた蔵書、そして、整理していない前期の授業の資料、書きかけの台本やネタ帳が重ねてある。本棚を動かした経路だけが、竜巻が通り過ぎた跡のようになにもなかった。そして、部屋のはじ、襖に張り付くように布団が敷かれ、僕は横になっていた。
台所には行き場を失ったカラーボックスが置かれ、こたつは立ったまま眠っていた。どこで飯を食っていいかもわからない。
家で一人の時間が多いのだから部屋はすぐに片付くだろうと思ったがそんな容易くはなかった。目が覚めると視界は憂鬱で、起き上がることはなく、ただうずくまっていた。布団の上だけが、散らかっていなかった。
11時くらいだったか、枕元のスマホが振動した。この程度の刺激ならば辛うじて反応することが出来る。
姐御からLINEだ。
「ていうか奥山さん今日暇?」

姐御というのは姐御である。歳は僕のひとつ上で、今は苦しみながら会社勤めをしている。去年の冬、第二回公演「三年王国」に参加してくれた。なんでも、今から4年前の高校演劇の全国大会から僕のことを知っていたのだという。不思議な巡りあわせだ。姐御はなかなか決められない人生を送ってきた。演劇に身を焦がしながら、どうにも続けることができずに、演劇をやったりやらなかったりで高校から大学をすごしたという。なんとなく就活をすることになり、夏に内定を得てから書いた卒業論文で学術の世界に惹かれていったが、結局就職した。だがこれは結果を述べたに過ぎない。姐御は常に揺らいでいる。演劇とは距離をおき、もう関わることはないと思っていたのに。このまま演劇との縁が完全に切れてしまってよいのか、卒論を書き終わったころ姉御は揺らぎに堪えかねて人格社に連絡をとり、僕と知り合った。そのあと姐御は卒業を迎えることになる。もう学問とはきっぱり決別し社会で生きていけると思ったのに。しかし姐御は大学の外に出てから自分がしなければならないことを大学の中に発見してしまい揺らいでいた。大学院に行きたくなってしまったのである。
4月、新学期を控えた僕は留年が決まって後がなくなり、焦燥に青ざめていた。だが、姐御はもっと青ざめていた。姐御は文学部国文学科で近世文学の研究をしていた。ほかにも短歌や俳句など、いろいろやっていた。その姐御はいま、唯一内定がでた都内の機械器具メーカーで働いている。姐御もまた焦燥に駆られていた。正社員になったことで、何かが急速に失われていることに。古典や民俗学、人類学、そして小説や短歌、俳句、演劇などに触れて多くの時間を過ごしてきた人間が突然ある日を境に毎日機械工場に通うことになるとどういうことになるか、姐御は克明に僕に語って聞かせてくれた。語り部は光を失った瞳で虚空を見つめ、聞いている僕は血の気の失せるような恐怖が迫りくるのを感じがたがたと震えていた。なんでこうなった。わたしはどうなるんだ。責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。自身である。全部自分のせいだ。さもなくば、運命を呪うほかない。姐御が述べるおのれの生き様とおのれ自身を導いた運命への呪いと嘆きの言葉。それは僕自身がこれまで内心で述べてきたものとどこか同じ類のもののように感じられた。
姐御と僕は一致していた。主に悪い部分が。
なんというか、不気味なほど自分を見ているような感じがした。高校時代、演劇部での活動以外に消極的で実に不真面目な生徒だったという昔話が自分のそれと完全に一致した時点で何かがおかしいとは感じていた。一年だけ学年が上の姐御は、僕が今いる地点を通りすぎ、新入社員となり死んだ目で労働に対する呪詛を唱えている。これは近い将来の自分自身の姿なのではないかと戦慄した。
我々が慰め合うことはできない。僕はもがきながら光の届かない海の底へと沈んでいく。「たすけてくれー」僕の真下、もう少し深いところに姐御がいて「奥山さ~ん…」と言っている。その先には底のない暗い闇が続いている。
姐御が「私ってどうしたらいいんですか~???」と言う。しかし、それは少し先の僕が言っている言葉でしかない。なんて言えばいいんだ。「どうにもなりませんね~」
「私ってどうしたらいいんですか~???」と言いながら、姐御自身の中にはいくつかの答えがあった。大学を出て、工場の中で早々に《死期》を悟った姐御には野望が芽生えたのである。私のたどり着いた場所はこの工場ではない…
4月の中頃、授業が2年ぶりにオンラインから対面になり、僕は大学一年生以来久しぶりに家と学校を往来して日々を過ごしていた。朝8時前に起きて、早起きできた日は新宿駅でコーヒーとホットドッグを食べ、授業に出て、賑わっている学食を避け大学の目の前の富士そばで店内BGMの演歌を聴きながらそばをすすり、空きコマは西神田公園でブランコに乗り、午後の授業を終えて家に帰り、米を炊いて食って風呂に入って11時半には寝る。この毎日を続けていれば、この日々を送ることだけに一年間注力すれば、大学を卒業することは決して困難ではない。両親からもらった大学生活の残りを、余計なことは控えめに、大切に、つつましく過ごしていくのだ。卒業し、立派に職を得てはじめて、5年間になってしまった大学生活を許してくれた両親に顔向けできるというもだ。と、自身に言い聞かせていたが、去年やっていたことが余計なことだったのか、うまくやることができればよいのでは?それにしても、立派に職を得るとは?立派に職を得たらどうなるんだ?姐御は…などと、思い返せば常にそんなことを考えていた気がする。頭を抱えていた。胃がキリキリしてモスバーガーが食べられない。ハイライトに火をつける… 薬を飲んでも不安になるようなことを考えて眠れない。ハイライトに火をつける… 脚本を書いていたころ、どうしてもだめな日にたばこを一本だけ吸って、だいたい一か月に20本入った一箱がなくなっていたが、それが毎日になりだいたい二週間で一箱になっていた。落ち着かない春の空気を煙で誤魔化していた。そんな頃である。
「奥山さん、次の公演って決まってないんですか?」
「私、会社が8月の10~16日までお盆休みということに気付いてしまって…」
「ちなみに、ちょうどこの時期にやってる演劇祭がいま募集してるんですよ」
人格社の第三回公演が動き始めた。

8月7日の僕の日記に話を戻そう。姐御が僕の住む中野に来た。
人格社の稽古は出演者である姐御が会社員であるため土日に集中していたため、6月末から本番まで姐御は土日にほとんど予定を入れていなかったが、公演がなくなって、なんにもなくなってしまった日曜日だった。
明らかに、無理をしていた。姐御も、他の人格社メンバーも。みんな、演劇以外の日常がある。自分の日常を削って時間とお金を捻出し、僕の作品に委ねてくれていた。今までの公演だってそうだったけど今回中止になって僕はその事実の重さにやっと気が付いた。そして、明らかに時間が足りなかった。僕なんか最も暇な部類で、たまに行く派遣以外に決まったバイトもせず、ほとんど実家からの仕送りだけでけちけち暮らし、そんな奴が台本書けないからって稽古が遅れて時間が無いなんて、冗談にもならない話だった。自分だけがひどい目にあっているどころか、自分が一番贅沢で、わがままで、そして、恵まれていた。時間だってあったはずなのに。同じ大学生であっても、制作をしてくれていた後輩は、バイトに行き、就活も始め、大学の友達とも付き合い、そしてこの主宰の面倒まで見ていたのだ。大学の人間関係が皆無で、とっとと家に帰っていじけながら僕が白い煙を吐いている間に、みんな懸命に生きていた。おかしい。どうかしている。みんなどうやって生きているんだ、ではなく、どうにかして生きていたんだ。

姐御と僕はいつになく力が抜けていた。最後に会ったのは中止になる前の稽古だった。あのとき僕は、焦っていたのに何もせず、ただ発狂していた。姐御は金曜の仕事の疲れを振り切って土曜の稽古場にやってきて、日曜の稽古の帰りには月曜からの仕事への恨み言を述べていた。あれから二週間、僕は何もない夏休みのただ中にいて、姐御は次の水曜からお盆休みだった。本来は小屋入りだったが、なんにもなくなったお盆休みである。我々は漂うように日曜の商店街をふらふらしていた。やたらと人が多かった。ちょうど中野駅前大盆踊り大会が行われていて、往来には浴衣を着た人々も多くみられた。僕が育ってきた田舎の祭りなんて人が集まるとはいってもたかが知れている。都会の祭りはなんだか珍しくて、いつもとはまるで別の街のようだった。楽しそうな人々を横目に、我々はぼんやりと気の抜けた会話をしていた。
「奥山さん、わたしは大学院に行きます。」
「姐さんがOLなんてもとから何かの間違いでしたからね。会社にはいつまでいるんですか」
「ボーナスもらったら辞めます」
「終わりが見えてて、目標があって良いじゃないですか。夢じゃん」
「目標つうか夢とかじゃないんすよ。こうするしかなかったんですから。」
「たしかに、いるべき場所に行くだけということですか…」
「だからそんな簡単に終わりなんてないですよ。人生だから。これ。」
「ああ、なんか、人生が迫ってくる感じしますね。」
「奥山さんが今やってるのも人生ですよ」
「…」
「奥山さんはどうするんですか」
「とにかく大学を卒業することを目指さないと。その後は、たぶん働くと思います。生きていくとすれば。」
「わたしみたいに、なりますよ。」
情けなく笑うしかなかった。互いに。踊れるもんなら踊りたかった。

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僕は姐御にきいてみる。
「人生って好きですか?」
「人生はわかんないけど、世界は好きかな」
「じゃあ人生が好きなのと一緒じゃないですか?」
何度でも言う。我々が慰め合うことはない。互いに何かを補うわけでもなければ、力を与えることもない。あるのは、ただひたすらの嘆き。暗く湿った言葉の数々。我々は、被害者ぶるのをやめた方がいいと思う。加害者なんていないし、みんな平等に困難を抱えている。その困難の大きさを、どう自己評価するか。それだけが問題な気がしてくる。特に、街を歩いていると。そんな我々の不毛なやり取りや言葉からでも、どうにか生み出せるものがあるとしたら、それはやはり舞台だったのかもしれない。
「姐さん、いつか分かりませんけど、いつか、舞台に立ってくれませんか。」
「私もやりたいですけど、院試受かっても、学費とか生活費のためのバイトとかもあるだろうし、他の人探した方がいいと思いますよ。」
「あんたみたいな人間の替わりがそう簡単に見つかるとは思いませんがね。」
「探せばいますよ」
「姐さんにやってほしいと言ったら?」
「え~ッ うれしいな~」
姐御の返事は曖昧だったが、そもそも僕の「いつか」だってひどく曖昧な発言だ。
ひとつの身体と頭で一度に出来ることはそう多くはない。まして何かを全うしようなんて。4月からの3か月で僕は思い知ったはずだ。姐御もそうに違いない。働きながらほかに何かするのは無理がある。働くのにも無理があるというのに。姐御は大学院へ行くことを選んだ。僕は何か選べるだろうか。
晩飯の頃合いになって、姐御と二人で味噌ラーメンを食べた。店の中は人でいっぱいで、冷房が入っていてもひどく暑く、麺をすすると汗が止まらなかった。考えるのが嫌になるくらい暑い夜だったはずだが、姐御と別れて一人で帰りながら考えないわけにはいかなかった。この日はたくさん歩いた。僕はハイライトに火をつけることはなく、静かに眠った。

8月8日(月)
朝8時に起き、中央線に乗って東京駅の方へ向かった。高校の同級生が山形から東京に来るので会いに行った。彼女は演劇部の同期だった。演劇部の同期たちは僕を含めみんな卒業後県外へ出たが、彼女は山形に残っていた。そんな彼女がわざわざ山形から東京まで来て今回の舞台を観に来てくれることになっていたが、中止の連絡をすることになってしまった。その後は僕は暇になったので遊んでもらった。彼女は夜行バスが早朝に着いてから夕方のイベントに行くまで暇なので、暇つぶしに付き合ってほしい。とのことだった。
「15時にそこに着くまでの道中で面白そうなものを探したけど、3000円くらい要るかもしれない」と僕が言ったら、「3000円くらい持ってるわ」と言われた。たしかに、旅先で3000円も無かったら困る。僕がケチなだけだったことがわかった。
「あんたもすっかり東京の人間だね」という彼女の言葉に僕は自分でもびっくりした。たしかに、僕は東京の人間なのかもしれない。僕は東京の人間というのはもっと別の場所にいるものだと思っていたが、傍らから見れば、僕がいる場所はまぎれもなく東京であった。そんなのは当たり前なのに。東京って一体何なんだ。
電車の中ではやはり演劇部の同期たちの話をした。もう4年生なので、当然みんな次の場所が決まりつつあった。僕は先の話が全くわからない。僕が出来るのは昔の話だけだ。だが話題には事欠かない。あそこは変な演劇部だった。変なことがたくさんあった。思い出話の間で「でもあんたがいちばん変だったよ。」と言われた。
彼女は演劇部で役者だった。比類なき存在感の。3階席までぎっしり詰まった1500人収容の観客席に向かって、全国大会の舞台の上でヒロインを演じていた。僕が書いたセリフから読み取れる情報の量を1単位とすると、彼女の存在から放たれる情報量は約50単位はあったと思う。誇張なしに。なんでこういう現象が起こるかと言うと、当時高校2年生だった私が書いた著しく情報の少ない脚本を、役者たちと舞台美術と演出が何とか補っていたからである。とりわけ彼女が演じたときの説得力は不思議なものだった。成立していないものを成立しているように見せる。そういった組織的な努力の賜物のような舞台だった。最後の最後まで僕の主張は成立していなかったが。あそこにいたのは精鋭ばかりだった。演技も、部長の指導力も、動きの演出も、脚本改訂も、照明も音響も、舞台装置も。そして、演劇部の顧問も。実際に、僕の書く力は及んでいなかった。一人でなんにもできないことが悔しくて、自分でおはなしをおわらせることが出来ると証明したくて舞台に戻ってきたが、一人でなんにもできないことに変わりはなかった。おはなしを終わらせる・成立させるという当たり前のことがいかに困難なことかを再認識するばかりであった。
彼女もそうだったし、演劇部の同期で演劇を続けている者はあまりいない。あれだけ賢かったら、まさか演劇を続けるなんてことはしないのであろう。などと考えることもたまにある。演劇部で優秀だった者たちは、演劇部に限らずあらゆる場所で活躍できるほどそもそもが器用で優秀なのだ。演劇部であったことに固執し続けているのは自分くらいなものだと思っているが、それでも、同級生が観に来てくれると嬉しい。

この日は朝から天気が良く、視界に入るものすべてが暑苦しく思えるほど光に満ちていた。上野駅から上野公園を横切り、旧岩崎庭園へ向かう。平日の午前、人のいない上野公園では空の青と植物の緑が過剰なほど真夏を演出していた。

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庭園を散策した後地下鉄で移動し、正午を過ぎたころに昼食をとった。僕はコーヒーとサンドイッチを食べたが、彼女が食べたのは紅茶とケーキだけだった。朝から何も食べていないと言っていたのに、これで足りるのだろうかと思ったが、平気だという。
食事をとったあと、美術館の展示を見て15時まで過ごした。展示の中に、ピカソの「アーティチョークを持つ女」という知らない絵画があった。僕はこの「アーティチョーク」がなんなのかわからなかったが、彼女は知っていて「フランス料理とかで出てくる野菜だよ」と教えてくれた。ここで知ることがなかったら当分僕は知る機会を得られなかったと思う。すごいなと素直に思った。
15時で解散した。それなりに歩いたと思うが、彼女は平気そうな様子でライブの会場に向かった。僕は家に帰ってひやむぎを茹でながら、朝からケーキしか食べてない彼女が昼過ぎまで歩き回った後ライブに行って、終わったら夜中にバスに乗って山形まで帰ることを想像した。かなりたくましいと思った。僕だったら途中で死んでいる。なんだか悪いことをしてしまったと少し思った。
インスタグラムを見ると、彼女が私が写っている画像をストーリーに投稿していた。「パパ活」という文字を添えて。たしかにパパ活のようなものだったかもしれない。僕の方が金を持っていなかったが。

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8月9日(火)
なにもしていなかった。金曜から月曜までそれなりに活動をしていたので一日寝ていてもよいだろうと考えた。

8月10日(水)
昼頃から動き出し、日本橋高島屋で行われていた「まれびとと祝祭」という展示に行った。
岡本太郎のね、写真がいいんですよ~」と姐御が言っていたので行ってみた。人類学にも造詣が深かった岡本太郎が日本各地、特に東北地方の伝統的な祭典を記録した写真が文章とともに展示されていた。姐御の言うとおりだった。文章も面白くて、人類学や哲学の話題も豊富で、それに写真も最高な岡本太郎が憎いほど羨ましかった。

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8月11日(木)
渋谷で行われていた「エヴァンゲリオン大博覧会」に行くために山田と会った。新宿から渋谷まで山手線にのって移動するしている間に「山手線の快速があったら飛ばされる駅」について議論した。大塚、巣鴨駒込、田端、鶯谷は絶対に飛ばされるという話になった。北側の駅は簡単だったが、南側にはそもそもどんな駅があったのか思い出せない。渋谷とか恵比寿とか目黒とかには特に用事もなくなじみが薄い。我々はそういうところへ向かっていた。二人組で平日の夕方に行くと割引がされるチケットを買っておいたのだが、この日が祝日であることに全く気が付かなかった。8月11日は山の日だった。我々は門前払いを喰らった。夏休み中の大学生に祝日なんてわかるはずがない。渋谷の街に投げ出され、目的を失った我々はとりあえず散歩した。でたらめに歩き回っていると青山学院大学が見えてきて、青山ブックセンターに行ってみようという話になった。

長いエスカレーターを地下へ向かって下った先に青山ブックセンターはあった。長いエスカレーターと本屋が登場する短歌があるという話を山田が言った。

「地下ゆきのエスカレーターこの先に天空みたいな書庫があります」 岡野大嗣

きっと青山ブックセンターのことだろうと山田は思ったらしい。この作者にとって身近な本屋が青山ブックセンターだったんだ。山田自身にそういう本屋があるとすれば、それは新宿の紀伊国屋書店だという。僕にとっては神保町の三省堂本店だった。それが池袋のジュンク堂の人もいれば、八重洲ブックセンターだった人もいるだろう。この世の書物をすべて読みつくすことはおそらくできない。本屋にある本を全部読むこともたぶんできない。だとしても、どんな本がどこに置いてあるかを知っていれば必要な時に必要な知識へと近付くことが出来る。というのは詭弁かもしれないが、行き慣れた本屋の馴染みの棚が、自分の視野をそのまま反映していると感じることもある。だからこそ、地元の県立図書館が改修されて配架が全く変わってしまった時や、そもそも本屋がなくなってしまった時の喪失感は大きかった。東京で行ったことのある大型書店は縦に大きく、フロアごとにコーナーが分かれているところが多かったが、青山ブックセンターはワンフロアで、いつも見ないような本の間を通り抜けていく感じがどこか懐かしかった。

我々は渋谷ですることもなかったので、中央線のなかで解散した。

中野駅北口のやよい軒で晩飯にチキン南蛮を食べているときだった、ある後輩からLINEがきた。
「2個上の先輩に当日いきなり頼むという失礼は承知していますが、今日泊めていただけたりしますか…?」
「ええよ」
「念のため断っておくが、木造築40年風が吹くと揺れる洗面所がないウォシュレットが動かないそんな家だが大丈夫か?」
「布団はあるが」
「ありがたくお邪魔させていただきます。」

彼は10時に来ると言うことだったので、私は大急ぎで家に帰り、六畳の中央に平積みしていた蔵書を適当に本棚の中に平積みのまま詰め込んだ。部屋はいくぶんか広くなったが、見た目にはものが部屋のはしに寄せられただけの汚い部屋だったであろう。僕は申し訳程度に掃除機をかけたが、今何をしてもこの家は綺麗には見えないと悟ると、六畳の中央に座布団を敷いて座り、茶を飲んで彼を待った。

22時か23時頃だっただろうか。彼はやってきた。彼は京都の大学に通っていて、そこのお笑いサークルに所属してお笑いをやっている。コントや漫才を作っているのだそうだ。なんでも学生お笑いの大会が東京であったらしく、その用事で来ていたが諸々の事情で宿に困っていたという。寝させてくれればいいらしいので、中野の六畳に迎えた次第だ。僕としても、布団以外に大したものは用意できない。共に夕飯は食べ終えていたので、彼を迎え入れてから何をするでもなく座って話をしていた。
彼とは高校の頃からよく話す間柄だったが、高校を出てから二人でゆっくり話したことはよく考えるとなかった気がする。こんな夜遅くに自分の部屋に誰かがいるのも不思議な感じがした。
僕が古いカメラで写真を撮っているのをブログで読んでくれたらしく、それを見て彼も最近使い始めたというカメラを見せてくれた。
彼はニコンのフィルム一眼レフを持っていた。バネとゼンマイだけで制御する完全機械式の、ピントはもちろん露出もマニュアルのかなりヴィンテージな代物である。彼のニコンFM2は完全にプロフェッショナル仕様で、黒い塗装は所々はがれ真鍮のボディが見え隠れしいていて、かなり使い込まれていた様子だった。なんでも、お父さんから譲ってもらったものらしい。
そこから、彼のお父さんの話になった。彼は家族について多くの話をしてくれた。両親、姉弟たち、祖母、とにかく彼は自分を形作った環境についての多くを記憶し、その環境を離れ今自分が立っている地点に至るまでの道筋、これからについて、とにかく具体的に話してくれた。僕はこれらについて語るとき、自分に見えている抽象的なもの、それも像ではなく微かな手触りのようなものしか語ることが出来ない。しかし、彼の語るそれらには鮮明な像があり、輪郭があり、濃い影があった。
彼には一人の兄と二人の姉がおり、彼は末の子で、それぞれと仲が良い。兄弟たちはみんなたいへん向上心をもって高校生活、大学生活を送り、親の期待にそれぞれの答えを出して社会へ出ていた。それをずっと見ていた彼にとって、高校生活と大学進学、そして大人として社会に出たときの自分の姿に関することは常に大きなものだったのである。彼が、両親とお兄さんとお姉さんたちの姿を見ながらどのように生きてきたか、家庭の中でどのような自我を形成したか、様々な思いで迎えた高校生活の先にあった演劇部がどれほど異質な世界に見えたか、そこにいた私が彼の目にどれほど奇妙に映ったか、関西の私立大学に入ると決意して、並々ならぬ覚悟で母と担任と対峙したことについて、山形を離れ京都へやってきてから見た現実について、1年半闘った末に見出しつつある活路について、自分を生かしてきた家庭と山形の地をはなれ、知っているものが何もない関西で過ごし多くを見聞きしたのち、彼は自分が何者になろうとしているのかを語ってくれた。
僕は、震えていた。人生が、ものすごい人生が迫ってきた。後輩の父と母と一人の兄と二人の姉と、そして彼自身。人間たちの色濃い生き様を見せつけられて慄いていた。人生だ。これは人生だ。じゃあ僕が今やってるのは人生なのか?とてもではないがそうは思えなかった。気が付くともう4時近くになっていたので布団を敷いて灯りを消したが、僕は眠れなかった。誠実な生き方について、中学あたりからなんとなく見当がついていたものの、知らないふりをして、都合よく保留したまま心地の良いことだけを追求するでもなく中途半端に虚ろに眼差し、僕は今ここにいる。しかし、今、目を背け続けていたものが突如立ち現れ、モラトリアムの根城である六畳に影を落としていた。もうだめだ。耐えられない。僕はマッチとハイライトを手に取ってそろそろと自分の家を抜け出し、近所の公園に行った。いつも夕刊を配達している青年がバイクを止めて一服しているのと同じ場所で、ハイライトに火をつけようとした。
火が、つかない。風がごうごうと不気味な音をたてて静かな街を吹き抜けていた。八月のど真ん中だというのにいやに涼しげで不気味だった。はやく、楽になりたい。はやく、乱暴に煙を吸い込んで頭だけを軽くし、そして頭以外が重くなって、自分の身体が自分のものでないような感覚で、特に頭も働かなくなり、時間だけが煙になって消えていく、あれをやらねばならない。焦った僕は次から次へマッチを箱のやすりにこすり続けたが、火は一瞬で風の中に消えていく。ぶおぅ、と音がして、一瞬だけ手元が明るくなり、マッチの棒は黒い燃えカスになってしまう。だめだ、この様子から何かを連想してはだめだ。決してこの火と自分を重ねてはならない。そうしているうちに箱の中のマッチが全部なくなってしまった。泣いてもよかったかもしれない。こそこそと家の中に戻りライターを持ってこようとしたが、普段使わないのでどこにあるかわからない。後輩が眠っているので灯りをつけるわけにもいかない。食器棚に、去年買ったが全く減らないウイスキーの瓶があった。僕は真っ暗な台所で少しづつそれを飲んだ。ひどい気分になって、僕はいろいろな考え事をした。

「ああ、なんか、人生が迫ってくる感じしますね。」
「奥山さんが今やってるのも人生ですよ」
「…」
「奥山さんはどうするんですか」

僕の実家があるのと同じ場所で父は生まれ育った。父の少年時代、あそこは今よりも耐え難い田舎であった。とくに中学校は荒れ放題でろくに勉強ができるような環境ではなかった。僕と同じように父は電車で隣の県庁所在地の高校まで通学していた。クソ田舎を脱出した父は高校デビューを目論み、高校進学前の春休みにバイトをして5万円貯めて一眼レフを買った。だが、なぜか父は高校で茶道部に入り、大学になど入れるはずもない学力から、東京で一人暮らしをして自分のテレビを買って好きなだけテレビを観たい一心で必死に勉強し、大学進学を勝ち取った。彼は父親がテレビとチャンネルを独占しているのが死ぬほど憎かったらしい。斯くして僕の父は、バブル景気前夜の東京で学生生活を過ごした。この日々の体験があったのか、長男である僕は父に幼少のころから「おまえは東京に行くんだぞ」と言われていた。東京に何があるのか知らない僕が当たり前のようになんとなく東京の私立大学に進んだのは父の影響が間違いなくある。今の時代、東京で一人暮らしをさせて、私立大学の学費まで工面するのは相当の資金が必要になる。しかし、長男である僕を東京に出すのは父の人生設計の一部であり、彼は計画的に資金を用意していた。一体、彼は僕に東京の何を見せたかったのだろう。
父が見ていたものを僕が直接見ることは出来ない。しかし、実家には父が40年前に買った一眼レフが残されていた。とても綺麗な状態だったので買って満足し、熱心には使わなかったのかもしれないが、父と同じファインダーを40年越しに僕が覗いている事実は変わらない。その一眼レフは、去年の11月に突然シャッターが切れなくなった。電池を変えても、清掃してもだめで、カメラ屋さんに相談したところ「寿命だ」と言われた。
オリンパスのカメラはねえ、良いカメラなんだけど低価格帯の製品だったからプロが手入れして保管したやつよりも家庭でほったらかしにされてた個体が多いし、メーカーの事業が小さくなってユーザーも少ないから修理できる業者も職人も少ないんだよね。悔しいけど一生ものにする覚悟ならライカとかニコンじゃなきゃねえ…」
父から譲り受けたカメラが使えなくなったことは思いのほかショックで、それなりの喪失感を僕は覚えていた。修理して使うにも、元が5万円で、今は中古3000円で売られているカメラである。そこまでしてもどれだけ持つかわからない。僕は仕方なく、去年の12月に前のより少しだけ高級なオリンパスの中古カメラを中野のカメラ屋で2万円で買った。もちろん前の持ち主のことなど知らない。かつて父の視野であったものは僕の部屋で静かに眠っている。父のカメラは僕が東京に来て4か月で息を引き取り、僕は東京で新しいカメラを買った。
父は僕に東京で何を見てほしかったのか。僕は東京で何を見つけたのか。ふたつを僕はたまに考える。

この家に来てからのことを考え、会った人々のことを考え、そして現在に至る。後輩の家族の話を聞いて、実家に帰りたくなった。そもそも、なんで夏休みに東京ですることもないのにここにいるのか、思い出してみた。

散歩しながら医師に話したことを思い出す。僕は、実家に逃げ帰るのではなく、東京でできることをやりたい。とは言ったものの、東京でできることというのが一体何なのかはよくわかってはいなかった。実家に逃げ帰る、といっても実家には実家の現実がある。東京で暮らす自分自身の現実をしっかりと握ってから、実家に帰ろうと思った。でなければ東京に戻ってきてから動けなくなってしまうから。

すでに動けなくなりつつある。東京で暮らす自分自身の現実、それは、数々の事実に目を伏せて、それでも震えが止まらないとき、ハイライトの先端のともしびしかすがれるものがないことであった。
答えが出せるならば、これくらいであろう。絶望した。そして、いまさら酔いが回ってきた。二口しか飲んでないのに。窓の外、空は薄っすら白んでいた。こそこそと寝床に戻り、何も考えないようにした。
実家に帰ることを検討し始めると、不思議と落ち着いた。たまらなく悔しい。こんなこと昔もあったな。

8月12日(金)
昼少し前に後輩が起こしてくれた。何度も起こしてくれたらしいが僕は動かなかったらしい。酒なんて普段飲まないのでひどい気分だった。瞼に目玉が張り付くような不快感を覚え、頭が重たい。生で飲んだウイスキーの香りが胃からのぼってくる。骨格が肉体を突き破りそうなほど身体が重く節々が痛む。目が覚めた後も、差し込む日の光を腕で遮り呻いていると、後輩はとっくに身支度を済ませていた。僕は起き上がり、駅まで彼を見送ることにした。後輩は、僕の家に泊まることが出来たことを喜んでいた。いろいろな話が出来て楽しかったと言ってくれた。本当に、僕もそう思った。昨夜のことを思い出すと目が覚めてきた。
後輩を見送った後も僕は家に帰らず、手ぶらのまま自分も電車に乗って新宿駅ベルグで朝食をとった。とはいえ、時刻は既に正午を過ぎたあたりだった。特にすることもないので新宿駅の東口のあたりをふらふらしていた。たくさん人間が歩いていて、それをなんとなく眺めながらふらふら歩いていた。本屋に行ったり、神社に入って見たり、洋服のショーウィンドーを覗いたり、家電量販店でカメラを見たり、東口のコメダで紅茶を飲みながら本屋で買った本を読んだりしていたら17時くらいになっていた。
紅茶を飲み終わり、本を置いて考えてみた。さて、いつ実家に帰ろうか。

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なんなら今すぐバスターミナルに向かい北へ逃げたっていいのだが、つい昨日、山田とエヴァンゲリオン博覧会で門前払いを喰らって、仕方がないので16日の火曜日にもう一度行く約束をしていたのだった。山田と別れたあと、僕はその日が祝日ではないことを何度も確かめた。誰が何と言おうと、その日は平日だった。
よろしい。僕は家に帰るとパソコンで8月17日水曜日の夜に出るバスを予約した。
なんだかとても楽になったような気がした。そいうえば、本来は今日が演劇祭本番前夜だった。演劇祭の公演がなくなって、完全に空白になったと思われた2週間だったけど、いろんなことがあって、決して退屈な夏休みではなかった。でも、9月半ばまであるこの夏休みをずっとこの調子で東京で過ごしてはいけない気がした。僕は、十分闘ったつもりだ。そう自分に言い聞かせるように、夜行バスの予約手続きを進めていたような気がする。

(今思えば、実家に帰らずに新しいバイトでも探せばよかったのにと思っている。しかし、この頃僕はコロナが怖かったし、なんだかとっても疲れたような気がしていたんだ。とはいえ、夏休み明け11月にも実家に帰って、そしてまさか山形でコロナをもらうことになるのだからどちらも同じことだろうけど。)

僕は、一体何と闘っていたのだろう?

明日、人格社の第三回公演「光路図」は初日を迎える予定だった。もともと僕の構想には前作「三年王国」までしかなかった。初回「グッド・バイ」で書く力と公演を行う準備を整え、第二回の「三年王国」で高校演劇でやり残し、今まで演劇でやりたかったことを実現する。そういうプランだった。でも、またやりたくなってしまった。三年王国を多くの人が見てくれて、次を楽しみにしてくれて、まだ書いてないことが見つかり、そして、野望を持った姐さんが思い詰めた様子で僕の前に現れた。
あと五日ある。自分が今いる地点について、書こうと思った。ブラウザを閉じ、OneNoteを起動すると「光路図」の編集画面が現れる。僕は新しいページを追加した。

「あたいの夏休み」

前期の最終日、7月28日まで僕は遡った。山田と一晩中首都高をぐるぐると走り続けたあの日。あの時パーキングエリアから持ち帰った路線図を広げて眺めながら記事を書いていた。広げると畳一枚分あるのではないかと思うほど大きな路線図。今更あの時どこを走っていたのかを理解する。知らない街の上空を走り抜け、国家中枢の地下に潜り、東京湾の上を渡った。スカイツリーが視界の中で移動する。朝焼けとともに動き出す街の様子を見た。間違いなく、あれは「東京」だった。車の外に広がる景色は「東京」で、車の内側はどこでもなく、そこにに座り東京を眼差している僕は何者でもなかった。
情景が復活する。それはまさに、高速道路を走り抜けているような疾走感をもって、記憶の中の視野に没入し、僕は記事を書き進めていた。過去を掘り起こしているというのに、止まっている時が動き出したような、そんな感じがする。疾走感。僕は時間軸の直線上から離脱し、自分に起こったことを眼差し、文章にする。謎の高揚感があった。生み出しているものは全く意味不明な代物だが、書いている最中は心地が良かった。

疲れてくるとハイライトに火をつける。落ち着く。この香りと味はもはや僕のもう一つの故郷になっていた。僕の東京はこの小さな水色の箱に入っている。東京での記憶に火をつけてその記憶を僕は吸っていた。水色の箱の下半分には「20歳未満の者の喫煙は、法律で禁止されています。」と書いてあった。僕はこの夏、22歳になる。信じられなかった。
「タバコなんていらない人には一生必要ないんだ。金はかかるし、良いことの方が少ない。でも、ないと生きていけない奴もいる。演劇だって同じだと僕は思ったりするのさ。」高速を降りて中野に帰る途中の車内で、助手席に座りながら山田にそんなことを言ったような気がする。暴論だとは思う。しかし、演劇への僕の姿勢がこの煙のようなものであることは僕が発見した事実のうちのひとつだ。演劇もタバコも、学生の間だけ。そんな人も多いだろう。僕は、どうなんだろうか。

8月13日(土)
家で記事を書いていた。公演中止を決めたあたりにを書いていたので辛かった。

8月14日(日)
家で記事を書いていた。ラーメンを食べたり、図書館に行ったり、散歩をしたときのことを思い出していたが、ずっと家の中にいた。洗濯機を回した。

8月15日(月)
山形に帰る前に、はるひさんに会っておきたかった。はるひさんは、僕にとって東京でできた最初の友達だったから。
去年の9月に行った人格社第一回公演「グッド・バイ」は、高校の演劇部の同級生・後輩や、県大会で知り合った人の中で東京にいる人々を集めて行った。東京で劇団を作ったのに、中身はほぼ山形県民であり、中心は山形のとある県立高校の演劇部という奇妙な集まりであった。そこに、愛知県出身の俳優が一人だけいた。
7月中旬、公演の行うにあたって出演者が足りず、Twitterで募集してみたところただ一人応募してきたのが、このはるひさんであった。僕は2019年末に精神疾患で実家に逃げ帰ってからコロナ禍を経て1年半を実家で過ごし、2021年末に帰京(実質的な二度目の上京)した。本来は4月から東京で暮らすつもりであったが、大学がオンライン授業を継続すると発表したり、春先に東京の感染者が爆増したり、実家での僕の生活態度があまりに一人で暮らせるようなものではないなどの諸般の事情により交渉が難航し、6月末にずれ込んだ。とにかく、世の中は混乱していた。はるひさんも3月に専門学校を卒業し、上京する予定だったが8月頭にずれ込んでしまったという。東京でのお芝居の仕事を探していたら、僕の募集ツイートにたどり着いたという。恐縮していた。相当な覚悟をもって上京し、全く面識のない人間と連絡をとり、東京で初舞台が、こんなよくわからない奇妙な連中のものだなんて。しかし彼女は、あくまで仕事として、それこそ対等にひとりの大人として僕と応対してくれた。プロだ。僕はと言うと、演劇なんぞ3年ぶりで、高校演劇での後悔の念を晴らしたい一心で甘えられるものにはすべて甘えてここにいる。彼女は、一切を自分自身の意志と力で導いてきた。高校の演劇部でお芝居に出会ってから、専門学校で演技を磨き、俳優を目指して東京へとやってきた。とても同い年とは思えない。そう。同い年なのである。
ここまで自分と全く異なる生き様に触れたのははじめてだったのだ。

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僕は、昼過ぎから大学周辺を場所を転々としながら記事の続きを書き続けていた。やたら警察車両が多く、上空にはヘリコプターが何機も飛び交い、なんだか物々しい雰囲気で、そういえば今日は8月15日だったことを思い出した。靖国神社から九段下の坂を下った先。ここは千代田区神田神保町。たくさんの人が列をなし、怒号、嘆きの声が響き渡る。2022年。思い返せば不穏なことばかりだった。当たり前のように暮らすほかはなかったが、それはもはや怯えて過ごすことが当たり前になりつつあることを暗に示しているような気がした。
大惨事が連鎖して、悲しみが悲しみを呼んだ。僕には僕の惨事と悲しみがあり、それで精いっぱいだったが、それは多くのことのほんの一部ですらない。僕は僕の惨事がはやく過去のことになることを願い、一方で永遠にこの混沌のなかを漂っていられればそれはある意味で惨事ではなくなると思っていた。どちらにしろ、僕は終わりのなさそうな自分の東京の夏に一区切りを打つため実家に帰るという選択をとった。僕は逃げてばっかりだけど、逃げ続けることの不安へのせめてもの抵抗のつもりで僕は東京にいる自分について眼差さなければならない。空白を記録で埋める。たとえ空白を記録することとなっても、記録は記念碑としての役割を果たす。僕はいちいち記念碑をたてなければ何も学習できない。刻まなければ「眼差した」ことにはならないから、刻むために書いている。

はるひさんと僕は今年の春まで同じ人格社の舞台にしか関わっていなかったので、観客として互いの演技、脚本を見たことはなかった。それぞれ違う舞台に立つことは初めてだったので楽しみにしていたが、僕の舞台だけなくなってしまった。せめて、「光路図」を読んでもらいたくて、僕はコンビニで光路図の脚本を印刷して持って行った。
夕方、はるひさんはバイトの帰りに会ってくれた。はるひさんの帰り道の途中にあって、僕が都心で唯一行きなれた部類の町である神保町で、行ってみたかったカレー屋さんでカレーを食べることにした。
はるひさんがこの間の舞台で演じていたのはカレー好きの作家。大学時代サボりがちで、試験中に困ってしまって解答用紙にカレーの作り方を書いて提出したというエピソードを持つ。
「奥山諒太郎を思い出しながら演じた」と言ってくれた。僕は不気味で不可解な存在として認知されたとき奥山諒太郎とフルネームで呼ばれることがたまにある。不気味で不可解な存在を理解するための道具として僕が役に立ったらしい。不気味で不可解な存在としての役割を果たせたことが救いであったともいえる。
もうひとつ不気味で不可解なことに、僕は先輩の書く一人芝居に来年出演することが決まっていた。
「なんか先輩とユニット組んだらしいじゃん。先輩ってどんな人?」
「変だけど楽しい人だよ。僕と同じで遠くから見るぶんには面白いんだと思う。」
僕はこの事実がそこそこ不気味で不可解だと思っていたので自嘲気味にこのように言った。不気味で不可解な存在は遠くから見物したほうがよい。僕はこの夏自分が作った不気味で不可解な作品のために数人を理不尽なめに遭わせてしまったのでそう思っていたのだろう。
「えー、奥山諒太郎は近くで見れば見るほど面白いじゃん。」
「・・・」
不気味で不可解であると同時に、面白いらしい。ちょっと元気になった。
はじめて行ったカレー屋さんのカレーは美味しかった。
そのあとドトールでお茶をしながら、「光路図」を読んでもらった。はるひさんは僕の目の前でページをめくってじっくり読んでくれた。なんだか居心地悪く恥ずかしく、コーヒーがなくならないように少しづつすすってみたり、相手の様子をうかがってみたり、どんなこと書いたか思い出してみようとしてやめたりしていた。持って行って渡したはいいものの、自分がこれをどうしてほしいのかさっぱりわかっていなかったが、印刷された台本を渡されたら、今ここで読めという意味をある程度は持つことに後から気が付いた。自分の頭の中の情報を相手に開示することは実はとても時間がかかり、そして僕の頭の中の「光路図」という情報はそういえば読み物という形をとっていたことに後から気が付いた。記事を書き始めてから、僕の頭の中には僕しかいなくて、本当に良くない。
はるひさんは読み終わって難しそうな顔をしていた。そりゃそうだ。不気味で不可解であろうとなかろうと、なんか読んだ後に感覚を整理しようとすれば僕だってそんな顔になる。頭の中の情報はそこまで秩序立って整然と並んでいるわけではない。
でも僕は安心したいというか黙っているのが怖いというかなんか言わなくてはという一心で「どうだった」と口にしてしまった。「どう」という問いかけがいかに乱雑で扱いに困るものかは承知していたが、そういうほかはなかった。
「うーん…」
「気持ち悪かったでしょ」
自分でも不気味で不可解であると感じているので気持ち悪いという感想は間違いではないし決して僕を傷つけはしないという意味で言ったが、傍から見ればただの卑屈な奴である。というか事実として卑屈である。
「うーん…」
僕も言った。
「うーん…」
「ねえ、書くものある?あ、持ってたわ」
突然はるひさんは言ってごそごそとカバンの中を探り始めたので僕は手元にあったボールペンを渡した。はるひさんはそのへんにあった紙ナプキンに書こうとしていたので僕はノートも出して渡した。
はるひさんは、読み終わったあとの感想を、言葉でなく、図で示してくれた。

これまでの「グッド・バイ」と「三年王国」は、果物の皮であり、地球の地表を覆う海だったけど、「光路図」は果物の実、地球の内部。だという。「むきだしの奥山諒太郎」を感じたらしい。グッドバイも三年王国もむき出しの奥山諒太郎を書いたつもりだったけど、どうやらそう見えたらしい。
「面白かったよ」
そう言ってくれた。
「眼科とプラネタリウムとカメラの話がうまい具合につながって、いつも思うけどこんなの思いつくの不思議だよね。」
不気味で不可解で、面白くて、不思議。
むきだしにして、こんなこと言ってもらえるのは、幸せだと思う。

会うのは2か月ぶりだったので、我々は最近あったことや考えていることの話をした。僕は常に、そしてこの頃はとりわけ、何で自分は演劇やってて、みんなはどうして演劇やってるのか不思議に思っていたので、なんではるひさんはお芝居をしているのかきいてみた。はるひさんがここに至るまでの昔の話はあまり聞いたことがなかったので。
はるひさんも僕と同じく高校演劇からはじめた人だった。それはもう、楽しくて仕方がなかった。そういえば、初めて顔を合わせたときも高校演劇の話をした覚えがある。あの当時、僕の演劇は高校演劇で止まっていたからそうするしかなかったけど、今はちょっとだけ違う。だからもう一度きいてみたかった。なんで続けているのか。自分がなんで一回やめたのかわかっていないのに。
はるひさんは、少し考えて、演劇をやめるという選択肢がなかったんだと思う。役者以外にできることがないと思った。と答えてくれた。驚愕した。
たしかに、演劇部にいたころは、自分にはこれしかないと思っていたけど、そこを放り出されてから、気が付けばほかの道に行っていた。僕は逃げ道に甘え、保留して、それを続けて、今になっている。
四年前に、彼女は選ぶことができたのだ。心の底から、力強いな。その力が、羨ましいなと、思った。
はるひさんは自分のことが大嫌いで、納得できないまま、動き続けている。
僕は、自分のことが大好きで、自己憐憫しかしていなくて、自分を都合よく納得させて、じっとしていた。

僕は多くの言葉を弄んで不安や苦痛や憂鬱に好き勝手な形を与えていて、深刻ぶっているがその実はのんきなものである。彼女の場合はそうではなかった。彼女は決して無口ではないがあまり多くの言葉を持たない。そのまなざしはどこか悲しそうで、どことなく影を感じる。それはまるで信じるものがなにもないような眼差しである。実際のところ、彼女の生き様は自分しか信じていないように感じさせられるところがある。しかし、彼女は決して、その影を、暗い部分を見せはしない。それは強さであり、またその一方で闇のなかにあるものの実体はつかめず、言葉にできないまま在り続けている脆さでもあった。だからこそ彼女の存在や演技は輝き、そして、知れば知るほどに危ういものとして僕の目に映るのであろうと思った。それでも、それだからこそ、この生き様を、僕のものとは全く異なる生き様を、もっと知りたかった。

僕は完全に教えを乞う立場に自分を追いやっていて、「夢とかありますか」と言った。
彼女は「うーん…アカデミー賞」と言った。
不気味で不可解で、眩しかった。

 

8月16日(火)

新宿駅構内のベックスコーヒーは線路の真下にあり頭上を轟音で電車が忙しなく走り抜ける。効きすぎた冷房で冷蔵庫のような店内にはつんざくような高音を出す安いスピーカーからジャズが流れ続けている。線路に飛び込んだら永遠にここに閉じ込められるのだろうか。ここなら書き続けられる気がしてきた。

ガッタンゴットンという音が上で響くたび、店が僅かに、しかし確実に揺れる。私の身体も、骨格も、揺れている。ガタンゴトンと。意識せずとも車輪が私を踏み潰し刻む様子が想起される。電車の音は鳴り止まない。死を想起させた車輪の音が、自分の鼓動のようにも思えてくる。不思議だ。

 

きょうは新宿駅で山田と待ち合わせて渋谷へ向かう。平日午後ペア割引チケットを買って、祝日にそれと知らず足を運んで門前払いを喰らったエヴァンゲリオン博覧会にふたたび行くのだ。

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展示を観終わっても、渋谷で行くところも思いつかないので、山田が知っている代々木のつけ麺屋まで歩いて行った。

8月も16日まで来ると、暑さにも慣れてきて心なしか季節の終わりを僅かに予感し始めるような気がする。少し早い気もするが。こんな夜は散歩に限る。夏の夜の散歩は何かが違う気がする。昨日はるひさんと会って神保町を歩いたときも思った。

渋谷から代々木なんて歩いたこともなかった。いつも総武線から見ている景色に立って、逆に総武線が走っている橋脚を見て不思議な感じがした。だいたい30分。僕らは話をした。

北センチネル島って知ってるか?」

山田が言った。なんでこんな話になったかは覚えていない。

「知らないな」

「あるんだよ。インド洋に。いまだに文明と接触していない戦闘民族が住む島だよ。」

「なんだそれ、おもしれえな」

「その島に住む民族は21世紀まで外部との接触を拒んでいて、現在も接触しようとして上陸した宣教師や冒険家は皆殺されるんだ。だから、誰もこの島に接触しないように国際的に決められているんだよ。」

「へえ。」

「でもよ、おれたちだってこの島と同じかもしれないぜ」

「たしかに。地球の外に上位存在がいて、そいつらに接触されないまま、あえて未開民族のまま保護されているかもしれない」

「そう。てかこの世界自体嘘かもしれないしね。今知覚してるこの世界がヴァーチャルリアリティでないことは証明できないからね」

「その話おまえ前もしてたよな。シミュレーション仮説の話」

「そうそう。最近おれ夜中に家でこういうことばっか考えてんのよ」

 

山田は「本当は教えたくないくらい美味しい」つけ麺屋さんに連れて行ってくれた。代々木にもブロック塀で囲まれた古い一軒家が連なる昔ながらの住宅街や古くて小さいアパートはある。まるでそこだけ違う世界みたいに。その中に、店があった。いったい山田はどうやってこの店を見つけ出したのだろう。山田の言う通り、「教えたくないくらい」美味しかった。帰り、さらに代々木から歩いて新宿駅でわれわれは解散した。代々木から新宿駅南口に向かう道、新宿駅にたどり着いても、見たことのない角度から見た新宿駅であったので新宿駅だとわからなかった。

知らないことばっかりだ。

山田もじきに実家に帰る。「帰省したら山形で会おう」と言って、山田と別れた。

 

8月17日(水)

 

一日かけて荷造りを行った。
本当は昨夜のバスの予約をとってもよかったのだが、そう簡単に荷造りが終わると思えなかったので、荷造りのためだけに1日設けた。
予想した通り、荷造りには一日かかった。正確に言うと、荷造りをやる気になるまでほぼ一日かかったことになる。
生活を根こそぎ一つのキャリーケースに詰めるという行いには、うんざりするような、なんともいえない憂愁が付きまとう。それがたとえ実家であっても、どこか遠くへは一瞬で、今の暮らしを脱ぎ捨てて身軽に飛んでいきたいような願望があるが、実際にはこういったこまごまとした用意が必要になる。逃げた先にも暮らしはあり、人が生きるには実に多くの者が必要なのである。
でっかい東京、その中のちっちゃい自分の暮らしを、さらにちっちゃいキャリーケースに詰め込む。余計な哀愁だけを取り除きコンパクトに自分の生活をパッケージングする一種の芸術である。

ハイライトの箱の中の東京。東京にある山形のビオトープ。山形の中の僕。


23時手前にようやく家を出た。ギリギリまで荷物を詰めていた気がする。

図書館の図書返却ポストまで歩いてから電車に乗らなければならなかったので晩飯を諦めようとしていたら、駅のすぐそばに返却ポストが設置してあるのを発見して、大喜びで横浜家系ラーメン武道家に駆け込んだ。

「ッッッセェェェェェェイィィィィィィ!!!!! ゥォお好みありますかァッッッ⁉︎」

「固め濃いめで。」

訳:「いらっしゃいませ。麺の硬さやスープの濃さのお好みはありますか?」

「麺固めスープ濃いめでお願いします」

 

バスの中で眠くなるまで記事を書こうと思っていたが、夜行バスの車内の暗闇の中でパソコンを起動するとかなり眩しいしとても迷惑だ。ずっとパソコンで書いてきたので携帯で書く気にはなぜかならなかった。

仕方ないので眠ろうとしたが、なかなか眠ることができず、どうにも書きかけの記事のことを考えてしまう。僕はこのとき精神科医との会話を思い出しながら、なんで東京の暮らしから逃げ出せるのにしがみついていたのか思い出していた。

なんだかとても色々なことがあった。この記述の試みは8月17日に夜行バスに乗る時点を目指して行なっているが、起稿から6日経って書けたのは7月28日から8月3日までの6日分だけだ。

長くなりそうだと思った。

 

・・・・・・

 

12月28日(水)

思ったより長い闘いになってしまった。気がつけば卒業論文並みの時間と労力をかけ、前後編合わせて5万字弱を書いていたが一方の卒業論文はまるでお粗末で、しかも卒業論文を書いても卒業はまた来年度という、何もかもが奇妙で不可解な状況に陥っている。しかし、僕は僕自身の奇妙で不可解な日々をそれなりに愛しているからこんなものを書いていることが嫌でもわかった。

登場人物が多いので、登場して全ての人に書いた文章を見てもらってネット上で公開するにあたって許可をもらった。登場順的にはるひさんが最後になり、最近手伝っている劇団の企画の用事で会ったときについでに読んでもらった。

人に自分が書いたものを読んでもらうのはいつになっても気恥ずかしいものだ。

読んでもらって「...どう?」ときいてみたら、「文章と全く同じこと言ってるよ」と言われた。

 

というか、これだけネガティブなことを書きながら年末も再び演劇に関わっていることが重大である。

 

何はともあれ、読者諸氏はこの1年、「どう」だったであろうか。

 

前編の投稿から4ヶ月、後編の投稿を待ってくれていた方々、このクソ長くて湿度の高い夏休みの日記を最後まで読んでくれた方々に感謝をしたい。冬に読んでちょうど良いくらいの湿度の文章であったら幸いである。

 

そしてなにより、公演中止で放心状態で漂っていた僕に夏休みの間構ってくれて、その上記事にすることを承諾してくれた全ての「登場人物」

の皆様に心からの感謝を申し上げます。どうか今後も僕の奇妙で不可解な日々に登場していただければ幸いです。

 

あたいの夏休み《前編》

公演が終わったら一目散に東京をあとにし、実家に帰って2~3週間何もしない。というのが常であった。しかし、今回はそうではない。
劇団 人格社 第3回公演 「光路図」 2022年8月13日開幕、8月14日終演
まさか3回目まで行くとは思ってなかったし、自分が1年間に3本も脚本を書くなんてもっと信じられなかったが、その一方で僕は調子に乗っていた。以前よりかは陽気に人と話し、心なしかSNSの更新が増えた。この出所のわからぬ高揚感は失速の兆しであることだと気が付かないわけではないが、何かをしている自分自身のことは何もしていない自分自身よりかは好きになれたので仕方がない。大学4年だが留年が決まっており卒業は再来年のこと。細かいことはまあ公演が終わってから実家に帰ってのんびりしながら考えようではないか。平日は落とした単位を拾い、土日は劇団の稽古を行う。こういった様子の僕の生活のゴールはひとまずは舞台の幕が下りることであると同時に、東京駅23番線山形新幹線ホームを目指すことであった。
7月28日に最後の授業を終え、8月14日に千秋楽を迎えたら一目散に山形へ帰る。8月15日以降のことは知らぬ。これが僕の夏休みのプランであった。
以下に実際の僕の夏休みを記す。

~カリフォルニア・日記 夏・ヴァケイション編 2022~

7月28日(木)
一夜漬けのし過ぎで僕は昼夜逆転していた。正常に就寝し、正常に起床する方法を忘れていた僕はこの日1限からある試験に徹夜して臨むつもりでいた。「交通経済論」「日本文化史」僕はこれらの試験に持ち込むためのノートを完璧にとっていたので、起きてさえいれば、その教室にたどり着くことさえできればよかった。これで試験は終わりだ。これで夏休みだ。これで劇団のことに集中できる。唯一の困難が、起床してその教室にたどり着くことであった。そんな阿呆な。起きていることそれ自体が目的。そのためだけに徹夜する。これがどれだけ苦痛なことであるか、伝わればよいのだが。そして、大方これは失敗する。
友人の山田は前の日の水曜日に試験を終えていた。「試験が終わったら深夜の首都高ドライブ行きたいンゴね~」みたいなことを山田が言っていたので、僕は彼の借りた車に乗せてもらった。7月27日水曜日22時、車は走り出した。
首都高速道路には都心環状線中央環状線があり、工夫して走れば永遠にぐるぐると高速道路を走り続けることが出来るのである。そして、レンタカーは深夜割引というものがあるらしい。
僕と山田は交代で夜の10時から朝の7時まで東京をぐるぐる走り回っていたが、岸田首相が節電を呼び掛けた街は東京タワーですらあかりが灯っておらず、ロマンチックな夜景ドライブはゴールのない腰痛耐久レースへと姿を変えた。エネルギーの節約で灯りを落とした夜の東京を、ガソリンを無駄にしながらぐるぐると回り続けた我々はきっと地獄に落ちるであろう。というかすでに苦行を強いられている。首都高は停車できるところがほとんどない。一度交代するともう走り続けるほかは無い。僕は午前1時から午前4時くらいまでずっと運転席にいた。つけていたラジオがトンネルに入ると雑音に変わる瞬間が何度かある。またか、とおもったらそこは通った覚えのあるトンネルであった。
山田に運転を代わってもらい、僕は助手席のシートをわずかに倒す。寝るんじゃないだろうなと山田は顔をしかめ、僕は腰が痛えんだよと弁解する。自分自身と山田を眠らせないために僕は試験のためのノートを音読する。「交通とは派生的需要である。交通手段そのものには本源的需要はなく、どこかへ行くための手段としての派生需要が交通にある。」僕が持っている「交通経済論」のノートにはそう書いてあったが、高速道路に乗ることそれ自体を目的としている我々が首都高に求めているそれは本源的需要であった。はした金とありあまる時間を持て余した大学生というのはおかしな消費者である。
山田にとっては本来は一人で気ままなドライブをするつもりであったのに、僕が乗り込んだせいで1限の時間まで走りつづけなければいけなくなったことは本当に申し訳ないと思っている。
僕は飽きてくるとノートを足元のリュックに突っこみ、フロントガラスをぼーっと見上げる。朝焼けが空を染める。首都高湾岸線の上から見た東京の空は普段地面から見上げる東京の空よりも信じられないほど広く見えた。海のそばまで街にはびっしりと建物が並び、その間を縫うように首都高の高架は張り巡らされ、知っている街、名前だけは聞いたことのある街、全く知らない街、それらを一瞬で通り過ぎていく。ちっちゃい東京。でっかい空。空はどんどん明るくなる。僕は感涙しそうになった。脚本執筆が難航し3か月以上に及んだことも、2年ぶりの大学への通学の苦痛も、落とした単位を拾い集めるための久々のまともな試験勉強も、朝焼けを見たときにすべてが遠のいていくような気がした。すべてが遠のいていく感覚はときたま僕に訪れる。自分はどこにもいない。移動する電車や車の中から流れていく景色を見るときの気持ちに似ている。自分の記憶ですら他人事に思えてしまう。

夜通し車に乗っていて奇妙な疲れ方をしていた。朝6時、せっかくだからと僕らは築地に降りた。「せっかくだから」とは何のことだと問われても困る。築地では1000円あれば朝6時でも海鮮丼を食べることが出来る。刺身につけた醤油は口内炎を刺激するものの、温かい白米とあおさの味噌汁が奇妙に疲弊した身体に染みわたった。僕は、このあと、試験を、受け、そして、寝て、起きて、演劇、を、つくる、の、だった。大丈夫だ。
夏休みがはじまれば、どうにか、なる。おれは大学生だ!しかも夏休みだ!何をやってもいいんだ!なんでもできるはずだ!なぜならここは日本で!しかもおれは私立文系で留年が決まっている!おれより無敵な奴はそうはいないはずだ。
高速道路を降りてしまったので一般道を通りレンタカーを返しに行く。築地から我らが中野・杉並区方面へ向かう道すがら、新橋、虎ノ門、赤坂、六本木、西麻布、南青山、渋谷を通過した(だいぶ遠回りした)。格調高く整った街々はガラス張りの高層ビルが立ち並び、すでに太陽が高く上った青空を反射していて、僕はまぶしくて消えそうになった。車の中はエアコンが効いていて寒いくらいであったが、外を歩く人々は暑そうだった。車の中にまで蝉の声が聞こえる。六本木にも蝉がいたことに驚いた。朝早く汗を流しながら大都会の一等地を歩く高校生やビジネスマン。それを涼しいところから見ている徹夜明けの大学生。とにかく健康になりたかった。渋谷を過ぎて山手通りに入り、中野区に近づくと懐かしい風景が見えてきた。ひどく安心したのを覚えている。この車を降りて大学へ向かえば、僕はこの街の一部になることができる。そう思った。
持ち込んだノートはよく見ると所々抜け落ちてはいるものの適度に補い試験はつつがなく終わった。まともな大学生みたいなことをしている気持ちにになってどこか誇らしくすらあった。昼休みに大学の目の前の富士そばに行ってわかめがのった美味くも不味くもないそばを食ったあと、夏休みの課題をもらいに3限の上級ドイツ語(履修者が僕しかいないので試験がない)の教室へ向かった。
劇団の人から発熱の連絡を受けたのはこの時であった。

7月29日(金)
前の日徹夜をしていたのでものすごく眠ったことを覚えている。長く浅く質の悪い眠りで目が覚めてもずっと気怠かった。とにかく明日と明後日の稽古は中止となり、僕は印刷物やノートで散らかった部屋を片付けるでもなく寝床の中で怯えて過ごしていた。

7月30日(土)
公演中止を決定した。僕は優柔不断なので右往左往していたが、劇団の関係者と相談を重ねた結果上演は不可能と判断した。

7月31日(日)
公演中止を発表した。僕はPCR検査を受けに行き、家に帰るとなんだか自分もコロナなんじゃないかと不安になりもうすぐ死ぬんじゃないかと思っていままでの稽古で撮った写真を見返し寝床の中で「ああたのしかったなあみんないままでありがとう」とむせび泣きながら繰り返しているうちに眠りに落ちた。

8月1日(月)
雨のせいで気圧が低くて頭が痛かったが、これもコロナの症状なんじゃないのか、もうすぐ死ぬんだなと不安になり、自分よりも悲惨な最期を迎えた者たちを見て安心するためにWikipediaをみて極東国際軍事裁判で有罪になった戦犯たちの経歴を調べまくった。自分の高校の先輩が一人いた。先輩は巣鴨プリズンで獄中死していた。巣鴨と言えば板橋に住んでいたころによく利用していた駅である。へえ~と思っていたらPCR検査陰性の結果が届いた。
しかし世の中は穏やかではない。漠然とした不安が世界を包んでいる。7回目の波がやってきている。そうか、もう7回目なのか。iPhoneと同じでだんだん騒がれなくなる。僕は去年末までしぶとくiPhone8を愛用していて、高額になっていく一方で変化が地味なiPhoneを斜に構えて見ていた。僕の最初のiPhoneは高校1年生のときの5sだった。とんでもないものが手に入ってしまったと、これで何をしてやろうかとでたらめに興奮していたが、いまではあって当たり前のものになってしまった。そのうちコロナも変異して人体で超広角カメラが使えたりSuicaの定期を取り込めたりRadikoが聴けたりするのであろう。ワクチンを打つと5G に接続できるようになるといわれているのも納得だ。
僕は光路図の脚本執筆のために3月からPCのOneNoteやGooglekeep に書き散らかしてきたメモ(いわゆるネタ帳)を見返していた。これらは地の文(台詞とト書きでできた、役者に実際に配られる台本となるテクストを僕はこう呼んでいる)とは別のものだ。ここにはTwitterのような短いつぶやきや、光路図の執筆に必要なモチーフや登場人物に関する記述や、どうしても入れたい台詞ややり取りに関する記述(時にそれは脚本の地の文よりも筆が乗って止まらなくなり短編小説と言えるほどのボリュームになることさえあった。)が安置されている。特にGoogle keepはスマホとも同期され使いやすいため時には大学にいる間、講義中ですら書き込んでいたこともある。どうしても電子端末が使えない場合は持ち歩いている無地のノートに書き散らかす。そのノートは常に僕の枕元に配置され悪夢の誘因となっている。内面世界ばかりを発達させているから大学に友達がいねえんだよ。
これらのネタ帳をもとに地の文を構築していくが、ネタ帳の量があまりに膨大になってしまったがために、いちいち参照するのが面倒になり邪魔にすら思えてくる。しかし、このネタ帳に吐き続けたものが僕の書こうとしていることの全てであり、到底無視することはできない。このネタ帳と対面するとき、僕は愛憎ともとれるようなばかでかい心象の動きを覚えそのたびに狼狽していた(無論授業中もである)。脚本執筆と大学生活を往来するどっちつかずの日々のもどかしさが瞬時に思い出され僕は動けなくなってしまった。
前2作「グッド・バイ」と「三年王国」は、オンライン授業期間に家に閉じこもり、大学から送られてくる動画や資料には目もくれず、26単位分を豪快に投げ捨てて書いていたものだった。目の前には地の文だけがあり、僕は常に作品世界に没入していたのである。そのとき投げ捨てた26単位を拾いに行くため毎日電車に乗って大学に通い、大学生活と作品世界とを往来する。もう一年留年するわけにはいかない。でも、明日と明後日と明々後日家にこもればやれるかもしれない。そういえば明日は小テストがあり学校にはこなければならない…リュックの中には奥山諒太郎「光路図」とゼミで使うサルトル実存主義とは何か」と地方財政論だか都市問題論だかの文献があり、難しそうな言葉ばかり並んでいるのになんだかとても頭の悪い奴の鞄に見えてきてリュックを白山通りの水道橋からきったねえ神田川に投げ捨ててやりたくなったが、同じく神田川くらい汚い道頓堀川に投げ捨てられたカーネルサンダース像が復活した事件を思い出し踏みとどまった。この繰り返しの中で「光路図」は書かれたのだ。
それでもやっぱり「光路図」は今の僕の全てだったのだが、ネタ帳ばかりが積み上がり地の文はいつまでたっても整わないままだった。単純に、やりたいことはおもいつくけど、やろうとするとうまくいかない。そんな具合で4月から7月は過ぎていった。
「光路図」は、今の僕の全てなんだ。
情緒がおかしくなってしまった僕はアパートを飛び出して横浜家系ラーメン二代目武道家を目指して歩き出す。ここは夜中の2時までやってる。緊急事態宣言やまん防のころの時短営業中は夜8時で終わるかわりに朝の4時からやっていた。真っ暗になった中野の街の中で、横浜家系ラーメン二代目武道家だけが光を放ち、その濃厚なスープの香りを漂わせていた。「グッド・バイ」「三年王国」のときもそうだった。暗闇の中で、横浜家系ラーメン二代目武道家だけが光であり、真実の楽園だった。入店すると店主は『ッッスせエエエーいいいいいいいッッッ!!!!』という雄たけびを発する。ラーメンとライスの食券を買い、「お好みありますか」といういつもの問いかけに「麺固めスープ濃いめ背油入りで」とオーダー。白米の上にきゅうりの漬物をこれでもかというほど載せ、掻きこみ、ドッロドロのスープで飲み込む(米と漬物はいくらでも食べ放題である)。一心不乱に麺をすすり、チャーシューと一緒に米を口に詰め込むと僕はすべてを忘却する。麺が三分の一くらいまで減ってくるとニンニクをぶち込み自分の味覚を破壊する。とうとう麺がなくなってしまうと僕はライスのおかわりをもらい、また漬物をのせ、さらに辛子味噌をのせ、ゴマをまぶし、それらをスープが残ったどんぶりに投下する。これを混ぜておじやのようにし、この世の摂理を超越する勢いで平らげる。腹を押さえながら雑居ビルがそびえる夜空に背を向けげっぷをし、家まで歩いて帰る。道中にある坂道を自転車が勢いよく下ってくるが奴らは巧みなハンドリングで僕をよける。自分が路上の秩序だと思っている田舎の中高校生なんかにはとてもできない芸当である。ここは変な街だ。寝床に倒れこむと僕は静かに眠った。

8月2日(火)
昨日PCR検査の陰性の結果が出たとともに、横浜家系ラーメン二代目武道家を実食しコロナウイルス感染症特有の味覚障害がないことを確認した。しかし、まだ確信は持てなかったので自分の味覚を確かめるべく昼間にモスバーガーに向かった。
真昼の太陽のもとを歩くのは、なんだか久しぶりの気がした。東京は夏の盛りであった。すっかりひるんでしまった僕はTwitterの下書きに以下のように記していた。

  • 「夏は嫌い」との公式見解を示す閣議決定
  • 町内に向け高温の熱風を放出しているエアコン室外機を複数台確認。本邦への武力攻撃とみなし対応を審議中。
  • 重度のメンヘラを自認する男性(21)、モスバーガー中野南口店にて7番の番号札を目の前にした状態で発見。「ハンバーガーを待っていると店員さんが僕を探しに来てくれる。誰かが僕を見つけてくれるのが嬉しかった。」と他者への依存願望を仄めかす供述。
  • 政府与党「モスバーガーのソースは吸う」との談話を発表。野党は反発。
  • 自宅三菱エアコン霧ケ峰、連続稼働時間が戦後最長となる見通し。財源確保に課題残る。
  • 知事要請「ハンバーガーは控えて」
  • 【号外】腰骨に新型爆弾か
  • 新型爆弾投下を受け「寝たきり宣言」受諾
  • 「万年床」への国際社会の不満噴出。迫る選択
  • 首相、昨年度落とした26単位について明言を避け、早期の幕引きを図る。野党「議論尽くされていない」親の期待を裏切る形か。
  • 首相公邸にUber Eats 「場所わからない」「空き家かとおもった」との声多数。
  • 奥山前総理、路上で昏倒。地面見失い自力で歩けなくなったか。
  • 公共財占有問題「中野区立中央図書館の本を延滞 返却催促をシカト」
  • 時間がずれた腕時計を1か月以上していた事実が発覚。そもそも無職には腕時計が不要との見方強まる。
  • 才能、枯渇。「湧いて出るものと思うな」との批判も。
  • 国防総省「太陽を撃墜」と発表

なんで外出してまでTwitterをやっているのかわからないが、新鮮な気持ちを味わうと一字一句実況したくなるものである。蝉の鳴き声を聴きながら汗を流してのんびり街を歩いていると変な気持ちになる。そうか、これが夏休みなのか。たしかに僕は休日を満喫していた。この時点ではハンバーガーを食べに行っただけだが、未だかつてないほど長い空白の時間が僕の目の前に突然現れた事実に実感がわき始めたのはこのあたりだったような気がする。どうせ暇ならいますぐ実家に逃げ帰ってもいいと思っていたが、嬉しいことに僕は5日に先輩にご飯に誘われていた。5日までは、東京に居ようと思った。

モスバーガーを退店すると僕は図書館へ向かった。光路図の参考文献として借りたまま延滞していた図書を先日図書館の返却ポストへと知らないふりして投函した。その中には星と星座の図鑑もあり、地元の子供たちの関心領域に空白を作ってしまったことが悔やんでも悔やみきれない。僕も図鑑が好きな子供だった。あるはずの巻が借りられていたらキレるに違いない。しかし、幼いころの記憶を回顧しても図鑑と言うのはたいてい禁帯出であった記憶がある。7月に子ど向けコーナーに興味本位で立ち寄ったら、学研の図鑑に禁帯出シールが貼られていなかったので喜んで連れて帰ってしまった。僕は本を積む癖がある罪深い男なので、図書館で本を借りても借りただけで満足するということが往々にしてあるが、この図鑑に関しては僕はとても読み込んだと言えよう。21歳にして図鑑に夢中になるとは思わなかった。図書館はやはり素晴らしい。こんな図書館を利用できなくなったら嫌だなあと思いながら利用者カードを使って次の本を借りようとしたら、問題なく貸し出し手続きを終えることが出来た。図鑑の延滞はお咎めなしの様子である。中野区は寛大だ。
図書館の中で「上演校」のネームプレートを下げた制服姿の男子高校生が英語の参考書を抱えて寝ていた。中野区立中央図書館はなかのZEROという文化施設の中にある。この大ホールで、今日まで高校演劇の全国大会が行われていたのである。その昔、僕もあれを長野県上田市でやった。全国大会最終日、審査結果が出るまでは何もない。講習会なるものが催されるが、引退する3年生はそんなものには出席しない。ただ、最後になるかもしれない上演を終え、部活を引退して受験生としての生活に放り出される前の、つかの間の空白。それは、知らない街でなんとか涼める場所を見つけて、閉会式を待つだけの虚無の夏のひととき。あれを今住んでる家の近所で思い出すとは思わなかった。彼らは大会後の先を見据えているのだろうか。部活を引退しても受験勉強に真面目に取り組むでもなくぼんやりと過ぎていった2018年の夏を思い出す。そして、2022年の夏もやっていることは大して変わらないのではないかとも思う。
家に帰ると僕はアイスコーヒーを作った。ペーパーフィルターの中にたっぷり入れた粉は、湯を注がれるとむくむくと膨れ上がる。ただでさえ蒸し暑いキッチンにさらに熱気が立ち上り、濃厚なコーヒーの香りが充満した。ここまで蒸し暑いなかで濃厚なにおいを嗅いでいると気絶しそうになる。やばい実験をしているような気持になった。濃い目に抽出したコーヒーを、大きめの氷をたっぷり詰め込んだサーバーに注ぎ込む。パキッ、パキッと気持ちの良い音を出してコーヒーと氷は溶け合う。この瞬間を待ち焦がれていた。カランコロンとサーバーの中身を混ぜてコーヒーを冷やす。電気ケトルを使って沸かした湯でコーヒーを作り、冷凍庫で作った氷を使って熱いコーヒーを冷やす。人類はここまでしてなにがしたいんだ。熱エネルギーをふんだんに弄んで作ったアイスコーヒーは美味しかった。こんな文明長続きするはずがない。畳に寝転がり、扇風機の風に当たりながら借りてきた小説のページを捲った。
なんだ、いい感じじゃないか。

8月3日(水)
御茶ノ水、午前11時30分。ここにも会ってくれる友達がいた。彼は大学病院に勤務する精神科医である。だがおそらく彼は僕を友達とは思っておらず、患者だと思っている。
「で、最近どう?」
具合が悪いからここに来ているのではなく、毎月来ることになっているから来ているまでのことである。それにしても、夏の病院は常に過不足なく空調が効いているイメージだったが、例の岸田首相の呼びかけのせいかこの日は冷房が控えめだった。駅から歩いてきた僕はキンキンに冷えている病院の中を期待していたから不満だった。病院のくせに。
「試験があって忙しかったですね」
「あんた単位すげえ落としたもんな。今年忙しいでしょ」
「いやそっちはいいんすけど、先生聞いてくださいよ。やるって言ってた舞台なくなっちゃったんですよ。」
「コロナ?」
「まあ。」
「あらー」
「暇なんすよ」
「なるほどね」
「何してんの?」
「寝てるか散歩してるかですね。具合はよくもなければ悪くもないですね。」
「相変わらずね。どうすんの、実家帰るの?」
「どうしようかなと思ってて。実家帰っても何もしないんで。」
「ふ~ん」
「せっかく時間あるんだったら東京でなんかしたほうがいい気がしてるんですよね~」
「へえ~」
「でも7月忙しかったんで、なんもしないで休むのもいいかなとおもって。実家帰ろうか帰らないかって。」
「そうなんだ」
「なんかできそうな気がするんですよ。あまりにも暇だから。とか言ってね、なんかすごい前向きな人みたいなこと言ってますね私。」
「いいじゃん。初めて会った時よりあんただいぶ元気だよ」
「いやあ、本当に暇なんですよ。」
「大丈夫だよこれから暇じゃなくなるから」
「そうなんですよね・・・」

そうなんですよ。暇なのはいまだけ。僕は暇なのが嫌なんじゃない。じきに忙しくなる。モラトリアムの最期を悟りつつある僕の漠然とした不安。僕の関心ごとはそっちだった。僕はある人のことを思い出す。姉御。

「で、次いつ来る?実家帰るなら少し先がいいか?10月とか」
「いや、9月中にどこか。秋は悲しくなので」
「わかった」
彼はボカスカとキーボードを打つ。彼はでかい音を立てて文字を入力する癖がある。次回の予約を入力するこの音が聞こえたら次は「じゃお大事に」と言われる。
その前に僕は口を開いた。
「先生、あのですね」
「なんですか」
「聞いてくれますか…?」
「いいよ」
「一緒に芝居やる予定だった役者さんがね、一個上で今年から社会人の人なんですけど、働きながら演劇やりたくて声かけてくれたんですけどね。なんかその人が上手くいってなくて参っちゃてるんですよね。なんかこうね、私もこうなるんだなと。働きながらでもやりたいことができなくなるわけじゃないから大丈夫、というわけにも行かないというか、現実を垣間見たんですよ。」
「なるほど、傍で見ててね。」
「ええ。いやその人相当参っちゃっててね、文学部国文科の出身だけどメーカーで営業やってるんですよ。あと発注とか設計とかマーケティングとか。」
「なるほど。いい感じだね。」
「いい感じですか」
「いやなんというか、すごいね。」
「そう。すごいんですよ。じゃなくてね、他人事じゃないんですよ。僕だって。」
「あんた経済学部でしょ。ちょっとは向いてんじゃない」
「冗談じゃない」
「まあ、僕らは医者の中でも文系みたいなもんだけど、計算はするし、処置もないわけじゃないしね。なんでもやりゃあいいんだよっていうふうに思ったりはしてる」
「なんか、やりたいこととの隔たりとか感じないんですか」
「まあ、いい時代だよ。ある種。昔はなんでもやんないと食ってけない時代だったからね」
「いうて僕らみたいな人たちが贅沢なのはわかってるんですがね」
「相対的に見りゃあね。別の課題が出てくんのよ。戦後ってみんな貧乏だったから、豊かになるってゴールがわかりやすかったのね。その時期を過ぎちゃったから。その後は、みんなやりたいことを見つけましょうってなるんだけど、やりたいことが見つかんない人だっていルわけですよ。結婚も恋愛至上主義だし、恋愛結婚しなきゃいけない。仕事も自分のやりたいと思ったものを見つけて自己実現を果たさなきゃいけないっていう、ある種の宗教みたいなものに縛られてるから。素敵な何かを見つけなきゃいけないって抑圧の中に今の人はいんのよ。昔は押さえつけられたことに対する反抗というわかりやすい構図が作りやすかったけど、今はそういうわけにはいかんのよね。だから、やりたいことを見つけるって悪魔の言葉なのよ。だから大変。大変さの種類が違うのよ。むーずかしい話よ。でもまあ、なんとか生きにゃあならんのよっていう話に落ち着くってわけよ。」
「生き急いじゃいけないというか、若いうちに何でもかんでも欲しがっちゃうからこわくなるんすかね。なんか、その人は刹那主義というか、衝動性が強くて、後先考えず目の前のことに全部立ち向かってしまう。焦ってしまいやりたいことをやっておかないと自分を保つことが出来ないって感じでね。」
「仕事辞めても茨の道だし、働き続けても大変だし、ね」
「…なんか、あの人このままの生き様じゃ持たないと思うんですけど、医者に連れてきた方がいいんですかね」
「いやまあ根本的な解決は難しいでしょうね。どう生きてくかって話だから。なんとも言えんでしょう。まあ、言い方悪いけど、良いサンプルが身近にいてさ、先輩がものすごいリアリティをもって示してくれてるんだから。伝わってくるんだったら先を見据えないとねえって話になるよねある種。」
「ある種」という言葉を使い彼は決して断言しない。これが僕にとって救いだった。僕の中で言いたいことなんて決まっていて、それを人に話せるかどうか、その変につかえているものを引っ張り出すすべにたけているのであろう。彼は。
僕は自分で結論を言ってしまう。すべてはわかりきったことの確認にすぎない。
「急にリアルなディティールが迫ってくるから怯えちゃってねえ、いやだからね、今実家に逃げ帰るのは違う気がするんですね。東京にしがみついていろいろなんというか・・・」
「まあ、また教えてください」

「また教えてください」というのは、「もう満足したろうから帰りなさい。」という意味である。この人は僕の話し相手をするのだけが仕事じゃない。お後がよろしいようで。ということだ。

僕は病院を後にする。人生が僕の目の前に迫りくるが、その手前には1か月の空白の夏休みがあった。僕は御茶ノ水の坂を下って神保町をふらふら歩いた。神保町の三省堂は建て替えのため休業していたので、東京堂書店書泉グランデに寄る。そのあとは大学のある水道橋駅の方へ向かった。散歩しながら医師に話したことを思い出す。僕は、実家に逃げ帰るのではなく、東京でできることをやりたい。とは言ったものの、東京でできることというのが一体何なのかはよくわかってはいなかった。実家に逃げ帰る、といっても実家には実家の現実がある。東京で暮らす自分自身の現実をしっかりと握ってから、実家に帰ろうと思った。でなければ東京に戻ってきてから動けなくなってしまうから。僕は法学部図書館の裏にあるモスバーガーで食事を済ませる。ここは学生証を出すとセットが100円引きになる学割を行っている。大学生で良かったと思う機会のひとつである。食事を済ませると、水道橋駅から中央総武線の黄色い電車に乗る。家には帰らずに僕は市ヶ谷で降りた。
今年の高等学校総合文化祭は東京都での開催である。総文祭はオリンピックのように毎年全国各地の都道府県で持ち回りで開催される。高校生の僕は総文祭の演劇部門に挑んでいたことになるが、他の部門のことはよく知らなかった。今年、いまさら高校演劇には興味がわかなかったが、せっかく東京開催されるのだから何か見ておきたくて、僕は新聞部門の会場へやってきた。僕は「光路図」の前作「三年王国」で新聞部をネタにし、もうなくなってしまった母校の新聞部を勝手に劇中で復活させた。僕にとって新聞部は演劇部ではなかったら入りたかった部活ランキングの上位にあり、どこか憧れの眼差しで外から見ていた。僕は高校在学中に配られた学校新聞のバックナンバーを大切に保管し、去年末「三年王国」の執筆のために再び読んでから学校新聞そのものに再び興味を惹かれていた。高校の新聞部、その謎に包まれた世界の現在を垣間見る機会が、なんと定期区間の中にあったのである。
市ヶ谷駅を出て神田川沿いの外堀公園の中を歩く。中央線の線路脇に生い茂る樹木から、けたたましい蝉の鳴き声が聞こえた。都会のど真ん中に小さな森があるような感じがして不思議だった。巨木の影が落ち、木漏れ日がまばらに光る小道を飯田橋駅の方向へ歩いていくと、総文祭ののぼりが立った建物が目についた。会場は私立の中学校の建物だった。中はとても静かでエアコンが涼しく、散歩の合間に立ち寄るには最適に心地よい場所だった。そういう場所ではないのだが。最終日の午後だからか、何人か新聞記者の人を見たが他には訪れている人はいなかった。廊下にびっしりと参加校の新聞が張り出され、とても静かだった。教室の中では、新聞部の人が総文祭のTシャツを投げて遊んでいた。あってほしい風景だと感じ、僕は満足した。

8月4日(木)
家で寝ていた。昨日一昨日と外出したことは僕にとっては大きなことであり、今日くらいは寝て過ごすのも悪くはないかと寝床の中で考えたのだと思う。次の日も予定があるということに安心していた。少なくとも飛び出したくなる気持ちにはならない。なぜなら明日出かけるのだから。なんの後ろめたさもない。こうやって自分自身を納得させて考えないようにする才覚が僕にはあるようだ。あってもなににもならないが。というわけで僕は正午を少し過ぎたあたりに起きて、食パンをトースターで焼き、コーヒーを作った。ご飯を食べて食器を洗うと僕はまたお布団に戻る。今日は何をするでもない。「夏休みに朝ご飯を食べた後にまた布団で寝るのは最高だ」昔実家の近くの学習塾で働いていた頃、夏期講習を担当していた中学生が言っていた。すでに正午を過ぎたころに僕が食べたこれは朝食なのかどうかはさておき、コーヒーを飲んだ僕はリラックスしてもといた布団の上へとするすると戻っていった。至福である。こんな気怠い日に、起き抜けに自分でドリップしてコーヒーを作ることだって僕にとっては大した所業である。南側の窓からレースカーテン越しに入ってくる昼下がりの太陽の光を感じながら、僕は仰向けに寝そべり、天井を見上げ、そして満足した。
僕はiPadを持っている。大学一年の時に貯金で買った。一番安いモデルだが僕にとっては大きな買い物だった。あの当時はこの僕にさえ貯金があった。鬱が悪くなり始めて、楽しいと感じられることが少なくなっていた当時の僕は買い物依存症の傾向にあり、iPadやコーヒーを作る器具や家具を買ったりした。貯金はそのときになくなり、代わりに残ったものたちと今は暮らしている。そのiPadAmazonプライムビデオを観る。
夏休みが始まる前は食事をするのも怠く、家にいるときは横たわったまま何も考えたくなかったので30分のアニメすら集中して観る気にすらなれなかったが、この夏休みが始まっていくぶん気持ちに余裕が生まれた途端、現在放送・配信中のアニメ「リコリス・リコイル」にはまってしまった。自分でもびっくりするくらい熱狂している。ここまでアニメにはまったことはなかった。人生を揺さぶった創作物は多々あれど、生活を支配した創作物はほとんどない。「早く見せて!!!殺す気か!!!おい!!!」と狂喜乱舞しながら毎週の更新を心待ちにしているが、さすがにリコリコのことばかり考えすぎて身が持たないと思い、同じくAmazonプライムで「邪神ちゃんドロップキック」を観ながら落ち着こうと思ったらこっちにも病的にはまってしまった。「リコリス・リコイル」は登場人物が愛おしいので好きで観ているつもりだが、「邪神ちゃんドロップキック」には僕は謎の浄化作用(カタルシス)を感じている。
「邪神ちゃんドロップキック」の主人公花園ゆりねは神保町のボロアパートに暮らす女子大生である。よってストーリーは主として東京都千代田区神田神保町で繰り広げられる。僕の大学が近くにある、あの神保町である。オープニングでいきなり、上半身がギャル、下半身が蛇の悪魔「邪神ちゃん」が大気圏外から神保町の交差点に降ってきて爆発し、東京都千代田区が一瞬で焼き尽くされる。神保町の百円ショップで働いていたころに夢見た風景が、こんな形で眼前に現れるとは。
交差点だけではない。公園、本屋、カレー屋、定食屋に至るまで神保町に実在する多くのものがアニメの世界観に丁寧にそのままトレースされている。自分が何度も歩いた街で、邪神ちゃんが暴れまわっている。悪いことをした邪神ちゃんがゆりねにもっとひどいめにあわされる。日常ギャグアニメなのに容赦のない暴力描写。それがただひたすらに痛快だった。邪神ちゃんが清々しいまでにクズで、救いようのないほどクズで、僕は安心して笑っている。幸せだ。このアニメでカタルシスを得る奴は、暴力に飢えているか、ある程度のクズを自認していながら突き抜けてクズな邪神ちゃんを見て安心している、そういう奴なんじゃないかと僕は思っている。

8月5日(金)
二人の先輩が遊んでくれた。僕の公演の中止の発表があって先輩はすぐに連絡をくれたので、僕は当初はとりあえずこの日を目指して生活していたが、この五日間でひとり気ままな生活を送ったことですぐにそちらに慣れてしまい、自分が公演をやるはずだったという実感が次第に薄れていた。この日先輩と遊んだことで僕は自分がやろうとしていたこととその顛末を思い出した。ひとつ上の先輩と、ふたつ上の先輩。どちらも高校の演劇部の先輩であり、僕からすれば物書きの先輩であった。この二人の先輩の交流の中に僕が入れてもらった形である。高校3年間、同じ演劇部の近い環境でものを書いていた僕と先輩達でも、その向き合い方と出来上がった物はそれぞれである。我々はそれぞれが書いた作品を互いに観てきたが、一体どのようなモチベーションでそれらが生み出されているのかが、この日議論された。とりわけ、僕を慰める趣旨で催された集会であるため、僕の供述がその話題の中心となった。そんな集まり他にはあまりないであろう。
今も演劇を続けている先輩は、可能性の海の中から引き揚げたものたちをつなげ、フィクションを構築している。僕がやっているのは、見たことのあるもの、記憶にあるもののコラージュであり、フィクションと言うよりは体験の再構成なのだ。記憶の湖での地引網漁。なんでそうなったのかと言えば、自分に見えているものを再確認するとともに、それを他の人に伝えて不安を取り除きたい、という願望があるのではないかと供述した。先立つものは孤独であり、自身と他人両方への不信であった。その不安な僕の内面の状態と、実在しているこの世との間を媒介するために僕の作品が存在するが、実際のところその不安は解消されない。自分がこの世に踏みとどまるための足元を、作り物で、しかも舞台と言う一時的な形で固めているために、この世にいる僕自身の存在は不安定で脆い。演劇を通じて人と触れ合い、作品を通じて認められることが幸運なことに叶ったとしても、それは自分自身を慰めるための行いに過ぎず、態度を改めない限り僕は他者に働きかけるどころか自分自身の内側を凝視することに終始しているに過ぎない。ものを書くことでしか他人やこの世とつながれない奴が、自分を慰めるために書いてはいけない。しかし、自分を慰めるにしても、自分自身が何をしたいのかは永遠にわからず、納得できるためになにをすべきかわからないままである。
そこにあるのは、ただひたすらの不安。不安に対抗するため何かを書くが、そこに記述されるのは不安の心情である。書いていると不安になる。人に読まれると思うともっと不安になる。本当にこれでいいのかなと不安になる。だけれども、舞台の上では不思議なことに不安が不安ではないものに変化していくような実感を得る。この実感が、作品を作って得たいものであるかもしれないが、舞台を降りると途端にまた不安になるために、再び作品を作ろうとするがそこに記述されるのは不安である。実に虚無的な行いである。時々作品を観たり読んだりしてくれた人たちや、一緒に作っている人たちに不安な気持ちを慰めてもらおうとするから僕は極悪である。ひとりでやれや。でも、寂しい。
先輩たちは困っていた。「何がそんなに不安で、なんでそんなに寂しいのか。現に私たちはおまえのことを認めて、こうやって関わっているじゃないか。それなのに、おまえはまだ不安で寂しいのか。」僕は、優しい先輩たちにこんなことを言わせてしまった自分自身が悲しく、生きていくのが不安になってしまった。人の優しさやぬくもりを受け取れず、歪めて見ている世界から不安しか受け取ることができないことがひどく寂しくて絶望した。もうこうなったらおしまいだ。だけれども先輩はそれでも優しく、「自己肯定感が著しく低い奴に特有の思考だから、おまえだけがおかしいわけじゃない。」と肯定してくれた。そういえば、「先輩は自己肯定感が皆無なのに、承認欲求と自己顕示欲だけが誰よりも巨大なんですよ」と後輩に言われたことがある。自己を肯定できないのに、自己を他人に見せつけたい奴、それは即ち、虚無を売りつける詐欺師である。本当は何も信じていない。だけど、同情を買ってもらいたい。この商売が成り立ってしまったらそれは悲劇だと僕は思う。二人の先輩は、ある程度強固な自分の世界を持ち、その上で世界に働きかけていた。僕に見えている世界はすべて曖昧で、かといって正確で鮮明な描写をもとめているかというとそうではない。何も求めていない。そこに立って見えているものが全てで、僕はそこから一歩も動くことは出来ず、おまけに僕のその視野は著しく歪んだり欠けたりしている。
先輩は手作りした梅酒を持ってきてくれた。鎌倉で梅酒作りを体験できるらしく、そのとき作ったものだそうだ。先輩二人を僕の家に招き、三人で畳に座って飲んだ。僕は全くお酒が飲めないが、梅酒は甘くておいしく、そして僕は不安だったのでそこそこの勢いで飲んでしまった。
先輩が僕の家の本棚を見て「読書傾向に節操がないな」と言った。読書傾向に限らず、僕はあらゆる事物に関し節操がない。恥を知ったところで、僕は力なく笑うほかない。
先輩二人を駅の改札まで見送った。やはり、どうしても、寂しかった。

 

___あたいの夏休み《後編》に続く

 

yabusaka-nikki.hatenablog.com

 

風力発電所に行こう

 

 遠くに行きたかった。みんなそう思ったに違いない。僕だってもう我慢ならなかった。
 連休の頭、両親がはじめて僕の今のアパートを訪れた。僕の家は散らかっていたが、両親には真実を知ってもらいたかった。下手に取り繕うような真似はせず、本当の姿を見せることが何より安心であろうと考え僕は荒れた我が家に両親を招いた。両親は特段驚きもせず、僕は両親と会話をしながら部屋の掃除に勤しんだ。みんなで喋りながら作業をする。なんて生活をしているんだおまえは。だがまあ、大学生の一人暮らしなんてこんなものであろう。などなど。楽しそうだった。息子として適切な娯楽を両親へ提供することができた安堵が僕の中にはあった。山形には成城石井がないので、テレビでしか見たことがない。成城石井に行きたいと父が言うので吉祥寺の成城石井に行った。父はピスタチオバターとチーズケーキと焼きプリンを喜んで買って帰った。
 僕はテレビを見ないが、実家では常にテレビがついていたので、僕の家にある小さなテレビに久々に電源が入れられた。朝の情報番組で茨城のひたち国営公園ネモフィラが取り上げられていた。なるほど、連休というのはこうやって過ごすのか。茨城くらいなら行こうと思えば行けるか。気晴らしにドライブなんかいいかもしれない。日帰りならたいして金もかかるまい。というようなことを考えたらしい。

***

 僕が住んでいる6畳の和室に布団を敷いて、父と母と僕は川の字になって寝た。寝付けない僕は茨城に住んでいる暇そうな後輩にLINEを送る。深夜1時半なのにすぐ返信が来た。期待を裏切らない暇人の存在が救済になることもある。
ネモフィラ見に行かんか」
国営ひたち海浜公園
    「えっいつ???」
    「いきたいいきたい」
    「いきたいい!!!!」
    「いきたいー!!!!」

***

 僕は東京と山形の往復ばかりしていた。どっちでもない場所へは長らく行ってはいなかった。「暮らし」から離れるようなことはなかったのである。どこでもいいから遠くへ行きたいという平凡な思いつきに対し、茨城県というのはなんとなく絶妙な位置にある。なんとなく自然に囲まれた場所へ行きたい。人の少ない田舎へ行きたいが地元へはもう当分帰りたくはない。留年が決まってから僕はずっと実家に恐縮している。演劇の公演が終わり疲れ果てて何もしたくなくなると、お盆でも正月でもない変なタイミングで実家に長期滞在し食費を節約して財政を立て直すということを2回ほどやった。そういった甘えた根性で日々を呑気にすごしていたら26単位を落とした。僕が留年したのは演劇のせいではなく演劇をしていないときの無力感のせいに他ならないがそんなことは言い訳に過ぎないし、客観的にはどちらもたいして変わりがない。お前は世の中を舐めていると父親に言われた頃には実家を逃げ場だと思えなくなっていた。自分が世の中を舐めていることは薄々わかってはいたが、もう知らないふりをしていても怒られない歳ではなくなってしまったらしい。
 故郷は居心地の良い場所ではなくなっていた。外部から実家を独立した「生計」として捉えられるようになると、当然のように「じゃあおまえはどうするんだよ」という疑問が湧いてくる。知ったことではないのだが、僕は実家を飛び出した身であるし、親はいつか死ぬので、考えないわけにはいかない。実家の衣食住の全てが父親の「力」に見えてきてとにかく居た堪れない。まあ、実際全ては父親の力なのだが、その力に生かされている自らとそれに立ち向かうことのできない自らに絶望した。父親が家賃を払っている東京の僕のアパートだって父親の「力」に他ならないが、庭と駐車場を備えた一軒家はとにかく迫力が違うのである。迫力というのはつまり、実感がどれくらいの加速度で伴うのかということであり、実家で味わう実感の加速度は失神しそうなほどのものであった。とにかく、どんな角度から見ても父親はデカかった。おそらく僕は死ぬまで適わない。父親が為した多くのことに僕はたどり着くことがないであろう。父親の力はガソリン代と自動車重量税と保険料と車検費に姿を変えて力強く地面を走っている。父親の力はNHKの受信料を払い新聞もとっている。父親の力はコストコの巨大な食材に姿を変え食卓の上に並んでいる。こんなことを四六時中考えていなければならない場所で魂が癒えるわけはなかろう。とにかく現実逃避の選択肢として実家は全く現実的なものではなくなってしまった。実家そのものが最も差し迫った「現実」であるからに他ならない。ところが、大学生としての日常生活にはどこか現実味がなく、今行っていることが社会に出るための支度だとされていることはもっと現実味がない。前述のように故郷は怖い。目を背けたいものばかりで、一体何を見たらいいかわからない。わかってはいるんだ。わかってるのか?もう何もわからない。現実逃避とはなんぞや。現実逃避なんて言葉を用いる時点で逃げ続けるような生き方をしていると認めることにはなるまいか。そもそも現実とは何ぞや。行ったことのない場所に行って、見たことのないものを見る。僕にはどうしてもそれが必要なことのように思われて仕方がなかった。

 

***


 両親が帰り、僕の六畳はいつものように一人の六畳になった。部屋に一人というのはなんだかとても懐かしいような気がした。両親が来てくれたことは嬉しかったが、一人で暮らしている場所に朝から晩まで誰かがいることはまずなかったので、力が抜けた僕は寝床へ倒れ込んだ。倒れ込んだらできることなんて、インスタとTwitterを交互に見るくらいである。親指と眼球以外は動かさずに時間を葬るこの習慣は悪だとは思っているがもう病のように生活に取り付いて気がつけばそうしている。この悪しき習慣の中で僕はある重大なことに気がついた。どいつもこいつもネモフィラを見に行ってやがるのだ。僕がテレビで見た光景は、早朝、人が一人もいない、まるでお花畑が永遠に続いているような景色。だが、Twitterから得られた現地からの報告は、まるで花畑の合間を大名行列のように連なる大勢の観光客。いや、観光客と観光客の間に花が咲いているようにしか見えなかった。
 ネモフィラが見たいわけではなかったし、なんならネモフィラなんてテレビを見るまで知らなかった。どこでもいいから遠くへ行きたかった。できれば誰もいない場所がいい。人間は大学で見飽きた。なんでわざわざ遠くへ行った先で大学生の大群なんぞを拝まねばならんのだ。大学生の群れだけは見たくはない。どこか、人間のいない場所へ、できれば関東近郊で…

***

 連休中のある日、僕は朝5時に起きてレンタカーを借り、一路茨城を目指した。助手席には山田が座っていた。山田も遠くに行きたかったらしい。東京都を出て常磐自動車道路に進入すると視界は空と山と道路だけになる。その景色が時速80キロで次々と流れていくのを感じるだけで僕は少し高揚していた。おれはいまにげている!おれはいまにげているんだ!ハンドルを10時10分の位置でしっかりと握り、無心に前だけを向いて現在の速度を維持する。精神を揺るがすような事柄を意識から排除し、おれは毎秒22.222222…メートルで東京から遠ざかる。山田としゃべりながら。
 茨城県某所で後輩を拾う。僕と山田と後輩は知り合い同士なので特に困ったことはなかったのでそれは良かった。我々は霞ケ浦利根川を横目に太平洋を目指した。通り過ぎる町の眺めはどんどん寂れていく。いつまでたっても海が見えない。海かと思ったらそれは利根川であった。霞ケ浦利根川は途方もなく巨大で、特に利根川の河川敷は今まで見てきたどの河川敷とも似てはいなかった。盆地で育った僕にとって関東平野の広大な視界はとても新鮮なものに映った。国道沿いの様子は山形のものとあまり変わらないが、迫りくる山々の威圧がなく、だだっ広い空は視界が霞むまで続き、高圧電線が巡らされた鉄塔が等間隔に連なりそれが彼方まで続いていた。

風力発電所に向かう」
 それ以外のことを僕は伝えてはいなかったし、伝えることもできなかった。後輩と山田はのんきに喋っていたが、これからどういう場所に連れていかれるか見当もつかず、いくぶんかは不安をおぼえていたに違いない。僕が腰の痛みを感じたあたりで山田に運転を代わってもらう。カーナビは得体のしれない目的地へと設定され、山田はその指示に従い田舎道を進んでいく。

***


 僕は「カメラはじめてもいいですか」という漫画を持っている。父の古い一眼レフを譲ってもらい、なんとなく写真を撮り始めてから2年くらいたっているが、一体カメラで何を撮ればいいかたまにわからなくなる時がある。趣味として写真を撮っている人たちは一体何を撮っているのか知りたかったので、僕は最近そのカメラ入門漫画を買い求めた。なかなかの良著であった。登場人物は実在のカメラを操り、少しずつ操作を覚えていく。その漫画の冒頭に、風力発電所が登場する。作中で最初にシャッターが切られるのは風力発電所でのことだった。この風力発電所は実在し、ご丁寧にその所在地と行き方まで漫画には記載されていた。12基の巨大な風力発電機が一直線に連なる圧巻の光景。その名を波崎(はさき)ウィンドファームといい、茨城県神栖市波崎に位置する。僕はいつかそこへ行ってみたいと思っていた。

***

 三時間走ってだるくなってきたころだった。遥か遠方の地平線(それは水平線であったが、あまりにも地面が平らなので地平線に見えた)に微かに白い風車のシルエットが浮かび上がった。しかし、どうだろう、いくら走ってもなかなか海にたどり着かないし、相変わらず風景はずっと同じだし、風車のシルエットのサイズは同じままであった。僕はもはや恐怖を感じていたし、他の2人も焦りのような何かに駆られていたとおもう。空間が歪んでいるんじゃないのか?変な次元に飛ばされたんじゃないのか?しかし、それは土地と風車があまりに巨大なだけで、到着予想時刻を過ぎることはなく我々は海岸線にたどり着くことができた。ただ、風車のシルエットはいまだにほとんど変わらないサイズで視界の遠方に立ち並んでいた。今度は海岸線沿いに、ずっと同じ眺めの防砂林の横を走り続ける。

***

 ついに我々は風力発電所の目の前に到達した。整った見学施設があるわけではない。そこはただの海岸だ。近くにあった人気のないサッカー場の駐車場に車を停め、我々三人は縦一列に歩き、砂浜をめざし防砂林のあいだの小道へ入る。風力発電所は目前に迫ったわけだが、頭上の巨大風車と自分の距離がよくわからず、この風車の実際の大きさがどれくらいなのかは計り知れなかった。風車が立っているところを目指して歩く。巨大風車の姿はありありと見えているのに、風車の足元が見えずその土台がどこにあるのか全くわからない。近づいていることはわかるがどれくらい近いのか全くわからない。そもそも海岸までが遠い。防砂林をなかなか抜けられない。そこはかとなく不安になってくる。それでも頭上の風車は歩みを進めるごとに迫りくる。僕はとにかく不思議な感覚だった。巨大風車たちの回転するブレードを見上げ歩きながら、僕はその存在を疑っていた。眼前に見えているにも関わらず、なかなかたどり着けないそれは嘘に見えて仕方がない。嘘というか夢というか幻というか、とりあえず信じることができなかった。
防砂林を抜けるとかなり高い土手が見えた。正確には砂の山であったためそれを土手と呼称することが適切かはわからない。巨大風車はその土手の向こうにあるようであった。
 土手を登ろうと踏み込むと足は砂の中に埋もれ、靴のなかに砂が入ってしまうので我々は靴と靴下を脱いで裸足になって土手を登った。その角度はそれなりに厳しく、登るのにはそれなりの困難を要した。あとになって付近に階段らしきものの“遺構”を発見したが、それは大部分が砂に埋もれていた。
砂に足をとられながらも、はやる思いで僕は土手を駆け登った。足元から目線を上にやると、海が見えた。

(Photo by 山田)

 

***

 

今更だが登場人物を紹介しよう。

注目すべき点は3人ともカメラを持ってきたという点である。示し合わせたわけではない。しかも古いフィルムのやつだ。


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  • 山田
    • (左)撮影:私
    • 京セラ CONTAX TVSⅡを祖父の遺品から拾ってきた
    • 大学4年生(休学した)
    • 僕の近所に住んでいる
    • 連休は暇だった
  • 茨城の後輩
    • (中央)撮影:私
    • ASAHI PENTAX MEを母の実家で発見し使っている
    • 私と山田の一つ下
    • 大学2年生(浪人している)
    • 茨城に住んでいる
    • 連休は暇だった
    • (右)撮影:後輩
    • OLYMPUS OM-2N を使用
    • 大学4年生(留年する)
    • 連休は暇だった

 

かくして、奇妙な顔ぶれの写真部がその場で成立した。

 

iPhoneを砂浜にねじ込みセルフタイマーで撮影したが、手前の貝殻にしかピントが合っていない。

***


 海岸線は太陽の運航の軌跡に対しほぼ並行であったため、我々は3時間近く滞在したにもかかわらず太陽光の入射条件はほとんど変化しなかった。真上から降り注ぐ太陽光を白い砂浜が跳ね返し、そこに立つ人物は常に正面から光を当てられている。極めて陰影の少ない視界がそこには広がっていた。
 極めて陰影のない砂浜にはごうごうと強くも弱くもない風がふき、その向こうで、コンピューターグラフィックスみたいな巨大な風車のブレードがウォーンウォーンと聞いたことがない音をたてて常に同じ速度で回転していた。あまりに巨大なのでその速度が速いのか遅いのか記すことはできず、ただ物凄い勢いであったと言うほかはない。圧倒的迫力の嘘だ。その情景は、どこまで証拠を与えられても嘘に見えてしまうようなものだった。情報のない砂浜に立ち、実在を感じ取れない風車を目の前にしたその時、僕は単純で巨大な嘘の前に立つ一つの小さな存在に過ぎなかった。ウケる。ずっとウケていた。生の実感とか臨死体験を得たわけではない。そのどちらにも類することのない強烈な何かが迫るのを体感した。

 嘘みたいな景色に向かってカメラを構え、嘘みたいな情景をフレームに入れると、もっと嘘みたいな視界が得られた。ファインダーを覗いている間はずっと、まるで映画館でただ一人、シュールな映画を見せられているような感じでウケてしまう。僕はファインダーを覗きながらずっと「あははははははは」と笑っていた。僕だけではなかった。他の二人もカメラを構えながら「あはははははははは」と笑っていた。そりゃそうだ。こんなもん見たことねえもんな。どっちに向かっても嘘みてえな眺めだもんな。背後に巨大風車、眼前に水平線。その嘘みてえな眺めの中にぽつんと知ってるやつが佇んでる画面見たらウケちまうよな。

 相手が構えたカメラのレンズは私の方を向いていた。人間は目を開いている間は常に見ているわけだが、レンズを向けられると視界に入れられていることが明確にわかる。だが、これは目が合うのとも違う。ただ、視界に入れられているに過ぎない。撮影者が見ているのは僕ではなく、僕が含まれた情景である。その場の状況や文脈の多くは光軸上で断ち切られ、ファインダーの中で生成された二次元的な画像情報に収斂する。あのフレームの中にいる僕はもしかすると実際とは全く異なって見えているかもしれない。そんなことこっちからは窺い知れない。砂浜を歩いていった後輩がかなり離れた位置で振り返ってこちらに向かってカメラを向ける。僕は彼女が構図を決定するまでただ立ち止まる。僕の背後には巨大な風車があり、後輩はかなり離れた場所から僕の方へアングルを定める。その視界に占める自分の部分は一体どの程度かなどわからないので、ただ黙って真顔で水平線を見つめていた。後輩がファインダーから目を離すと、今度は僕が後輩にレンズを向ける。その様子を横から山田が見ていた。

 

Photo by

私|後輩

山田|後輩

山田

私|後輩|私

私|後輩

後輩|後輩|山田

 

 

 

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 よくロケ地になるらしいがこんな場所でどんな作品が撮れるのか。ここで撮られたとされる映像をある程度探してみる。特に意味はないが凄味のある画を撮るには最適なんだろうと思った。
 意味不明なミュージックビデオが好きだ。カラオケで歌ってる最中に画面に流れるやつも好きだ。シチュエーションが謎。表現意図が不明確なカットの連続。なんとなく画になるだけの情景を延々と繰り返す。まるで夢のよう。それぞれの画面構成に意味なんてない。ただ、なんとなく良いなと思うものが並んでいるだけ。空疎であればあるほど良い。美しさに内容なんてあってたまるか。こういうのも「エモ」に包括されたりしませんか。そういえば最近エモいって聞きませんね。コロナがあったからですかね。みんな情緒が希薄になってますか。わたしはむしろ育てましたがね、情緒を。あってほしいような、架空の情緒を。あるときは本の中で、またあるときは映画を見ながら、アニメを見ながら、漫画を読みながら。家の中で育てた架空の情緒をそれでも外の世界に求めていた。育ててしまった架空の情緒に自ら騙されて、それでもそんな情緒があってほしいと願う。だけど、外に出て「本物」を、たとえば連なった12基の巨大風車を目の前にして、その存在に圧倒的な「嘘」を感じる。圧倒的な嘘と、架空の情緒は、気味が悪いほど重なり、そこに立つ自身の存在の実感は限りなく希薄になる。光景が嘘で、情緒も嘘。存在の実感は希薄。しかし、私は間違いなくそこに立っていた。なんかなにもよくわからないので、ずっと笑っていた。

 

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 今一度この3枚を見比べていただきたい。僕が繰り返し主張した「あの風車が実際どれくらいの大きさなのか、どこまで近づいてもいくら眺めても全くわからない。」という感覚が何となくわかっていただけるのではなかろうか。

 なんか、エヴァンゲリオンみたいな海辺だと思った。人間が他に誰もいないのも、スケールがよくわからないデカい風車の存在もそう思わせる一因だったと思える。単に遠近法やレンズの圧縮効果の影響に過ぎないのだろうが、対象があまりに巨大だと認知がうまくいかなくなる。僕が言いたいのはそういうことだ。


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 風力発電所茨城県のはずれもはずれに位置していたので、この日過ごした大部分は移動時間であった。片側2車線の道路を60キロで走る。国道沿いに並んでいる商業施設や飲食店やその他の店舗は、看板の大きさや駐車場の広さなどの建築様式に至るまで地元の山形県で目にするものと酷似していてもはや不気味であった。我々は沿道で見つけたココスに寄って遅い昼食をとり、来た道を戻った。また3時間走り続けるのである。もう散々お互いの近況や最近考えていることは語り合い、議論は尽くされていた。我々は、我々が出会う高校時代より前、中学の頃やそれ以前のことについて話した。変な先生がいたとか、帰りの会や学級活動や委員会というのはおかしな規範を生み出していたとか、土日や連休は部活の練習試合とか遠征とかがあって、夏休みには合宿とかがあったとか、弱かったので大会は暇だったとか。3人とも同じ県内の、すなわち田舎の公立中学校を出ていたので、不気味なほど原体験を共有していた。

 帰り道は長いこと山田に運転してもらった。山田は荷物を助手席に置き、僕は後輩と並んで後部座席に座った。我々は砂浜で歩き回ったためそれなりに疲れていて、後輩も僕も少し眠たげだった。車は低い音と鈍い振動を絶えず響かせながら走行する。走行音と振動、車内に差し込む西日、田んぼや雑木林や電線や鉄塔、それらが延々と続く風景、そして、中学校について覚えていることの話。疲れてぼんやりとした意識でそれらを感じ取ると、まるで、自分は今中学生で、連休中の部活の遠征か何かの帰り道の車の中のような感覚を僅かに呼び起こした。不思議だった。中学校は7年前に卒業し、今は東京に住んでいる大学生で、運転免許を持っていて今日だって何時間も運転したということが逆に嘘みたいだった。中学校なんてろくでもないところだったし、地元は面白いことがないから東京に引っ越したわけで、別にあの頃に帰りたいとも思いはしなかった。だが、本当に部活終わりに車の後部座席でまどろんでいたあの中学の頃から、高校に進んで大学に入って留年した現在までの間に自分に起こったことの実感がいまいちわかなかった。まあでもこの車は東京に向かっているわけだし、22時30分までにレンタカーを返して、その後自分のアパートに帰ることになるのだから、別にどうでもいいと思った。山田と運転を代わり、ハンドルを握ってミラー越しに自分と目が合うと、そこに映っていたのはまごうことなき奥山諒太郎21歳日本大学経済学部4年GPA 1.2劇団人格社主宰であった。自分でも信じられないが僕は立派に時速50キロでしっかりウインカーを出して目視して幹線道路に合流することができる。

 

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 フィルムカメラというものはデジタルカメラスマートフォンのように撮影したものをすぐに確認することはできない。カメラからフィルムを取り出し、写真屋さんに持って行って「現像」してもらわなければならない。もちろん金がかかる。なんでそんなことしなければならないのかと言われても、昔はそれが当たり前だった(といっても僕だって現役フィルム世代じゃない)としか言いようがない。そんなことをしなくて済むようにデジカメが発明され、スマホに搭載されてフィルム代現像代を払わずとも撮りまくれるようになったのだ。じゃあなんでわざわざ金払ってフィルムで撮るのか。そんなやつ馬鹿なんじゃないのか。たしかに、なんでこんなことしているんだろう。でも、アナログで撮ることそれ自体はかなり新鮮な体験だし、フィルムで撮った写真には特有の良さがある。留年して人より学費を多く払ったやつしかできない体験みたいなものだ。どちらも金持ちの道楽に過ぎねえかもしれんがな。

 我々は海岸で大喜びで写真を撮ったので、すぐにその結果を確認したかった。フィルムは一本当たり24~36枚しかとることができず、一枚一枚大事に撮らなければならないが、全部使い終わらないと現像には出せない。撮り終わる前に現像に出してもいいけど、安くても1本千円前後のフィルムを使い切らなくてもいいならの話だ。僕と後輩はそれぞれ一本分撮り終えていたが、山田のフィルムは数枚残っていた。僕と後輩は早く撮り終えろと思っていたし、山田も早く撮り終えて現像に出したいと思っていた。

 後輩が住む地方都市には巨大ショッピングモールがあり、その中に写真屋さんが入居していたので我々はそこへ向かった。到着したのは18時ころであった。ショッピングモールの中の雰囲気さえ、山形のものとうんざりするほどよく似ていた。

 レンタカーの返却時間がある我々は急き立てられ、何か、何か撮るものはないかとショッピングモールを歩いたが、屋内はどこを見ても山形県天童市イオンモールと酷似していて本当にうんざりする。我々はショッピングモールの屋上駐車場へ出た。広い空が夕焼けに染まっていた。

Photo by 山田

 

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 何が言いたいか、最後まで読んでくれた貴兄には端的に示して差し上げよう。

  • こまごまとした現実の集まりより、巨大な嘘の方が、明らかにデカい体験である。
  • 現実逃避する者にとっては、現実なんてどこにもないのかもしれない。

 

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《追伸》

なんでタービンが回ると大丈夫なのかすこしだけわかった気がしました。またこんど!

 

 

生き急ぐ走り書き

今、メガネをしないで文章を打っています。マジのブラインドタッチです。入力されていると信じてキーを叩いています。メガネをかけずに打っていると、自分が書いた文章を一切顧みずに現在のカーソルだけを追いかけざるを得ません。そうだ、現在のカーソルだけを追いかけるべきなんだ。風呂の中で考えたことを、忘れる前に必死になって打ち込んでいます。なのでメガネをしていません。髪は濡れています。服も着ていません。風邪をひきそうです。そうだ、風邪の恐怖を顧みず、余計なものは身につけず、書いてきたものには目もくれず、現在のカーソルだけを追いかけるべきなんだ。止まるな。風呂上がりにどこまで行けるか。決して振り返ってはならない。うちに脱衣所がなくてよかった。脱衣所に洗面台なんかがあったりして、それでもしそこに鏡なんかがあったなら、私は、その鋭い眼光とキレた思弁を自らに向けなければならなくなる。そんなものに私は耐えられない。なぜなら私はなんでもキレてしまいそうなくらい鋭くキレているからだ。