カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

逗子開成高校「三年王国」に寄せて

※この文章は、2022年10月に行われた横須賀三浦地区での上演後に書いた文章です。※

 

  1. はじめに

    逗子開成高校演劇部の皆さん、地区大会お疲れさまでした。とても楽しく拝見させて頂きました。改めて、私の台本を選んで演じてくださったことに感謝したいと思います。ありがとうございます。このような機会を得ることができ大変光栄に思います。私自身はこの台本の作者である上、三年王国は今年の二月に書き終わり三月に上演したばかりなので、これから述べることは完全に外部から見た客観的な意見にはならないと思います。時折自分の脚本を自分でほめているだけのように受け取られかねない記述も見受けられると思いますが、私が自分の脚本を好きでいられるのは、愛するキャラクターたちとともに生きてくれた素敵な役者さんたちと、脚本をよく解釈し心地の良い世界観を構築してくれた演出や裏方の方々のおかげですので、私の作った物語を尊重して輝かせてくれたみなさんへの賛辞でもあると思って受け止めてください。原作者の要望とは別に、審査員や観客の方々、ほかの先生方の意見等もあると思いますので、それぞれを適切に取捨選択しながら取り入れて皆さん自身の新しい「三年王国」を作り上げて頂ければと思います。

  2. 自己紹介(隙あらば自己紹介する癖があるので飛ばして頂いても構いません)

    三年王国を書いた奴が一体何者なのか、飛塚先生とはどういったつながりなのか、明らかにしておくため自己紹介をさせて頂きます。私は、逗子開成高校演劇部の現顧問でいらっしゃる飛塚先生と同じ山形東高校の演劇部出身で、飛塚先生は私の7つ上の代になります。現在は都内の大学4年生で、人格社という劇団を主宰し脚本や演出や役者をやっています。私は、今から5年前の2017年、高校2年生の時に「ガブリエラ黙示録」という脚本を大会作品用に書きました。この作品が全国大会に出場し、飛塚先生がこれを観てくれていたことが7つ離れた先輩後輩のつながりのきっかけでした。「ガブリエラ黙示録」は「三年王国」と同じように、進学校に通う主人公が不満の限りをぶちまけ、暴れまわり、周囲への劣等感からやがて力尽きるお話で、まるっきり自分のことを書いたものでありました。私はこの作品を高校二年の7月から高校三年の8月まで書き直し続け、演劇部での生活の後半はほとんど他の作品に関わることなく引退を迎えたため、良い思い出であり巨大なトラウマでもある作品です。本当は国立劇場まで行きたかったのですが、最後の最後に全国大会の審査員に「主人公はなんでこんなに絶望してるんだよ。もっと人生楽しいだろ」と言われたのが私の高校演劇の最期になってしまいました。全国まで進んでこんな屈辱を味わうとは思っておらず、きわめて遺憾でありました。当時、勉学を放棄し演劇部での活動以外に消極的だった私は自分の存在意義をこの創作劇だけに見出していたため、全国大会で終演を迎え1年以上にわたる戦いから解放されたときの喪失感は大変大きなものでありました。8月に最後の上演が終わると丸裸で受験生活に放り出され、演劇部を引退して何者でもなくなってしまった自分自身を憐れんでいるうちに卒業を迎えてしまいました。自分は高校の演劇部に生かされていただけで、高校を出た後に新しい居場所を見つける自信もなく、演劇を続ける覚悟も決まらないままなんとなく受かった大学に入りました。演劇が好きなのではなく、演劇部が好きだっただけという自覚があったのです。

  3. 人格社の「三年王国」

    演劇とは距離を置きながらいじけた大学生活を送る一方で、高校生活に大きな未練があった私はあの「ガブリエラ黙示録」を自身の最後の作品にしたくはないと強く思うようになります。叶うならば、高校生活をやり直したい。それが出来ないのならば、せめて未完成のガブリエラ黙示録に決着をつけたい。そういった野望を抱えながら、自分を今いる場所に連れ出した運命に復讐するべく、架空の高校生活についてちまちま妄想し続け3,4年が経過して出来上がったのが「三年王国」です。ここまでのお話から、小田川、間宮、薮、旗田、権田原はみんな私自身から切り離した人格であり、高校生活とその後の各段階で考えていたことを同じ時系列に配置する構造をとったことがお分かりいただけるでしょう。三年王国そのものが私の大それた自己紹介なのです。

    逗子開成「三年王国」によせて

  4. ギャグについて

    ものすごく客席のウケが良くて私まで嬉しくなりました。人格社の三年王国より間違いなくみんな笑っていて羨ましい限りです。テンポ良く物語が進行する合間に笑いが起こり、客席と舞台がつながっているような、客席も含め劇場全体が居心地の良い60分でした。おそらくみなさんも感じていたのではないでしょうか。自分の発した声で多くの人々がどよめくあの感覚はどんなドラッグよりも強烈な快楽だと思います。高校演劇の大会は人を集めなくても客席に人が座っているのが前提でスタートできるわけですから、暗闇に人間を閉じ込めて、見させ続けることが出来ればもう勝ちです。その点で皆さんは無敵だと思います。

    今まで人を笑わせるような芝居をいくつか作ってきましたが、あの規模の会場でここまでの笑いをとったことはありません。これから規模が大きくなっていって何が起きるのか私は楽しみで仕方がありません。しかし、決して上演の目的が笑いを取ることだけではないという点は留意して頂きたいと思います。私が脱力ギャグを書くようになったのは、高校演劇の大会があまりにも眠すぎるという体験が原因です。現代人を暗いところに一時間座らせたら眠くなるのは避けられないことです。一日に数回の上演を行う大会ではなおのことです。全国大会まで行っても多くの人が客席で眠っているのを見かけます。見続ける力を必要とする作品は高校演劇には構造的に不向きであるという、決して多くの人が触れようとはしないものの仕方なく存在する抗えない事実です。だから、笑わせるしかないのです。

    既に今回の地区大会でも感じましたが、客席が笑いすぎて肝心の台詞がかき消され聞こえなくなってしまうという問題が発生します。これはもう本当にどうしようもないので、観客が笑い終わるのを待つしかないのですが、そうすれば当然間合いも狂ってしまうし、60分の制限時間がある以上タイムキープ上不都合をきたします。私が全国大会で上演したときは、この問題のせいで後半を急ぎ足で進めるしかなく、それでも間に合わずラストシーンを役者のアドリブで削って60分に何とか押し込まざるを得ませんでした。それで講評で「後半は失速した感じが目立った」と言われたのですから世の理不尽には呆れるしかありませんでした。そういう事態もあり得るのです。今回の演出はとくに緩急と抑揚がうまく配置されていて、失速を感じる心配は一切ありませんでしたが、役者も観客も温まるあまり飛ばしすぎてしまわないかが心配になりました。聞かせる姿勢を最後まで貫いてほしいです。

  5. 新聞部

    新聞部部室の雰囲気がリアルと言うかとても生々しくてとても良かったです。とても仲良しというわけではないけど、他に居所がなさそうでなんとなく馴れ合っている距離感や空気感が秀逸でした。現実の部活ってあんな感じだったような気がしてきます。高校演劇では虚構の友情が陳列されがちですが、皆さんが醸し出したあの新聞部の空気はいい意味で異質で、それでいて親しみやすいものだと思います。あまり仲良くなりすぎないでね。薮ちゃんと小田川くんと間宮くんはお互いを見下していながら弱い部分でつながっているかわいそうな奴らというのが私の認識なので。「安心しようと必死だな」というセリフがその象徴です。あのセリフがウケていて私は嬉しかったです。誰にとっても他人事じゃねえからな。

  6. 各登場人物について

    開幕直後に座っている小田川と間宮と薮の三人が全員眼鏡をかけていて、「本物だ!!」と思いました。遠目に見ると似たような雰囲気でも、言動ややり取りを見ていくうちに際立った自我が嫌でも見えてくる様子が鮮やかで印象的でした。

    全員個性が強いので、役者が自分の役柄に関して解釈して好き勝手暴れまわることでどんどん面白くなっていくと思うのですが、各場面の持つ意味に合わせて適度にコントロールしなければならない点もあります。

    1. 小田川

      今回、モノローグで客席に向かって不満をぶちまけるシーンの時点で、私はこの小田川には三年王国の主人公を任せられると思いました。(私の中で小田川は一応主人公です)冒頭のシーンで、隙あらば自己紹介したがる強めの自我の片鱗を見せながら、間宮の「友達じゃああるまいし」というキツめの冗談に本気で傷ついてしまうような繊細さ、人と話すときは「違うんだよ」と言ってしまいがちな頼りない彼が、それらを踏まえたうえで次の内的なシーンで大声で鬱憤を爆発させる様子は見ていて爽快ですらありました。独裁者のような演説を始めたと思いきや、駄々をこねはじめ、「おまえらの知らないところへ行く」といって、自分を納得させ、どこへも行くことが出来ない…まるで自分を見ているようで笑いながら泣きそうになりました。この必死さが、終盤で部長の座を狙うというちっぽけな、それでいて彼自身にとっては大きな意味を持つ野心に火が付く流れにつながっていて大変良かったと思います。

      黒板消しクリーナーに異常に執着している描写について、不気味さが本物で大変良かったです。薮先輩が黒板消しクリーナーを持ってくるところとか、権田原と恋バナの勘違い芸を繰り広げるところとか、一番最後の「電子黒板粉砕闘争とホワイトボード排斥運動」のくだり、極めつけはブレーカーが落ちるところ(とても良い改変だと思いました)など、要所要所でしっかりと笑いが起きていたので小田川の特殊性癖を表した異常な演技が相当効いていたのだと思います。据わった眼で「アレ」を見つめる表情や、恍惚とした様子でブツをキメている全身を使った演技が迫真そのものでありました。人格社の公演ではSEを使用しましたが、今回は実物の黒板消しクリーナーから聞きなれた音が鳴っている状況と、小田川が常軌を逸して悶え叫んでいるとち狂った状況が、序盤からこの作品の滅茶苦茶な世界観をよく示していて効果的だと思いました。どんなテンションで作品を見たらよいか、観劇するにあたり求められている姿勢を開幕直後から観客が理解しやすいととても引き込まれます。小田川役の方の必死な演技は導入として優れていたのではないでしょうか。しかし、もっとやれると思います。後述しますが、会場が大きくなってお客さんとの距離が離れると、息遣いが伝わりにくくなり、沸き起こる笑いに負けてしまいます。日ごろから黒板消しクリーナーを渇望してください。新たな次元を切り開き、真実の光を垣間見るまで邪な眼差しと狂喜の拡大を止めてはなりません。

    2. 間宮

      斜に構えていて鼻に付くような物言いの演技が間宮というキャラクターそのものでハマっていたと思います。写真部の幽霊部員のくせに新聞部にちょっかいを出していて、小田川と薮ちゃんだけの冴えなくてどうしようもない新聞部を適度な距離で客観視している立ち位置が、飄々としていてつかみどころのないキャラ造形からよく見てとれます。ダルいやりとりの中でぼそっとツッコミを入れて新聞部の現状を彼ら自身だけでなく観客にも見せつけるのは尊大な態度の間宮君だけにできる重要な役割です。ツッコミの切れが良くて見ている人はだんだん間宮を好きになる、そんな演技だと思います。小田川との関係性もよく出せていたのではないでしょうか。「小田川ツッコミ向いてないよ」も、今回の三年王国の間宮が言うと説得力が増します。最後まで権田原のことをさん付けで呼んでいたのも間宮らしくていいなと思いました。小田川や薮がへなへなしている分、間宮には鋭さが求められます。それも、権田原のような厳つい攻撃的な種類のものや、ハタダのような超然としたものではなく、ついぽろっとひどいことを平気で言ってしまうような、そんな鋭さです。突っ込むときだけ力を込めて小田川に切り込むのはあまり間宮らしくないと思うので、間宮には常にはっきりとした台詞の発話が求められると思います。前半、権田原が登場するまでは間宮の台詞で可笑しさが表現され、みんなが笑うと思うので通常時の切れ味を研ぎ澄ましていってほしいです。こういうギャグでかつぜつは命です。

      私としては、ハタダと話しているときの「面白いかどうかは本当に面白いものを目の前にしないとわからんのですよ」や、文化祭のシーンの「この文化祭という競争市場に購買と学食が参入したら圧勝に決まっている」など、屁理屈をこねて持論を展開するシーンの演技がとても間宮らしくて好きです。間宮こいつ、絶対ひろゆき好きだろ。

    3. 権田原

      男子校での上演ということで権田原の造形が一番心配ではありました。私はクールな後輩キャラの女の子権田原理香子が書きたくて三年王国を起稿したようなものなので、どうなることかと思っていましたが、杞憂でした。正臣という名を授かり生まれ変わった権田原。ただでさえ曲者揃いの役者陣に舌を巻いていると、途中から登場する権田原に完全にとどめを刺されました。完成しきった新聞部の関係性の中に他者として客観的に介入していく、客席と視点を同一にしたキャラクターと言う機能が構成上はありますが、切れ味が突出しています。彼は間違いなく「逸材」だと思います。いちばん最初の「何部ですか」の一言や、ハタダの「校舎が半分なくなってるんだよ」に対する「最高ですね」の切り返しだけであれだけ笑えるのはすごいです。マジで。強者の旗田と権田原が対面するシーンでは、他の部員たちとの日常とは違った緊張感が漂い印象的でした。ときたま拡声器を手に取る演出もとても良かったです。

      保健室のシーンの権田原はあまり弱っているように見えず物足りなさを感じてしまいました。あの堅物の権田原がはじめて弱さを見せるギャップが、物語の流れが変わったことを予感させる大切な効果をもっているので、普段の権田原が横になっているだけではいけないと思います。とはいえ、彼のキャラクターを保持しながらは難しいところですので、やはり慎重な造形が必要なのでしょう。ネクタイを緩めてみたり、ブレザーを脱いでみたり、頭を抱えたりして、普段の権田原とは違うような動作があると良いのかもしれません。

    4. 薮ちゃんを演じている方が一年生なのはビビりました。そういう奴がいるようにしか見えない体の動きや情けない声など、本当にそういう奴なんじゃないかと思うほど生々しかったです。薮繁治という人物は私が人格社で演じていた役でしたが、逗子開成の薮繁治はもっと強烈で、それでいて不思議な親しみを感じました。友達になりたいです。余談ですが、「…僕のことを言われてるんだと思って泣きそうになったんだけど…」の部分で笑いが起こったとき、まるで自分が笑われているような気がしてなんとなく腹が立ちました。あそことても良かったです。細かい部分ですが、小田川が権田原に「ネクタイなんか誰もしてないし」というシーンで、薮ちゃんが戸惑って自分のネクタイを引っ張るところも不憫で良かったです。ただ、謎のエネルギーで予測不能の動きをする薮ちゃんは終始どこか楽しそうにも見えてしまい、思い詰めて保健室で横になっているときの悲壮感や、引退を迫られたときの絶望感がやや弱く感じてしまいました。新聞部の日常の場面ではあのままでとても良いと思うのですが、放課後や行事の最中に新聞部にいるときの薮ちゃんに比べて、それ以外の時(授業を抜けて保健室へ向かうようなとき)や、新聞部についてではなく自分自身(主に引退問題や、これからどうしたいのかなど)について問われている時の薮ちゃんはもっと孤独で気の毒なほど情けないと思うのです。本人は言いませんが薮ちゃんは新聞部が好きなわけですから。まだ高校一年だと難しいとは思いますが、演劇部を放り出され、気が付けば受験まで半年を切っている高校三年の状況を想像してみてください。彼は漠然とした恐怖に怯えているのです。

    5. 旗田

      ハタダ先輩は、一人だけとても落ち着いていて、立ち姿に芯がある様子からしてその異質さが構成上の役割を非常によく反映していたと思います。なんとなく憧れてしまう男の子と言うのは淡々としていて物静かに誰も真似できないことをするのですね。逆カフカを朗読するときに、場面転換のため机といすを動かす音にかぶって聞こえなくなってしまったのが惜しいです。

      追加されたセリフもよかったと思います。原作では唐突に始まった「栄冠は君に輝く」の合唱ですが、ハタダの野球部に対する毒舌がのちのシーンに効果的に誘導していると思いました。あの合唱のシーン、今回一番笑ったかもしれません。脚本の展開的には何が起きるかはだいたいわかっていて、それを待ち構える姿勢で開幕から観ていましたが、椅子をバンバン叩き始めたあたりでもうだめでした。あんな暴れ方はとても私には思いつきませんし、山形東高校でも人格社でも真似できるものではありません。大好きです。まだ入学して数か月のはずの一年生の小田川と間宮が、ハタダ先輩の言葉に(文字通り)踊らされて、薮は見たことのないような動きをするので、みんなハタダ先輩が好きなんだなあ、と思う素敵なシーンでした。あれはまさに「ハタダを中心としたカルト」だったと思います。まわりが勝手に盛り上がってるのに対して、ハタダ先輩はあくまで冷静で、合唱が終わった後、部員たちがストップモーションになる中で語りだすのがとてもよい演出だったと思います。ストップモーションのときに部員のみんなが静止できずカクカクしているのが見えてしまいました。あれはあれで面白いと思いましたが、私はハタダが言うことをすでに知っているからそう思っただけで、初めて見た人はそっちが気になって気が散ってしまうかもしれません。

      私は厄介なカメラマニアですので、写真をめぐる見解は少し偏ったものになると思われますが、ハタダ先輩の造形の細部に関わってくる部分でもありますので書かせていただきます。ハタダ先輩がスマホで写真を撮っているのは、少し違う気がしています。平凡な高校生に見えてしまうのです。間宮君はハタダ先輩に憧れて写真部に入り一眼レフを持ち歩くようになったので、ハタダ先輩がスマホだとやはり少し違和感があるように思えました。「代わりに自分を説明してくれるもの」というモチーフが本文上でも登場するように、持ち物もその人物に関して物語っています。薮の場合腕章やICレコーダー、権田原の場合ハリセン(今回は拡声器も加わりさらに強力になっていました)、間宮の場合一眼レフなど。小田川は黒板消しクリーナーですが、常に持ち歩けるものではなく、たいていの場面で小田川は手ぶらで、小田川の肩書や役割のない決まりの悪さを暗に示しています。人格社のハタダ先輩では、古いカメラを手慣れた様子で操作しながら話す感じで玄人感を醸していました。特にハタダ先輩は、高校卒業後はカメラを手放してしまったという変化が描かれているので、その点は重要に思えます。今回のハタダ先輩は、静かに佇んで言葉を発するのみのシーンが多く、台詞に力が入りがちのように見えたので、カメラでなくとも何か手元にいじれるものがあると意識が分散され自然な発話になり、所作からも一味違う感じが出るのではないのでしょうか。決して他の登場人物のように大きく暴れまわる必要はありませんが、細部に宿る「らしさ」を作りこむことができれば「あの人は特別」と後輩に言わせるだけの存在感をより示すことが出来ると思います。猫背でぶれてそうな間宮君の撮影スタイルと、伸びた背筋でしっかりと脇をしめ、ファインダーの中の視界に集中するハタダ先輩の対比がみてみたいです。

      「写真は引き算。究極的にはカメラもいらなくなる。決定的なものを見つけたとき、私はそっとファインダーから目を離す」というのは、見たいものだけを見ようとすると、みんな鬱陶しくなって目を閉じたほうがよくなる、決定的な瞬間は、表現意図とか残すこととかを忘れて、その状況に自分がいることに没頭してひたっていたい。という、ハタダ先輩の見え隠れする厭世観や刹那主義が見て取れる描写です。文面や発話だけではなかなか伝わりにくいと思います。私は、何かをフレームに入れようとして、あきらめてため息をつくハタダ先輩の動作が観てみたいです。スマホはどうしても画面を遠巻きに見ているので視界を預けている感覚が生まれにくいのです。これは余談ですが、標準的なスマートフォンの背面カメラは人間の視野よりもやや広めの広角レンズが多く採用されており、近くにある食べ物を大きくダイナミックに写したり、人物とその周りに拡がる風景を同時に収めるのには向いていますが、何かを強調してクローズアップしたり、少し遠い被写体を表現するのには不向きです。それこそ、ハタダ先輩が言うように余計な物が入ってしまうのです。ハタダ先輩には、被写体から一定の距離を置き、自分に見えている特別な何かを際立たせて描写したい、理想主義者的な側面があるのだと思います。

      カメラが難しそうだったら、パソコンのキーボードだけ用意してカタカタ音を立てながら記事や文芸部の原稿をタイピングしている動作を取り入れてもいいかもしれません。この作品、誰も記事書きたがらねえし。推測ですが薮ちゃんは授業中に書いてると思います。衣装もパーカーだったのは間宮君とかぶっていてどうかな…と思ってしまいました。ハタダ先輩は標準服を崩すにしても端正なスタイルなイメージだったので、青いシャツや、昔の大学生のようなニットベストを着ていてもいいかと思いましたが、高校演劇でそれをやると先生に見えてしまうかもしれず難しいところです。一人だけボタンダウンの白いオックスフォードシャツなんかを着て腕まくりをしていてもいいかもしれません。ハタダ先輩の特別な存在感と佇まいを視覚的にもわかりやすくできると効果的かと。翌年の文化祭で変わらない姿で現れるのも時間の経過が分かりにくい気がして、衣装は工夫できる気がしました。ハタダ先輩は常にみんなの話題の中心ですが、意外と登場シーンが少なく、とくにカリスマ扱いされていたころのエピソードは意識させなければすぐに終わってしまう印象でした。その後、唯一現役時代のハタダ先輩を知らない権田原が、それと知らずハタダ本人と対面するシーンが控えており、あそこでの二人の対話を観客に興味をもって聞かせるためにも、ハタダ先輩という人物が観客にとって気になる存在で、注目しなければならないものとされなければならない難しい役どころです。圧ばかりかけてしまって大変申し訳ないのですが、ハタダが部員にも客席にも爪痕を残す存在であるほど、三年王国という作品の賑やかで可笑しいだけでない部分がきちんと伝わると思います。

      これは酷な話かもしれませんが、新聞部現役世代の生々しい情けなさに対し、学校を去ってしまったハタダ先輩の内面から染み出る悲哀がやはり足りないような気がしてしまいました。これは高校生にとっては想像で補うしかない部分ではあると思いますが、本作タイトル「三年王国」が示しているように、本作の主題はやがて過ぎ去る理想郷です。その終焉の先にいる先輩だけが、狂乱の時代の輪郭を客観的に物語ることができるのです。河原で小田川と話すシーンはハタダ先輩の語りに任されている難しいところではありますが、あの場面の台詞が言わされているように聞こえてしまってはいけないと思います。カリスマだと思われていた先輩がただの人みたいなことを言っている静かな絶望と悲哀が感じられれば、引退を迫られた薮ちゃんの断末魔もより重く轟くことでしょう。

  7. 当事者

    とはいったものの、人格社の三年王国と、逗子開成の三年王国では「当事者」がどこに位置しているのかが違うとも考えました。人格社で舞台に立っていたのはみんな21歳くらいの人間で、我々が演じる高校生活はどうやっても「若作り」であり、「若作り」してでも高校を作らなければならなかった切実さそのものが綴られているものでした。あの場で「当事者」として扱うことが出来るのはハタダ先輩だけで、かつて自分の青春があった場所を訪れ回顧するという切り口は当時すでに大学三年生になってしまっていた私が三年王国を書く姿勢と一致しています。しかし、逗子開成の皆さんにとっては、新聞部の現役世代が当事者で、ハタダ先輩だけが空想の産物になり得るのです。演技力で埋められない隔たりがここにある気がします。

    ここから先は少し乱暴な見解です。教育上あまり手本となるような記述ではないかもしれません。

    私は高校時代、戦争や災害の悲惨さを現地の高校生が伝えるものや、いわゆる感動ポルノ的な高校演劇を多く見てきました。そこから伝わってくる悲しみや恐怖は結局偽物に過ぎず、脚本書いて演出している時点でそれは嘘であろうと考え、にもかかわらずそういった作品に対する評価もその大部分が憐れみや同情なのではないか、舞台そのものへと向けられた眼差しとは大きく異なるものなのではないか、とかなり冷ややかな目で見ていました。題材が時代や社会を反映しているとか、誰が演じているとか、そういうのは舞台の外にあるものの話で、評価するなら舞台の上に造られた世界だけを見てほしい。舞台の外のノイズではなく、劇場の中で聞いた音を感じ、すべて同列のフィクションとして扱われるべきだ。と考えていたのです。

    しかし、高校演劇を離れ4年がたち、なぜあれほどに戦争や災害、社会的なテーマ、露骨な自己憐憫、同情を誘う茶番、奇をてらっただけの陳腐な教訓の押し売り等々が一定の評価を得ていたのか、わかるようになった気がします。高校演劇において、当事者の生身の肉体に対する同情が強く生じるのも事実である。特に普段演劇を見ないような人たちにとって、テレビや新聞やSNSではなく、生身の人間が声を発し、観客がその場に居合わせているというそのシチュエーションが、その演者自身の「当事者性」に無意識にフォーカスしてしまうのです。演劇でやる必要性をあまり感じないものが、演劇だからこそ注目されていたのだと考えるようになりました。

    私はなんか面白そうな部活として新聞部を取り上げたにすぎませんが、高校演劇の舞台の上に立たされた「当事者」性と、それを取り巻く構造が報道やジャーナリズムと関連しているような気がしてならないのです。

    当然ながら学校は多くの人が通りすぎる場所です。つまり多くの人はかつて「当事者」であった。18歳を過ぎた人の多くは「元・高校生」と定義することが出来る。その「元・高校生」に対して「現・高校生」が当事者性を武器に発信することが出来る。高校演劇とはそういった場所とも考えることが出来ます。潤色して頂いたセリフにもありましたが、よく高校演劇界隈で取りざたされる「高校生らしさ」という正体不明の抑圧の姿を、ここに暴くことが出来るような気がしているのです。

    自分の現状を痛々しく誇張して書いた高校時代の私も、災害の傷やハンディキャップを見せ物にしていた者たちも、また、懲りずに自分のことを書き続けている今の私も、言ってしまえば身勝手な自己憐憫に他人を巻き込んでいただけなのかもしれません。しかし、学校生活を支配するこの切実な苦痛が描かれることで、間違いなく救われる人だっているのです。客席にいる多くは高校生なのですから。同情と共感は別物です。「これは僕の話だ。僕が出てくるんだ。」と思ってもらえるような、「誰にとっても他人事ではない」そんな迫りくるような存在になってほしいです。

    執筆の段階で権田原の台詞として書いたものの、使わなかったものをここに記しておきたいと思います。長すぎてもはや台詞とは言えませんが、何かの参考になればと思います。

     

    これは我が東高校の百周年記念誌です。我が東高校は今年で135周年です。残りの35年を誰が書くんでしょうか? 同窓会ですよ。立派な地位を手に入れた大人たちがあのころはこうだったとか思い出しながら、美化しながら、残りの35年の歴史を書くんでしょう。ですが、歴史を解釈する史料があったらどうでしょう? 同窓会のもはやとうの昔に「当事者」ではなくなった人々の記憶よりも、「当事者」が書き残したものが歴史として信頼を得るのです。 いいですか、こんな田舎の芋くさい高校で迫害のような日々を送っている我々が、ただひとつ獲得している事実は「当事者」であることだけです。世間知らずのなんにもできない高校生が、3年の間だけもつことのできる「当事者」としての恍惚と不安が、この新聞部にはある。そうあるべきです。「当事者」が沈黙したら、事実はなくなる。この沈黙は空白を意図したものですか。

     

    私は「もう帰れない場所:高校」を、高校生を過ぎ去った当事者として三年王国を描きましたが、現在高校生の当事者が描くとすれば、「取り返しのつかない今いる場所:高校」として描かなければならないのでしょう。これは生徒創作ではなく既成台本ですが、皆さんには私が書いた言葉を自分自身の声にすることができると思います。もう高校を出てしまった私に言わされているのではなく、自分自身が嘆いているような、そんな姿が観てみたいです。
    それはもはや演技ではないのではないかもしれませんが、今回見ていて、特に現役部員の方々がなんだか皆さん素っぽくて、私の思い違いかもしれませんが、あまり演じていなさそうな感じがどこかしました。役に入っている状態から素に戻ってしまう瞬間が舞台上にあるととても嘘くさく見えてしまうのですが、そもそもみんな素で演じているような感じがしたので、あの見たことの無いような迫力が成立しえたと考えます。

  8. 謎部活

    私は三年王国を作るにあたって、「究極超人あ~る」の光画部に始まり、「涼宮ハルヒの憂鬱」のSOS団、「けいおん」の軽音部、「氷菓」の古典部「日常」囲碁サッカー部に代表される謎部活ものの漫画・アニメ作品を参考にし、それらを想起させるような仕上がりを意識しました。大多数の大人たちの青春に対する誤解や虚構に委ねられてきた願望とありふれた現実との落差を意図的に表現しようと試みたのです。創作物の中で高度に理想化され、作り上げられた現実逃避の場とされがちな学校という場所ですが、現実逃避の先にある原体験にだって逃げられない現実があるのです。(以下は参考です)

    それにしても、謎の部活、なぜここまで増殖しているのか? これらの部活が登場する作品は、いずれも“日常系”と呼ばれるものばかり。学校に行って美少女とたわいもない会話をして……というほのぼのとした日常を描く“日常系”が、いまラノベやアニメの世界を席巻している。その誕生とブームのきっかけになったといわれるのが、『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川 流、いとうのいぢ角川書店)と『けいおん!』(かきふらい芳文社)。“宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと”を目的として作られた「SOS団」や、実際は部活の様子などほとんど描かれず、部室でお菓子を食べてしゃべっているだけの「軽音部」。そう、実はどちらも“何やってるかよくわからない部活”ものでもあったのだ! 他にもさまざまな日常系作品があるが、“何やってるかわからない部活”や生徒会が出てくるものは少なくない。口うるさい親がいる家でも、イヤな奴のいるクラスでもない、日常の場所、それが部活。でも、ふつうの部活のように、甲子園やコンクールなど明確な目標に向かって努力なんてし始めたら、それはもう“日常”でなくなってしまう。つまり“何やってるかわからない部活”は日常系のために作られた舞台で、この2つは切っても切れない関係なのだ。(ダ・ヴィンチweb 「“なにやってるかよくわからない部活”が大人気」から抜粋)

     

     青春物のアニメや漫画には美少女のキャラクターがつきものですが、今回の逗子開成の上演ではそれを完全に排除し、その結果今までにほかに見たことのないものが出来上がったと思います。大変なことが起こったと思いました。何もかもが新鮮で否が応でも釘付けにされるような世界観になっていたと思います。あの激震が迫りくるような勢いはなかなか真似できるものではありません。
  9. その他

    音響について、ト書きに指示した交響曲第九番のモチーフを省略したのは正しいと思いました。たしかに私の思い入れの強い部分ではありましたが、ただでさえ要素の多い構成で、あまり本筋に絡んでこないこういった要素を切り落としシンプルにしたことで観やすい仕上がりになっていました。オリジナル三年王国ではベートーヴェンの第九の1~4楽章の配置に倣って構成を進行し、音楽もそれに合わせて使いましたが、無理に音楽で場面転換を行わなくても物語が進んでいたように思えたので他の楽曲に入れ替えても良いかと思いました。ICレコーダーの音声が再生されるシーンで流れるSEが丁寧に作られていて良かったのですが、役者さんの手元でレコーダーを操作する動作と音声(再生開始やスキップのボタンを押す動作とピッという電子音)の間でラグが生じているのが気になりました。音を聴いてから動いているように見えて少し不自然に感じてしまいました。人格社でやったときは演者と操作で間合いを覚えて、動作と電子音のタイミングを合わせるだけでどうにかなったので、音を聴きながら何回か練習してみるといいと思います。舞台上の部員が無言でレコーダーの中身を聴いている間、SE(合コンみてえな取材や権田原の陰口)だけを聴いて観客が笑っている状況がシュールで可笑しかったです。

    照明に関しては私の知識が乏しく詳しく分析できていませんが、感じたことを述べます。基本的にシンプルですが、ハタダ先輩に関する回想のシーンで時系列が前後し状況がコロコロかわる部分は機敏に対応し上手く切り替えられていたと思います。今回の会場は上下の出入り口から光が漏れていて完全な暗転はできなかったり、演技エリアが広く取られていたりと難しかったと思います。会場が変われば照明による表現の幅が広がりそうで楽しみです。本作の舞台は基本的には屋内ですが、唯一学校の外に出る河原のシーンや、少し異質な雰囲気が漂う保健室など、特別な場面を光が彩っていたら綺麗だなと素人目に思いました。

  10. おわりに

    書いていたら楽しくなってしまい、たいへん長くなってしまいました。とはいえ、こんなふうにみんなが楽しく語れる作品に仕上がっていることは確かだと思います。冗長で要点を得にくい文章だったとは思いますが、読んでいただきありがとうございます。私はただ観ているだけでしたので演出や演技の苦労も知らず好き勝手に述べてしまいました。オリジナル三年王国を作っていた当時を思い出しながらもう一度作り直す機会を得ることが出来たような気持ちになり勝手に盛り上がってしまっています。自分の作品を一観客として解釈しなおす機会を得ることは今までなく、私自身もたくさんの発見がありました。とても刺激的で楽しいひと時をありがとうございました。実際ブラッシュアップしていくのは、ほかならぬ部員の皆さんや先生方だと思いますので、脚本や演出の改変は皆さんの意志を尊重したいと思います。私はこの逗子開成演劇部の三年王国を、上位大会でより多くの人に観てもらいたいと強く思いました。どうかこの台本を立派に育ててやってください。それでは、またお会いできる時を楽しみにしています。