カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

あたいの夏休み《後編》

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9月12日(月)

目覚めたのは朝の7時半。南と西の窓のカーテンが全て開いていて、僕は光に包まれていた。それはあまりに突然の目覚めで、どの記憶も現在につながっていなような感じがした。眠りから覚めたような感じがせず、ただ目が開いただけのように感じた。そして、記憶が継続していない。どうしても納得いかないので、仰向けのままここまでの経緯を思い出してみる。思い出そうと思えば思い出せるのが不気味で、それはまるで、蓋を外して中身を確認するような感覚だった。自分の記憶なのに。最後に見た時計の針は4時と5時の間を指していた気がする。だからこんな早くに目覚められるはずはないのに。たしか、最後に見たその時計は腕時計だった気がする。だってデジタルじゃなくてアナログの針だったから。その腕時計は机の上にあって、その横にウイスキーの瓶があった。そうだ。珍しく酒を飲んだんだ。夜中の4時に。重いふたが持ち上がり、中にある記憶が見えてくる。なんで酒なんか飲んだ?蓋をされていた事実がそのなかに眠っていた。夏休みが終わったのだ。
起き上がり朝食を食べ終えると8時半になっていた。最初の講義は13時から。4時間半、昨夜の絶望の続きのための時間が用意されていることになる。現時点のこの瞬間では平気だったが、耐えられなさそうな気がしたのでまた横になって寝てしまおうと考えたが、眠ることは出来なかった。もちろんあきらめはついていた。逆らっても無駄だ。この4時間は絶望の続きなんかじゃあない。ゆっくりと、丁寧に準備を進めるための4時間だ。耐えられなさそうな気はしたが、あまり眠っていない上に酒が残っているので余計な感傷は意識には浮かばず、不思議と素直に大学へ向かうことが出来た。
       

「前期の試験を受けていない人は後期この授業いくら頑張っても無駄です」
前期に試験をやったなんて知らなかったが、それは知ろうとしなかったからであろう。7月、僕はまともな点が取れそうな授業のことしか考えていなかった。いまはもうないもののことを考えても仕方はない。知りたい情報は得ることが出来た。先生さようなら。また来年お会いしましょう。僕と同じような境遇であろう数人が大教室を後にした。僕は行くあてもないので席に座りながら夏休み前のことを考える。頭をひねって思い出すまでもなく、克明な記録が残っている。この「カリフォルニア・日記」に。自分は今授業に出席し、聴くでも聴かないでもなくこの場にいるが、この授業は受けても無駄であり、そしてそうなった背景は自明である。そしてあれが(前編)しかなかったことを思い出した。さらなる追求が必要であると感じ、かならずや(後編)を完成させねばならないと再び強く思った。

 

あたいの夏休み 《前編》 - カリフォルニア・日記

 

・・・・・・・・・

 

8月6日(土)
僕の部屋には本棚があるが、これは本棚としての機能を割り当てられたただのカラーボックスである。このカラーボックスのほかに、入りきらなかった本が段ボールで自作した本棚に格納され押し入れに収まっている。
今年の5月の連休に両親が僕のアパートを訪れたとき、このカラーボックスが倒壊しかかっているのと、押し入れの空き容量がなくなりつつあるのを見かねた母が通販で本棚を購入し送ってくれた。
カラーボックスの寸法をLINEできかれたので、測って送ると、横幅が同じで背の高い本棚が届いた。なんて、なんて良い親を持ったのだろう。後は組み立てて蔵書を移すだけなのに、部屋が散らかっていて組み立てられなかったり、時間がなかったり、時間があってもずっと寝ていたりで、組み立てられず梱包されたままの本棚が3か月ほど部屋の片隅に安置されていた。親の思いやりを、この息子は何だと思っているのか。
母と電話するたび本棚は組み立てたかと聞かれるのでそのたびに誤魔化していたが、十分な時間を手に入れたため僕は本棚の着工を決意した。《定礎 令和4年8月》
箱には「必ず二人で組み立ててください」と書いてあったので僕は山田くんを招聘(しょうへい)した。本来は8月4日に彼を招聘することになっていたが、彼は当該期日の日中から夜にかけて熟睡しており、一方の僕も本棚を組み立てる準備が整わないまま寝床で邪神ちゃんドロップキックを見ながらへらへら笑っていたので、これといって揉めることはなく着工は本日8月6日へと移された。
とにかく部屋が蒸し暑く、エアコンを入れながら作業をしたが、ホコリが舞ったので換気をするとまた暑くなり、暑くなった部屋にまたエアコンを入れるのはなんか嫌で、作業効率は著しく低いものであった。カラーボックスから出した蔵書が平積みされ、部屋の半分を占拠した。何かをどかそうとすると何かをどかさなければいけなくなり際限がない。収納を作ろうとしているが部屋は散らかるばかりだ。工具を探し出そうとするとまた何かが動く。たしかに部屋は余計な物がたくさんあったが、こんなにも物が多いとは思わなかった。なぜこんなに増えたのだろうかと考えても、最初からそこにあったようにしか思えない。すべては生活の痕跡である。決して部屋を汚そうとしてこうなったのではない。生活がうらめしい。本来は反省すべきであろうが、なぜだかうらめしいだけであった。見苦しい。一人暮らしが出来る人は立派な人だなと実家にいた時代は思っていたが、一人で暮らしているだけで立派な人になることはできず、荒れていく一方の様子を当事者であるにもかかわらずただ傍観するだけである。みんなどうやって生きているのだろう。
稽古をこの家でしていたころは、ある程度は保っていたが、寝起きだけの場所になってしまうともうなんのこだわりも生まれず決壊した。今日、山田を招聘したことが何かのきっかけになるかとも考えたが、なんで8月の上旬はこんなにも蒸し暑いのだろう。
「必ず二人で組み立ててくださいというのは、部品を押さえる側とねじをしめる側に分かれる必要があるということだ。山田くんは受けと攻めどっちがいいかな?」
「知らん。決めてくれ。」
気怠い。
なんとか本棚は組みあがったが、本や書類を整理して収納するところまでは行かなかった。
この日は夜から用事があった。人格社第一回と第二回の公演でお世話になった役者のはるひさんの出る舞台を観に山田と出かけるのだ。はるひさんの団体でも感染症関連の問題が発生し大変だったらしいが、なんとか本番は守り抜いていた。これを観ることも叶わなかったら本当に絶望していただろうから、なぜか勝手に励まされていた。本当に、みんなどうやって生きているのだろう。
知り合いが出ていても出ていなくても、お芝居を観るときに思うことはいつも同じである。
「うらやましい。おれにもやらせろ。そんな楽しそうに。ずるいじゃないか」
もちろん、楽しいばかりでなく、上演を迎えるまでの苦しみだってよく知ってはいるが、それでも、おはなしの中に連れていかれるとそんな気持ちになる。劇場が真っ暗になるとわくわくしてしまう。暗闇の中で黙って待っていると僕自身はこれまでの時系列から切断されて、違う世界に閉じ込められる。実生活の中では稀有な体験である。
実生活を好きになれれば、僕はもう劇場に来なくて済むようになるのだろうか。生活に自分が閉じ込められ、劇場の中に無限に拡大していくような何かを求める。そうした逆転した認知を正せるだろうか。と考えたところで、劇場の舞台の上で僕が今まで繰り広げてきたのは実生活の延長であった。
僕にとって、東京よりも、劇場よりも、寝起きする六畳よりもはるかに小さい頭の中におさまっていることが全てなのに変わりはない。広大なインターネットの中でこのカリフォルニア・日記が占めている割合に関しても話は同じことだ。
それなのに、なぜ…と劇場に来るたびに考えてしまう。とはいえ、小さな小さな僕の頭でできる唯一のことは考えることそれ自体だけである。
舞台を観終わった後、山田と火鍋を食べに行った。火鍋ははじめてだった。パクチーが、細かく刻まれたパクチーが、感じたことのない刺激を喉に催し、90分コースのうち実に50分はむせていた。山田がドン引きしている。涙をぬぐいながらむせかえっている間も、僕は劇場について考えていた。

人は誰しも人生という劇場を持っている。

人生劇場(神田神保町にかつて存在していたパチンコ屋の名称)

8月7日(日)
そびえたつ真新しい本棚の中には何も入っていない。濃い色の細長く四角いシルエットはまるでモノリスのように六畳の隅に屹立していた。

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部屋の中央には平積みされた蔵書、そして、整理していない前期の授業の資料、書きかけの台本やネタ帳が重ねてある。本棚を動かした経路だけが、竜巻が通り過ぎた跡のようになにもなかった。そして、部屋のはじ、襖に張り付くように布団が敷かれ、僕は横になっていた。
台所には行き場を失ったカラーボックスが置かれ、こたつは立ったまま眠っていた。どこで飯を食っていいかもわからない。
家で一人の時間が多いのだから部屋はすぐに片付くだろうと思ったがそんな容易くはなかった。目が覚めると視界は憂鬱で、起き上がることはなく、ただうずくまっていた。布団の上だけが、散らかっていなかった。
11時くらいだったか、枕元のスマホが振動した。この程度の刺激ならば辛うじて反応することが出来る。
姐御からLINEだ。
「ていうか奥山さん今日暇?」

姐御というのは姐御である。歳は僕のひとつ上で、今は苦しみながら会社勤めをしている。去年の冬、第二回公演「三年王国」に参加してくれた。なんでも、今から4年前の高校演劇の全国大会から僕のことを知っていたのだという。不思議な巡りあわせだ。姐御はなかなか決められない人生を送ってきた。演劇に身を焦がしながら、どうにも続けることができずに、演劇をやったりやらなかったりで高校から大学をすごしたという。なんとなく就活をすることになり、夏に内定を得てから書いた卒業論文で学術の世界に惹かれていったが、結局就職した。だがこれは結果を述べたに過ぎない。姐御は常に揺らいでいる。演劇とは距離をおき、もう関わることはないと思っていたのに。このまま演劇との縁が完全に切れてしまってよいのか、卒論を書き終わったころ姉御は揺らぎに堪えかねて人格社に連絡をとり、僕と知り合った。そのあと姐御は卒業を迎えることになる。もう学問とはきっぱり決別し社会で生きていけると思ったのに。しかし姐御は大学の外に出てから自分がしなければならないことを大学の中に発見してしまい揺らいでいた。大学院に行きたくなってしまったのである。
4月、新学期を控えた僕は留年が決まって後がなくなり、焦燥に青ざめていた。だが、姐御はもっと青ざめていた。姐御は文学部国文学科で近世文学の研究をしていた。ほかにも短歌や俳句など、いろいろやっていた。その姐御はいま、唯一内定がでた都内の機械器具メーカーで働いている。姐御もまた焦燥に駆られていた。正社員になったことで、何かが急速に失われていることに。古典や民俗学、人類学、そして小説や短歌、俳句、演劇などに触れて多くの時間を過ごしてきた人間が突然ある日を境に毎日機械工場に通うことになるとどういうことになるか、姐御は克明に僕に語って聞かせてくれた。語り部は光を失った瞳で虚空を見つめ、聞いている僕は血の気の失せるような恐怖が迫りくるのを感じがたがたと震えていた。なんでこうなった。わたしはどうなるんだ。責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。自身である。全部自分のせいだ。さもなくば、運命を呪うほかない。姐御が述べるおのれの生き様とおのれ自身を導いた運命への呪いと嘆きの言葉。それは僕自身がこれまで内心で述べてきたものとどこか同じ類のもののように感じられた。
姐御と僕は一致していた。主に悪い部分が。
なんというか、不気味なほど自分を見ているような感じがした。高校時代、演劇部での活動以外に消極的で実に不真面目な生徒だったという昔話が自分のそれと完全に一致した時点で何かがおかしいとは感じていた。一年だけ学年が上の姐御は、僕が今いる地点を通りすぎ、新入社員となり死んだ目で労働に対する呪詛を唱えている。これは近い将来の自分自身の姿なのではないかと戦慄した。
我々が慰め合うことはできない。僕はもがきながら光の届かない海の底へと沈んでいく。「たすけてくれー」僕の真下、もう少し深いところに姐御がいて「奥山さ~ん…」と言っている。その先には底のない暗い闇が続いている。
姐御が「私ってどうしたらいいんですか~???」と言う。しかし、それは少し先の僕が言っている言葉でしかない。なんて言えばいいんだ。「どうにもなりませんね~」
「私ってどうしたらいいんですか~???」と言いながら、姐御自身の中にはいくつかの答えがあった。大学を出て、工場の中で早々に《死期》を悟った姐御には野望が芽生えたのである。私のたどり着いた場所はこの工場ではない…
4月の中頃、授業が2年ぶりにオンラインから対面になり、僕は大学一年生以来久しぶりに家と学校を往来して日々を過ごしていた。朝8時前に起きて、早起きできた日は新宿駅でコーヒーとホットドッグを食べ、授業に出て、賑わっている学食を避け大学の目の前の富士そばで店内BGMの演歌を聴きながらそばをすすり、空きコマは西神田公園でブランコに乗り、午後の授業を終えて家に帰り、米を炊いて食って風呂に入って11時半には寝る。この毎日を続けていれば、この日々を送ることだけに一年間注力すれば、大学を卒業することは決して困難ではない。両親からもらった大学生活の残りを、余計なことは控えめに、大切に、つつましく過ごしていくのだ。卒業し、立派に職を得てはじめて、5年間になってしまった大学生活を許してくれた両親に顔向けできるというもだ。と、自身に言い聞かせていたが、去年やっていたことが余計なことだったのか、うまくやることができればよいのでは?それにしても、立派に職を得るとは?立派に職を得たらどうなるんだ?姐御は…などと、思い返せば常にそんなことを考えていた気がする。頭を抱えていた。胃がキリキリしてモスバーガーが食べられない。ハイライトに火をつける… 薬を飲んでも不安になるようなことを考えて眠れない。ハイライトに火をつける… 脚本を書いていたころ、どうしてもだめな日にたばこを一本だけ吸って、だいたい一か月に20本入った一箱がなくなっていたが、それが毎日になりだいたい二週間で一箱になっていた。落ち着かない春の空気を煙で誤魔化していた。そんな頃である。
「奥山さん、次の公演って決まってないんですか?」
「私、会社が8月の10~16日までお盆休みということに気付いてしまって…」
「ちなみに、ちょうどこの時期にやってる演劇祭がいま募集してるんですよ」
人格社の第三回公演が動き始めた。

8月7日の僕の日記に話を戻そう。姐御が僕の住む中野に来た。
人格社の稽古は出演者である姐御が会社員であるため土日に集中していたため、6月末から本番まで姐御は土日にほとんど予定を入れていなかったが、公演がなくなって、なんにもなくなってしまった日曜日だった。
明らかに、無理をしていた。姐御も、他の人格社メンバーも。みんな、演劇以外の日常がある。自分の日常を削って時間とお金を捻出し、僕の作品に委ねてくれていた。今までの公演だってそうだったけど今回中止になって僕はその事実の重さにやっと気が付いた。そして、明らかに時間が足りなかった。僕なんか最も暇な部類で、たまに行く派遣以外に決まったバイトもせず、ほとんど実家からの仕送りだけでけちけち暮らし、そんな奴が台本書けないからって稽古が遅れて時間が無いなんて、冗談にもならない話だった。自分だけがひどい目にあっているどころか、自分が一番贅沢で、わがままで、そして、恵まれていた。時間だってあったはずなのに。同じ大学生であっても、制作をしてくれていた後輩は、バイトに行き、就活も始め、大学の友達とも付き合い、そしてこの主宰の面倒まで見ていたのだ。大学の人間関係が皆無で、とっとと家に帰っていじけながら僕が白い煙を吐いている間に、みんな懸命に生きていた。おかしい。どうかしている。みんなどうやって生きているんだ、ではなく、どうにかして生きていたんだ。

姐御と僕はいつになく力が抜けていた。最後に会ったのは中止になる前の稽古だった。あのとき僕は、焦っていたのに何もせず、ただ発狂していた。姐御は金曜の仕事の疲れを振り切って土曜の稽古場にやってきて、日曜の稽古の帰りには月曜からの仕事への恨み言を述べていた。あれから二週間、僕は何もない夏休みのただ中にいて、姐御は次の水曜からお盆休みだった。本来は小屋入りだったが、なんにもなくなったお盆休みである。我々は漂うように日曜の商店街をふらふらしていた。やたらと人が多かった。ちょうど中野駅前大盆踊り大会が行われていて、往来には浴衣を着た人々も多くみられた。僕が育ってきた田舎の祭りなんて人が集まるとはいってもたかが知れている。都会の祭りはなんだか珍しくて、いつもとはまるで別の街のようだった。楽しそうな人々を横目に、我々はぼんやりと気の抜けた会話をしていた。
「奥山さん、わたしは大学院に行きます。」
「姐さんがOLなんてもとから何かの間違いでしたからね。会社にはいつまでいるんですか」
「ボーナスもらったら辞めます」
「終わりが見えてて、目標があって良いじゃないですか。夢じゃん」
「目標つうか夢とかじゃないんすよ。こうするしかなかったんですから。」
「たしかに、いるべき場所に行くだけということですか…」
「だからそんな簡単に終わりなんてないですよ。人生だから。これ。」
「ああ、なんか、人生が迫ってくる感じしますね。」
「奥山さんが今やってるのも人生ですよ」
「…」
「奥山さんはどうするんですか」
「とにかく大学を卒業することを目指さないと。その後は、たぶん働くと思います。生きていくとすれば。」
「わたしみたいに、なりますよ。」
情けなく笑うしかなかった。互いに。踊れるもんなら踊りたかった。

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僕は姐御にきいてみる。
「人生って好きですか?」
「人生はわかんないけど、世界は好きかな」
「じゃあ人生が好きなのと一緒じゃないですか?」
何度でも言う。我々が慰め合うことはない。互いに何かを補うわけでもなければ、力を与えることもない。あるのは、ただひたすらの嘆き。暗く湿った言葉の数々。我々は、被害者ぶるのをやめた方がいいと思う。加害者なんていないし、みんな平等に困難を抱えている。その困難の大きさを、どう自己評価するか。それだけが問題な気がしてくる。特に、街を歩いていると。そんな我々の不毛なやり取りや言葉からでも、どうにか生み出せるものがあるとしたら、それはやはり舞台だったのかもしれない。
「姐さん、いつか分かりませんけど、いつか、舞台に立ってくれませんか。」
「私もやりたいですけど、院試受かっても、学費とか生活費のためのバイトとかもあるだろうし、他の人探した方がいいと思いますよ。」
「あんたみたいな人間の替わりがそう簡単に見つかるとは思いませんがね。」
「探せばいますよ」
「姐さんにやってほしいと言ったら?」
「え~ッ うれしいな~」
姐御の返事は曖昧だったが、そもそも僕の「いつか」だってひどく曖昧な発言だ。
ひとつの身体と頭で一度に出来ることはそう多くはない。まして何かを全うしようなんて。4月からの3か月で僕は思い知ったはずだ。姐御もそうに違いない。働きながらほかに何かするのは無理がある。働くのにも無理があるというのに。姐御は大学院へ行くことを選んだ。僕は何か選べるだろうか。
晩飯の頃合いになって、姐御と二人で味噌ラーメンを食べた。店の中は人でいっぱいで、冷房が入っていてもひどく暑く、麺をすすると汗が止まらなかった。考えるのが嫌になるくらい暑い夜だったはずだが、姐御と別れて一人で帰りながら考えないわけにはいかなかった。この日はたくさん歩いた。僕はハイライトに火をつけることはなく、静かに眠った。

8月8日(月)
朝8時に起き、中央線に乗って東京駅の方へ向かった。高校の同級生が山形から東京に来るので会いに行った。彼女は演劇部の同期だった。演劇部の同期たちは僕を含めみんな卒業後県外へ出たが、彼女は山形に残っていた。そんな彼女がわざわざ山形から東京まで来て今回の舞台を観に来てくれることになっていたが、中止の連絡をすることになってしまった。その後は僕は暇になったので遊んでもらった。彼女は夜行バスが早朝に着いてから夕方のイベントに行くまで暇なので、暇つぶしに付き合ってほしい。とのことだった。
「15時にそこに着くまでの道中で面白そうなものを探したけど、3000円くらい要るかもしれない」と僕が言ったら、「3000円くらい持ってるわ」と言われた。たしかに、旅先で3000円も無かったら困る。僕がケチなだけだったことがわかった。
「あんたもすっかり東京の人間だね」という彼女の言葉に僕は自分でもびっくりした。たしかに、僕は東京の人間なのかもしれない。僕は東京の人間というのはもっと別の場所にいるものだと思っていたが、傍らから見れば、僕がいる場所はまぎれもなく東京であった。そんなのは当たり前なのに。東京って一体何なんだ。
電車の中ではやはり演劇部の同期たちの話をした。もう4年生なので、当然みんな次の場所が決まりつつあった。僕は先の話が全くわからない。僕が出来るのは昔の話だけだ。だが話題には事欠かない。あそこは変な演劇部だった。変なことがたくさんあった。思い出話の間で「でもあんたがいちばん変だったよ。」と言われた。
彼女は演劇部で役者だった。比類なき存在感の。3階席までぎっしり詰まった1500人収容の観客席に向かって、全国大会の舞台の上でヒロインを演じていた。僕が書いたセリフから読み取れる情報の量を1単位とすると、彼女の存在から放たれる情報量は約50単位はあったと思う。誇張なしに。なんでこういう現象が起こるかと言うと、当時高校2年生だった私が書いた著しく情報の少ない脚本を、役者たちと舞台美術と演出が何とか補っていたからである。とりわけ彼女が演じたときの説得力は不思議なものだった。成立していないものを成立しているように見せる。そういった組織的な努力の賜物のような舞台だった。最後の最後まで僕の主張は成立していなかったが。あそこにいたのは精鋭ばかりだった。演技も、部長の指導力も、動きの演出も、脚本改訂も、照明も音響も、舞台装置も。そして、演劇部の顧問も。実際に、僕の書く力は及んでいなかった。一人でなんにもできないことが悔しくて、自分でおはなしをおわらせることが出来ると証明したくて舞台に戻ってきたが、一人でなんにもできないことに変わりはなかった。おはなしを終わらせる・成立させるという当たり前のことがいかに困難なことかを再認識するばかりであった。
彼女もそうだったし、演劇部の同期で演劇を続けている者はあまりいない。あれだけ賢かったら、まさか演劇を続けるなんてことはしないのであろう。などと考えることもたまにある。演劇部で優秀だった者たちは、演劇部に限らずあらゆる場所で活躍できるほどそもそもが器用で優秀なのだ。演劇部であったことに固執し続けているのは自分くらいなものだと思っているが、それでも、同級生が観に来てくれると嬉しい。

この日は朝から天気が良く、視界に入るものすべてが暑苦しく思えるほど光に満ちていた。上野駅から上野公園を横切り、旧岩崎庭園へ向かう。平日の午前、人のいない上野公園では空の青と植物の緑が過剰なほど真夏を演出していた。

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庭園を散策した後地下鉄で移動し、正午を過ぎたころに昼食をとった。僕はコーヒーとサンドイッチを食べたが、彼女が食べたのは紅茶とケーキだけだった。朝から何も食べていないと言っていたのに、これで足りるのだろうかと思ったが、平気だという。
食事をとったあと、美術館の展示を見て15時まで過ごした。展示の中に、ピカソの「アーティチョークを持つ女」という知らない絵画があった。僕はこの「アーティチョーク」がなんなのかわからなかったが、彼女は知っていて「フランス料理とかで出てくる野菜だよ」と教えてくれた。ここで知ることがなかったら当分僕は知る機会を得られなかったと思う。すごいなと素直に思った。
15時で解散した。それなりに歩いたと思うが、彼女は平気そうな様子でライブの会場に向かった。僕は家に帰ってひやむぎを茹でながら、朝からケーキしか食べてない彼女が昼過ぎまで歩き回った後ライブに行って、終わったら夜中にバスに乗って山形まで帰ることを想像した。かなりたくましいと思った。僕だったら途中で死んでいる。なんだか悪いことをしてしまったと少し思った。
インスタグラムを見ると、彼女が私が写っている画像をストーリーに投稿していた。「パパ活」という文字を添えて。たしかにパパ活のようなものだったかもしれない。僕の方が金を持っていなかったが。

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8月9日(火)
なにもしていなかった。金曜から月曜までそれなりに活動をしていたので一日寝ていてもよいだろうと考えた。

8月10日(水)
昼頃から動き出し、日本橋高島屋で行われていた「まれびとと祝祭」という展示に行った。
岡本太郎のね、写真がいいんですよ~」と姐御が言っていたので行ってみた。人類学にも造詣が深かった岡本太郎が日本各地、特に東北地方の伝統的な祭典を記録した写真が文章とともに展示されていた。姐御の言うとおりだった。文章も面白くて、人類学や哲学の話題も豊富で、それに写真も最高な岡本太郎が憎いほど羨ましかった。

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8月11日(木)
渋谷で行われていた「エヴァンゲリオン大博覧会」に行くために山田と会った。新宿から渋谷まで山手線にのって移動するしている間に「山手線の快速があったら飛ばされる駅」について議論した。大塚、巣鴨駒込、田端、鶯谷は絶対に飛ばされるという話になった。北側の駅は簡単だったが、南側にはそもそもどんな駅があったのか思い出せない。渋谷とか恵比寿とか目黒とかには特に用事もなくなじみが薄い。我々はそういうところへ向かっていた。二人組で平日の夕方に行くと割引がされるチケットを買っておいたのだが、この日が祝日であることに全く気が付かなかった。8月11日は山の日だった。我々は門前払いを喰らった。夏休み中の大学生に祝日なんてわかるはずがない。渋谷の街に投げ出され、目的を失った我々はとりあえず散歩した。でたらめに歩き回っていると青山学院大学が見えてきて、青山ブックセンターに行ってみようという話になった。

長いエスカレーターを地下へ向かって下った先に青山ブックセンターはあった。長いエスカレーターと本屋が登場する短歌があるという話を山田が言った。

「地下ゆきのエスカレーターこの先に天空みたいな書庫があります」 岡野大嗣

きっと青山ブックセンターのことだろうと山田は思ったらしい。この作者にとって身近な本屋が青山ブックセンターだったんだ。山田自身にそういう本屋があるとすれば、それは新宿の紀伊国屋書店だという。僕にとっては神保町の三省堂本店だった。それが池袋のジュンク堂の人もいれば、八重洲ブックセンターだった人もいるだろう。この世の書物をすべて読みつくすことはおそらくできない。本屋にある本を全部読むこともたぶんできない。だとしても、どんな本がどこに置いてあるかを知っていれば必要な時に必要な知識へと近付くことが出来る。というのは詭弁かもしれないが、行き慣れた本屋の馴染みの棚が、自分の視野をそのまま反映していると感じることもある。だからこそ、地元の県立図書館が改修されて配架が全く変わってしまった時や、そもそも本屋がなくなってしまった時の喪失感は大きかった。東京で行ったことのある大型書店は縦に大きく、フロアごとにコーナーが分かれているところが多かったが、青山ブックセンターはワンフロアで、いつも見ないような本の間を通り抜けていく感じがどこか懐かしかった。

我々は渋谷ですることもなかったので、中央線のなかで解散した。

中野駅北口のやよい軒で晩飯にチキン南蛮を食べているときだった、ある後輩からLINEがきた。
「2個上の先輩に当日いきなり頼むという失礼は承知していますが、今日泊めていただけたりしますか…?」
「ええよ」
「念のため断っておくが、木造築40年風が吹くと揺れる洗面所がないウォシュレットが動かないそんな家だが大丈夫か?」
「布団はあるが」
「ありがたくお邪魔させていただきます。」

彼は10時に来ると言うことだったので、私は大急ぎで家に帰り、六畳の中央に平積みしていた蔵書を適当に本棚の中に平積みのまま詰め込んだ。部屋はいくぶんか広くなったが、見た目にはものが部屋のはしに寄せられただけの汚い部屋だったであろう。僕は申し訳程度に掃除機をかけたが、今何をしてもこの家は綺麗には見えないと悟ると、六畳の中央に座布団を敷いて座り、茶を飲んで彼を待った。

22時か23時頃だっただろうか。彼はやってきた。彼は京都の大学に通っていて、そこのお笑いサークルに所属してお笑いをやっている。コントや漫才を作っているのだそうだ。なんでも学生お笑いの大会が東京であったらしく、その用事で来ていたが諸々の事情で宿に困っていたという。寝させてくれればいいらしいので、中野の六畳に迎えた次第だ。僕としても、布団以外に大したものは用意できない。共に夕飯は食べ終えていたので、彼を迎え入れてから何をするでもなく座って話をしていた。
彼とは高校の頃からよく話す間柄だったが、高校を出てから二人でゆっくり話したことはよく考えるとなかった気がする。こんな夜遅くに自分の部屋に誰かがいるのも不思議な感じがした。
僕が古いカメラで写真を撮っているのをブログで読んでくれたらしく、それを見て彼も最近使い始めたというカメラを見せてくれた。
彼はニコンのフィルム一眼レフを持っていた。バネとゼンマイだけで制御する完全機械式の、ピントはもちろん露出もマニュアルのかなりヴィンテージな代物である。彼のニコンFM2は完全にプロフェッショナル仕様で、黒い塗装は所々はがれ真鍮のボディが見え隠れしいていて、かなり使い込まれていた様子だった。なんでも、お父さんから譲ってもらったものらしい。
そこから、彼のお父さんの話になった。彼は家族について多くの話をしてくれた。両親、姉弟たち、祖母、とにかく彼は自分を形作った環境についての多くを記憶し、その環境を離れ今自分が立っている地点に至るまでの道筋、これからについて、とにかく具体的に話してくれた。僕はこれらについて語るとき、自分に見えている抽象的なもの、それも像ではなく微かな手触りのようなものしか語ることが出来ない。しかし、彼の語るそれらには鮮明な像があり、輪郭があり、濃い影があった。
彼には一人の兄と二人の姉がおり、彼は末の子で、それぞれと仲が良い。兄弟たちはみんなたいへん向上心をもって高校生活、大学生活を送り、親の期待にそれぞれの答えを出して社会へ出ていた。それをずっと見ていた彼にとって、高校生活と大学進学、そして大人として社会に出たときの自分の姿に関することは常に大きなものだったのである。彼が、両親とお兄さんとお姉さんたちの姿を見ながらどのように生きてきたか、家庭の中でどのような自我を形成したか、様々な思いで迎えた高校生活の先にあった演劇部がどれほど異質な世界に見えたか、そこにいた私が彼の目にどれほど奇妙に映ったか、関西の私立大学に入ると決意して、並々ならぬ覚悟で母と担任と対峙したことについて、山形を離れ京都へやってきてから見た現実について、1年半闘った末に見出しつつある活路について、自分を生かしてきた家庭と山形の地をはなれ、知っているものが何もない関西で過ごし多くを見聞きしたのち、彼は自分が何者になろうとしているのかを語ってくれた。
僕は、震えていた。人生が、ものすごい人生が迫ってきた。後輩の父と母と一人の兄と二人の姉と、そして彼自身。人間たちの色濃い生き様を見せつけられて慄いていた。人生だ。これは人生だ。じゃあ僕が今やってるのは人生なのか?とてもではないがそうは思えなかった。気が付くともう4時近くになっていたので布団を敷いて灯りを消したが、僕は眠れなかった。誠実な生き方について、中学あたりからなんとなく見当がついていたものの、知らないふりをして、都合よく保留したまま心地の良いことだけを追求するでもなく中途半端に虚ろに眼差し、僕は今ここにいる。しかし、今、目を背け続けていたものが突如立ち現れ、モラトリアムの根城である六畳に影を落としていた。もうだめだ。耐えられない。僕はマッチとハイライトを手に取ってそろそろと自分の家を抜け出し、近所の公園に行った。いつも夕刊を配達している青年がバイクを止めて一服しているのと同じ場所で、ハイライトに火をつけようとした。
火が、つかない。風がごうごうと不気味な音をたてて静かな街を吹き抜けていた。八月のど真ん中だというのにいやに涼しげで不気味だった。はやく、楽になりたい。はやく、乱暴に煙を吸い込んで頭だけを軽くし、そして頭以外が重くなって、自分の身体が自分のものでないような感覚で、特に頭も働かなくなり、時間だけが煙になって消えていく、あれをやらねばならない。焦った僕は次から次へマッチを箱のやすりにこすり続けたが、火は一瞬で風の中に消えていく。ぶおぅ、と音がして、一瞬だけ手元が明るくなり、マッチの棒は黒い燃えカスになってしまう。だめだ、この様子から何かを連想してはだめだ。決してこの火と自分を重ねてはならない。そうしているうちに箱の中のマッチが全部なくなってしまった。泣いてもよかったかもしれない。こそこそと家の中に戻りライターを持ってこようとしたが、普段使わないのでどこにあるかわからない。後輩が眠っているので灯りをつけるわけにもいかない。食器棚に、去年買ったが全く減らないウイスキーの瓶があった。僕は真っ暗な台所で少しづつそれを飲んだ。ひどい気分になって、僕はいろいろな考え事をした。

「ああ、なんか、人生が迫ってくる感じしますね。」
「奥山さんが今やってるのも人生ですよ」
「…」
「奥山さんはどうするんですか」

僕の実家があるのと同じ場所で父は生まれ育った。父の少年時代、あそこは今よりも耐え難い田舎であった。とくに中学校は荒れ放題でろくに勉強ができるような環境ではなかった。僕と同じように父は電車で隣の県庁所在地の高校まで通学していた。クソ田舎を脱出した父は高校デビューを目論み、高校進学前の春休みにバイトをして5万円貯めて一眼レフを買った。だが、なぜか父は高校で茶道部に入り、大学になど入れるはずもない学力から、東京で一人暮らしをして自分のテレビを買って好きなだけテレビを観たい一心で必死に勉強し、大学進学を勝ち取った。彼は父親がテレビとチャンネルを独占しているのが死ぬほど憎かったらしい。斯くして僕の父は、バブル景気前夜の東京で学生生活を過ごした。この日々の体験があったのか、長男である僕は父に幼少のころから「おまえは東京に行くんだぞ」と言われていた。東京に何があるのか知らない僕が当たり前のようになんとなく東京の私立大学に進んだのは父の影響が間違いなくある。今の時代、東京で一人暮らしをさせて、私立大学の学費まで工面するのは相当の資金が必要になる。しかし、長男である僕を東京に出すのは父の人生設計の一部であり、彼は計画的に資金を用意していた。一体、彼は僕に東京の何を見せたかったのだろう。
父が見ていたものを僕が直接見ることは出来ない。しかし、実家には父が40年前に買った一眼レフが残されていた。とても綺麗な状態だったので買って満足し、熱心には使わなかったのかもしれないが、父と同じファインダーを40年越しに僕が覗いている事実は変わらない。その一眼レフは、去年の11月に突然シャッターが切れなくなった。電池を変えても、清掃してもだめで、カメラ屋さんに相談したところ「寿命だ」と言われた。
オリンパスのカメラはねえ、良いカメラなんだけど低価格帯の製品だったからプロが手入れして保管したやつよりも家庭でほったらかしにされてた個体が多いし、メーカーの事業が小さくなってユーザーも少ないから修理できる業者も職人も少ないんだよね。悔しいけど一生ものにする覚悟ならライカとかニコンじゃなきゃねえ…」
父から譲り受けたカメラが使えなくなったことは思いのほかショックで、それなりの喪失感を僕は覚えていた。修理して使うにも、元が5万円で、今は中古3000円で売られているカメラである。そこまでしてもどれだけ持つかわからない。僕は仕方なく、去年の12月に前のより少しだけ高級なオリンパスの中古カメラを中野のカメラ屋で2万円で買った。もちろん前の持ち主のことなど知らない。かつて父の視野であったものは僕の部屋で静かに眠っている。父のカメラは僕が東京に来て4か月で息を引き取り、僕は東京で新しいカメラを買った。
父は僕に東京で何を見てほしかったのか。僕は東京で何を見つけたのか。ふたつを僕はたまに考える。

この家に来てからのことを考え、会った人々のことを考え、そして現在に至る。後輩の家族の話を聞いて、実家に帰りたくなった。そもそも、なんで夏休みに東京ですることもないのにここにいるのか、思い出してみた。

散歩しながら医師に話したことを思い出す。僕は、実家に逃げ帰るのではなく、東京でできることをやりたい。とは言ったものの、東京でできることというのが一体何なのかはよくわかってはいなかった。実家に逃げ帰る、といっても実家には実家の現実がある。東京で暮らす自分自身の現実をしっかりと握ってから、実家に帰ろうと思った。でなければ東京に戻ってきてから動けなくなってしまうから。

すでに動けなくなりつつある。東京で暮らす自分自身の現実、それは、数々の事実に目を伏せて、それでも震えが止まらないとき、ハイライトの先端のともしびしかすがれるものがないことであった。
答えが出せるならば、これくらいであろう。絶望した。そして、いまさら酔いが回ってきた。二口しか飲んでないのに。窓の外、空は薄っすら白んでいた。こそこそと寝床に戻り、何も考えないようにした。
実家に帰ることを検討し始めると、不思議と落ち着いた。たまらなく悔しい。こんなこと昔もあったな。

8月12日(金)
昼少し前に後輩が起こしてくれた。何度も起こしてくれたらしいが僕は動かなかったらしい。酒なんて普段飲まないのでひどい気分だった。瞼に目玉が張り付くような不快感を覚え、頭が重たい。生で飲んだウイスキーの香りが胃からのぼってくる。骨格が肉体を突き破りそうなほど身体が重く節々が痛む。目が覚めた後も、差し込む日の光を腕で遮り呻いていると、後輩はとっくに身支度を済ませていた。僕は起き上がり、駅まで彼を見送ることにした。後輩は、僕の家に泊まることが出来たことを喜んでいた。いろいろな話が出来て楽しかったと言ってくれた。本当に、僕もそう思った。昨夜のことを思い出すと目が覚めてきた。
後輩を見送った後も僕は家に帰らず、手ぶらのまま自分も電車に乗って新宿駅ベルグで朝食をとった。とはいえ、時刻は既に正午を過ぎたあたりだった。特にすることもないので新宿駅の東口のあたりをふらふらしていた。たくさん人間が歩いていて、それをなんとなく眺めながらふらふら歩いていた。本屋に行ったり、神社に入って見たり、洋服のショーウィンドーを覗いたり、家電量販店でカメラを見たり、東口のコメダで紅茶を飲みながら本屋で買った本を読んだりしていたら17時くらいになっていた。
紅茶を飲み終わり、本を置いて考えてみた。さて、いつ実家に帰ろうか。

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なんなら今すぐバスターミナルに向かい北へ逃げたっていいのだが、つい昨日、山田とエヴァンゲリオン博覧会で門前払いを喰らって、仕方がないので16日の火曜日にもう一度行く約束をしていたのだった。山田と別れたあと、僕はその日が祝日ではないことを何度も確かめた。誰が何と言おうと、その日は平日だった。
よろしい。僕は家に帰るとパソコンで8月17日水曜日の夜に出るバスを予約した。
なんだかとても楽になったような気がした。そいうえば、本来は今日が演劇祭本番前夜だった。演劇祭の公演がなくなって、完全に空白になったと思われた2週間だったけど、いろんなことがあって、決して退屈な夏休みではなかった。でも、9月半ばまであるこの夏休みをずっとこの調子で東京で過ごしてはいけない気がした。僕は、十分闘ったつもりだ。そう自分に言い聞かせるように、夜行バスの予約手続きを進めていたような気がする。

(今思えば、実家に帰らずに新しいバイトでも探せばよかったのにと思っている。しかし、この頃僕はコロナが怖かったし、なんだかとっても疲れたような気がしていたんだ。とはいえ、夏休み明け11月にも実家に帰って、そしてまさか山形でコロナをもらうことになるのだからどちらも同じことだろうけど。)

僕は、一体何と闘っていたのだろう?

明日、人格社の第三回公演「光路図」は初日を迎える予定だった。もともと僕の構想には前作「三年王国」までしかなかった。初回「グッド・バイ」で書く力と公演を行う準備を整え、第二回の「三年王国」で高校演劇でやり残し、今まで演劇でやりたかったことを実現する。そういうプランだった。でも、またやりたくなってしまった。三年王国を多くの人が見てくれて、次を楽しみにしてくれて、まだ書いてないことが見つかり、そして、野望を持った姐さんが思い詰めた様子で僕の前に現れた。
あと五日ある。自分が今いる地点について、書こうと思った。ブラウザを閉じ、OneNoteを起動すると「光路図」の編集画面が現れる。僕は新しいページを追加した。

「あたいの夏休み」

前期の最終日、7月28日まで僕は遡った。山田と一晩中首都高をぐるぐると走り続けたあの日。あの時パーキングエリアから持ち帰った路線図を広げて眺めながら記事を書いていた。広げると畳一枚分あるのではないかと思うほど大きな路線図。今更あの時どこを走っていたのかを理解する。知らない街の上空を走り抜け、国家中枢の地下に潜り、東京湾の上を渡った。スカイツリーが視界の中で移動する。朝焼けとともに動き出す街の様子を見た。間違いなく、あれは「東京」だった。車の外に広がる景色は「東京」で、車の内側はどこでもなく、そこにに座り東京を眼差している僕は何者でもなかった。
情景が復活する。それはまさに、高速道路を走り抜けているような疾走感をもって、記憶の中の視野に没入し、僕は記事を書き進めていた。過去を掘り起こしているというのに、止まっている時が動き出したような、そんな感じがする。疾走感。僕は時間軸の直線上から離脱し、自分に起こったことを眼差し、文章にする。謎の高揚感があった。生み出しているものは全く意味不明な代物だが、書いている最中は心地が良かった。

疲れてくるとハイライトに火をつける。落ち着く。この香りと味はもはや僕のもう一つの故郷になっていた。僕の東京はこの小さな水色の箱に入っている。東京での記憶に火をつけてその記憶を僕は吸っていた。水色の箱の下半分には「20歳未満の者の喫煙は、法律で禁止されています。」と書いてあった。僕はこの夏、22歳になる。信じられなかった。
「タバコなんていらない人には一生必要ないんだ。金はかかるし、良いことの方が少ない。でも、ないと生きていけない奴もいる。演劇だって同じだと僕は思ったりするのさ。」高速を降りて中野に帰る途中の車内で、助手席に座りながら山田にそんなことを言ったような気がする。暴論だとは思う。しかし、演劇への僕の姿勢がこの煙のようなものであることは僕が発見した事実のうちのひとつだ。演劇もタバコも、学生の間だけ。そんな人も多いだろう。僕は、どうなんだろうか。

8月13日(土)
家で記事を書いていた。公演中止を決めたあたりにを書いていたので辛かった。

8月14日(日)
家で記事を書いていた。ラーメンを食べたり、図書館に行ったり、散歩をしたときのことを思い出していたが、ずっと家の中にいた。洗濯機を回した。

8月15日(月)
山形に帰る前に、はるひさんに会っておきたかった。はるひさんは、僕にとって東京でできた最初の友達だったから。
去年の9月に行った人格社第一回公演「グッド・バイ」は、高校の演劇部の同級生・後輩や、県大会で知り合った人の中で東京にいる人々を集めて行った。東京で劇団を作ったのに、中身はほぼ山形県民であり、中心は山形のとある県立高校の演劇部という奇妙な集まりであった。そこに、愛知県出身の俳優が一人だけいた。
7月中旬、公演の行うにあたって出演者が足りず、Twitterで募集してみたところただ一人応募してきたのが、このはるひさんであった。僕は2019年末に精神疾患で実家に逃げ帰ってからコロナ禍を経て1年半を実家で過ごし、2021年末に帰京(実質的な二度目の上京)した。本来は4月から東京で暮らすつもりであったが、大学がオンライン授業を継続すると発表したり、春先に東京の感染者が爆増したり、実家での僕の生活態度があまりに一人で暮らせるようなものではないなどの諸般の事情により交渉が難航し、6月末にずれ込んだ。とにかく、世の中は混乱していた。はるひさんも3月に専門学校を卒業し、上京する予定だったが8月頭にずれ込んでしまったという。東京でのお芝居の仕事を探していたら、僕の募集ツイートにたどり着いたという。恐縮していた。相当な覚悟をもって上京し、全く面識のない人間と連絡をとり、東京で初舞台が、こんなよくわからない奇妙な連中のものだなんて。しかし彼女は、あくまで仕事として、それこそ対等にひとりの大人として僕と応対してくれた。プロだ。僕はと言うと、演劇なんぞ3年ぶりで、高校演劇での後悔の念を晴らしたい一心で甘えられるものにはすべて甘えてここにいる。彼女は、一切を自分自身の意志と力で導いてきた。高校の演劇部でお芝居に出会ってから、専門学校で演技を磨き、俳優を目指して東京へとやってきた。とても同い年とは思えない。そう。同い年なのである。
ここまで自分と全く異なる生き様に触れたのははじめてだったのだ。

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僕は、昼過ぎから大学周辺を場所を転々としながら記事の続きを書き続けていた。やたら警察車両が多く、上空にはヘリコプターが何機も飛び交い、なんだか物々しい雰囲気で、そういえば今日は8月15日だったことを思い出した。靖国神社から九段下の坂を下った先。ここは千代田区神田神保町。たくさんの人が列をなし、怒号、嘆きの声が響き渡る。2022年。思い返せば不穏なことばかりだった。当たり前のように暮らすほかはなかったが、それはもはや怯えて過ごすことが当たり前になりつつあることを暗に示しているような気がした。
大惨事が連鎖して、悲しみが悲しみを呼んだ。僕には僕の惨事と悲しみがあり、それで精いっぱいだったが、それは多くのことのほんの一部ですらない。僕は僕の惨事がはやく過去のことになることを願い、一方で永遠にこの混沌のなかを漂っていられればそれはある意味で惨事ではなくなると思っていた。どちらにしろ、僕は終わりのなさそうな自分の東京の夏に一区切りを打つため実家に帰るという選択をとった。僕は逃げてばっかりだけど、逃げ続けることの不安へのせめてもの抵抗のつもりで僕は東京にいる自分について眼差さなければならない。空白を記録で埋める。たとえ空白を記録することとなっても、記録は記念碑としての役割を果たす。僕はいちいち記念碑をたてなければ何も学習できない。刻まなければ「眼差した」ことにはならないから、刻むために書いている。

はるひさんと僕は今年の春まで同じ人格社の舞台にしか関わっていなかったので、観客として互いの演技、脚本を見たことはなかった。それぞれ違う舞台に立つことは初めてだったので楽しみにしていたが、僕の舞台だけなくなってしまった。せめて、「光路図」を読んでもらいたくて、僕はコンビニで光路図の脚本を印刷して持って行った。
夕方、はるひさんはバイトの帰りに会ってくれた。はるひさんの帰り道の途中にあって、僕が都心で唯一行きなれた部類の町である神保町で、行ってみたかったカレー屋さんでカレーを食べることにした。
はるひさんがこの間の舞台で演じていたのはカレー好きの作家。大学時代サボりがちで、試験中に困ってしまって解答用紙にカレーの作り方を書いて提出したというエピソードを持つ。
「奥山諒太郎を思い出しながら演じた」と言ってくれた。僕は不気味で不可解な存在として認知されたとき奥山諒太郎とフルネームで呼ばれることがたまにある。不気味で不可解な存在を理解するための道具として僕が役に立ったらしい。不気味で不可解な存在としての役割を果たせたことが救いであったともいえる。
もうひとつ不気味で不可解なことに、僕は先輩の書く一人芝居に来年出演することが決まっていた。
「なんか先輩とユニット組んだらしいじゃん。先輩ってどんな人?」
「変だけど楽しい人だよ。僕と同じで遠くから見るぶんには面白いんだと思う。」
僕はこの事実がそこそこ不気味で不可解だと思っていたので自嘲気味にこのように言った。不気味で不可解な存在は遠くから見物したほうがよい。僕はこの夏自分が作った不気味で不可解な作品のために数人を理不尽なめに遭わせてしまったのでそう思っていたのだろう。
「えー、奥山諒太郎は近くで見れば見るほど面白いじゃん。」
「・・・」
不気味で不可解であると同時に、面白いらしい。ちょっと元気になった。
はじめて行ったカレー屋さんのカレーは美味しかった。
そのあとドトールでお茶をしながら、「光路図」を読んでもらった。はるひさんは僕の目の前でページをめくってじっくり読んでくれた。なんだか居心地悪く恥ずかしく、コーヒーがなくならないように少しづつすすってみたり、相手の様子をうかがってみたり、どんなこと書いたか思い出してみようとしてやめたりしていた。持って行って渡したはいいものの、自分がこれをどうしてほしいのかさっぱりわかっていなかったが、印刷された台本を渡されたら、今ここで読めという意味をある程度は持つことに後から気が付いた。自分の頭の中の情報を相手に開示することは実はとても時間がかかり、そして僕の頭の中の「光路図」という情報はそういえば読み物という形をとっていたことに後から気が付いた。記事を書き始めてから、僕の頭の中には僕しかいなくて、本当に良くない。
はるひさんは読み終わって難しそうな顔をしていた。そりゃそうだ。不気味で不可解であろうとなかろうと、なんか読んだ後に感覚を整理しようとすれば僕だってそんな顔になる。頭の中の情報はそこまで秩序立って整然と並んでいるわけではない。
でも僕は安心したいというか黙っているのが怖いというかなんか言わなくてはという一心で「どうだった」と口にしてしまった。「どう」という問いかけがいかに乱雑で扱いに困るものかは承知していたが、そういうほかはなかった。
「うーん…」
「気持ち悪かったでしょ」
自分でも不気味で不可解であると感じているので気持ち悪いという感想は間違いではないし決して僕を傷つけはしないという意味で言ったが、傍から見ればただの卑屈な奴である。というか事実として卑屈である。
「うーん…」
僕も言った。
「うーん…」
「ねえ、書くものある?あ、持ってたわ」
突然はるひさんは言ってごそごそとカバンの中を探り始めたので僕は手元にあったボールペンを渡した。はるひさんはそのへんにあった紙ナプキンに書こうとしていたので僕はノートも出して渡した。
はるひさんは、読み終わったあとの感想を、言葉でなく、図で示してくれた。

これまでの「グッド・バイ」と「三年王国」は、果物の皮であり、地球の地表を覆う海だったけど、「光路図」は果物の実、地球の内部。だという。「むきだしの奥山諒太郎」を感じたらしい。グッドバイも三年王国もむき出しの奥山諒太郎を書いたつもりだったけど、どうやらそう見えたらしい。
「面白かったよ」
そう言ってくれた。
「眼科とプラネタリウムとカメラの話がうまい具合につながって、いつも思うけどこんなの思いつくの不思議だよね。」
不気味で不可解で、面白くて、不思議。
むきだしにして、こんなこと言ってもらえるのは、幸せだと思う。

会うのは2か月ぶりだったので、我々は最近あったことや考えていることの話をした。僕は常に、そしてこの頃はとりわけ、何で自分は演劇やってて、みんなはどうして演劇やってるのか不思議に思っていたので、なんではるひさんはお芝居をしているのかきいてみた。はるひさんがここに至るまでの昔の話はあまり聞いたことがなかったので。
はるひさんも僕と同じく高校演劇からはじめた人だった。それはもう、楽しくて仕方がなかった。そういえば、初めて顔を合わせたときも高校演劇の話をした覚えがある。あの当時、僕の演劇は高校演劇で止まっていたからそうするしかなかったけど、今はちょっとだけ違う。だからもう一度きいてみたかった。なんで続けているのか。自分がなんで一回やめたのかわかっていないのに。
はるひさんは、少し考えて、演劇をやめるという選択肢がなかったんだと思う。役者以外にできることがないと思った。と答えてくれた。驚愕した。
たしかに、演劇部にいたころは、自分にはこれしかないと思っていたけど、そこを放り出されてから、気が付けばほかの道に行っていた。僕は逃げ道に甘え、保留して、それを続けて、今になっている。
四年前に、彼女は選ぶことができたのだ。心の底から、力強いな。その力が、羨ましいなと、思った。
はるひさんは自分のことが大嫌いで、納得できないまま、動き続けている。
僕は、自分のことが大好きで、自己憐憫しかしていなくて、自分を都合よく納得させて、じっとしていた。

僕は多くの言葉を弄んで不安や苦痛や憂鬱に好き勝手な形を与えていて、深刻ぶっているがその実はのんきなものである。彼女の場合はそうではなかった。彼女は決して無口ではないがあまり多くの言葉を持たない。そのまなざしはどこか悲しそうで、どことなく影を感じる。それはまるで信じるものがなにもないような眼差しである。実際のところ、彼女の生き様は自分しか信じていないように感じさせられるところがある。しかし、彼女は決して、その影を、暗い部分を見せはしない。それは強さであり、またその一方で闇のなかにあるものの実体はつかめず、言葉にできないまま在り続けている脆さでもあった。だからこそ彼女の存在や演技は輝き、そして、知れば知るほどに危ういものとして僕の目に映るのであろうと思った。それでも、それだからこそ、この生き様を、僕のものとは全く異なる生き様を、もっと知りたかった。

僕は完全に教えを乞う立場に自分を追いやっていて、「夢とかありますか」と言った。
彼女は「うーん…アカデミー賞」と言った。
不気味で不可解で、眩しかった。

 

8月16日(火)

新宿駅構内のベックスコーヒーは線路の真下にあり頭上を轟音で電車が忙しなく走り抜ける。効きすぎた冷房で冷蔵庫のような店内にはつんざくような高音を出す安いスピーカーからジャズが流れ続けている。線路に飛び込んだら永遠にここに閉じ込められるのだろうか。ここなら書き続けられる気がしてきた。

ガッタンゴットンという音が上で響くたび、店が僅かに、しかし確実に揺れる。私の身体も、骨格も、揺れている。ガタンゴトンと。意識せずとも車輪が私を踏み潰し刻む様子が想起される。電車の音は鳴り止まない。死を想起させた車輪の音が、自分の鼓動のようにも思えてくる。不思議だ。

 

きょうは新宿駅で山田と待ち合わせて渋谷へ向かう。平日午後ペア割引チケットを買って、祝日にそれと知らず足を運んで門前払いを喰らったエヴァンゲリオン博覧会にふたたび行くのだ。

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展示を観終わっても、渋谷で行くところも思いつかないので、山田が知っている代々木のつけ麺屋まで歩いて行った。

8月も16日まで来ると、暑さにも慣れてきて心なしか季節の終わりを僅かに予感し始めるような気がする。少し早い気もするが。こんな夜は散歩に限る。夏の夜の散歩は何かが違う気がする。昨日はるひさんと会って神保町を歩いたときも思った。

渋谷から代々木なんて歩いたこともなかった。いつも総武線から見ている景色に立って、逆に総武線が走っている橋脚を見て不思議な感じがした。だいたい30分。僕らは話をした。

北センチネル島って知ってるか?」

山田が言った。なんでこんな話になったかは覚えていない。

「知らないな」

「あるんだよ。インド洋に。いまだに文明と接触していない戦闘民族が住む島だよ。」

「なんだそれ、おもしれえな」

「その島に住む民族は21世紀まで外部との接触を拒んでいて、現在も接触しようとして上陸した宣教師や冒険家は皆殺されるんだ。だから、誰もこの島に接触しないように国際的に決められているんだよ。」

「へえ。」

「でもよ、おれたちだってこの島と同じかもしれないぜ」

「たしかに。地球の外に上位存在がいて、そいつらに接触されないまま、あえて未開民族のまま保護されているかもしれない」

「そう。てかこの世界自体嘘かもしれないしね。今知覚してるこの世界がヴァーチャルリアリティでないことは証明できないからね」

「その話おまえ前もしてたよな。シミュレーション仮説の話」

「そうそう。最近おれ夜中に家でこういうことばっか考えてんのよ」

 

山田は「本当は教えたくないくらい美味しい」つけ麺屋さんに連れて行ってくれた。代々木にもブロック塀で囲まれた古い一軒家が連なる昔ながらの住宅街や古くて小さいアパートはある。まるでそこだけ違う世界みたいに。その中に、店があった。いったい山田はどうやってこの店を見つけ出したのだろう。山田の言う通り、「教えたくないくらい」美味しかった。帰り、さらに代々木から歩いて新宿駅でわれわれは解散した。代々木から新宿駅南口に向かう道、新宿駅にたどり着いても、見たことのない角度から見た新宿駅であったので新宿駅だとわからなかった。

知らないことばっかりだ。

山田もじきに実家に帰る。「帰省したら山形で会おう」と言って、山田と別れた。

 

8月17日(水)

 

一日かけて荷造りを行った。
本当は昨夜のバスの予約をとってもよかったのだが、そう簡単に荷造りが終わると思えなかったので、荷造りのためだけに1日設けた。
予想した通り、荷造りには一日かかった。正確に言うと、荷造りをやる気になるまでほぼ一日かかったことになる。
生活を根こそぎ一つのキャリーケースに詰めるという行いには、うんざりするような、なんともいえない憂愁が付きまとう。それがたとえ実家であっても、どこか遠くへは一瞬で、今の暮らしを脱ぎ捨てて身軽に飛んでいきたいような願望があるが、実際にはこういったこまごまとした用意が必要になる。逃げた先にも暮らしはあり、人が生きるには実に多くの者が必要なのである。
でっかい東京、その中のちっちゃい自分の暮らしを、さらにちっちゃいキャリーケースに詰め込む。余計な哀愁だけを取り除きコンパクトに自分の生活をパッケージングする一種の芸術である。

ハイライトの箱の中の東京。東京にある山形のビオトープ。山形の中の僕。


23時手前にようやく家を出た。ギリギリまで荷物を詰めていた気がする。

図書館の図書返却ポストまで歩いてから電車に乗らなければならなかったので晩飯を諦めようとしていたら、駅のすぐそばに返却ポストが設置してあるのを発見して、大喜びで横浜家系ラーメン武道家に駆け込んだ。

「ッッッセェェェェェェイィィィィィィ!!!!! ゥォお好みありますかァッッッ⁉︎」

「固め濃いめで。」

訳:「いらっしゃいませ。麺の硬さやスープの濃さのお好みはありますか?」

「麺固めスープ濃いめでお願いします」

 

バスの中で眠くなるまで記事を書こうと思っていたが、夜行バスの車内の暗闇の中でパソコンを起動するとかなり眩しいしとても迷惑だ。ずっとパソコンで書いてきたので携帯で書く気にはなぜかならなかった。

仕方ないので眠ろうとしたが、なかなか眠ることができず、どうにも書きかけの記事のことを考えてしまう。僕はこのとき精神科医との会話を思い出しながら、なんで東京の暮らしから逃げ出せるのにしがみついていたのか思い出していた。

なんだかとても色々なことがあった。この記述の試みは8月17日に夜行バスに乗る時点を目指して行なっているが、起稿から6日経って書けたのは7月28日から8月3日までの6日分だけだ。

長くなりそうだと思った。

 

・・・・・・

 

12月28日(水)

思ったより長い闘いになってしまった。気がつけば卒業論文並みの時間と労力をかけ、前後編合わせて5万字弱を書いていたが一方の卒業論文はまるでお粗末で、しかも卒業論文を書いても卒業はまた来年度という、何もかもが奇妙で不可解な状況に陥っている。しかし、僕は僕自身の奇妙で不可解な日々をそれなりに愛しているからこんなものを書いていることが嫌でもわかった。

登場人物が多いので、登場して全ての人に書いた文章を見てもらってネット上で公開するにあたって許可をもらった。登場順的にはるひさんが最後になり、最近手伝っている劇団の企画の用事で会ったときについでに読んでもらった。

人に自分が書いたものを読んでもらうのはいつになっても気恥ずかしいものだ。

読んでもらって「...どう?」ときいてみたら、「文章と全く同じこと言ってるよ」と言われた。

 

というか、これだけネガティブなことを書きながら年末も再び演劇に関わっていることが重大である。

 

何はともあれ、読者諸氏はこの1年、「どう」だったであろうか。

 

前編の投稿から4ヶ月、後編の投稿を待ってくれていた方々、このクソ長くて湿度の高い夏休みの日記を最後まで読んでくれた方々に感謝をしたい。冬に読んでちょうど良いくらいの湿度の文章であったら幸いである。

 

そしてなにより、公演中止で放心状態で漂っていた僕に夏休みの間構ってくれて、その上記事にすることを承諾してくれた全ての「登場人物」

の皆様に心からの感謝を申し上げます。どうか今後も僕の奇妙で不可解な日々に登場していただければ幸いです。