カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

虚構の春

寝不足の時に外で日差しを浴びているとふわふわと意識が希薄になっていく。足取りに力が入らなくなっていき、そよ風にあたっただけで立ち止まりたくなってしまう。

家の近くの駅まで戻ってきた。電車から降りようと席から立ち上がろうとした時、感覚が大きく揺らいだ。走り出す電車の音、鳴り続けるアナウンス、改札通過の音、人々の足音。僕は立ち止まって耳を塞ぎたくなった。

ホームの真ん中に、公衆電話がぽつりと置いてあった。台の上に電話機だけが置いてあって、そのまわりには何もない。自販機と階段の間、人々が忙しく往来するホームの上でそこだけ常に誰もいないように見えた。みんなが電話機を無視しているのではなく、電話機が誰も寄せつけないのだと感じた。

何かで耳を塞ぎたかった僕はすがるようにその受話器を手に取った。そのとき瞬間的に、僕を慰めてくれる誰かの言葉が聞けるような気がなんとなくしたのだ。受話器からはプーッという電子音が聞こえる。この音もきっと何かの慰めになるに違いないと耳をすませたが、それすらも電車の走行音やアナウンスにかき消されてよく聞こえない。こんなうるさい場所に置かれた電話で人と話ができるはずがない。なんなんだこの電話機は。僕は諦めて、そっと目を閉じた。一切が意識から遠のいていくのを感じた。めまいがして歩くことができない。僕はうずくまる代わりに電話機の前で立ち尽くす。受話器で片耳を塞ぎ、目を閉じる。駅のノイズをノイズではないものとして受け入れると、それらの音の向こうから、聴きたかったプーッという音が聞こえるようになった。やっと意識の中は電話機と僕だけになる。すると、少しづつ僕の感覚が地面の水平を取り戻すのを感じられた。プーッという音から架空の誰かの慰めの言葉を導き出すことは出来なかった。だけど、どうでも良くなって受話器を置いた時の、がちゃんという音。その音は、予期せず僕を癒してくれた。そのがちゃんという音を機に、周囲の環境音は自然な形で僕の意識にカット・インする。

僕に必要なのはきっかけだとかそういうことを言いたいんじゃない。僕はただただその受話器を置く音が心地良かった。その音を聞くためだけにそこに至る全てが用意されているような気さえした。どこに置いてある何が救いになるかわからない。

また同じことをやってしまうかもしれない。僕は今や人ではなく電話と話がしたい。

 

 

嘘の作品履歴

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《略歴》

奥山諒太郎(おくやま りょうたろう)

山形県出身 2000年生まれ

山形東高校在学中、演劇部に所属し「ガブリエラ黙示録」の原作を執筆。同作は2017年度の東北地区高等学校演劇発表会において最優秀賞と創作脚本賞を受賞。翌年8月に長野県上田市で開催された全国高校演劇大会・信州総文祭演劇部門に出場した。

高校卒業後上京し日本大学経済学部に進学。一度演劇から離れるが、2021年、大学3年生の夏に劇団「人格社」を結成。旗揚げ公演「グッド・バイ」の脚本・演出を手がけ、東京若手演劇祭2021(9月・王子小劇場)に出場。3年間の沈黙を破って書き上げた本作は佐藤佐吉賞2021優秀脚本賞を受賞した。2022年3月には第二回公演「三年王国」を新宿眼科画廊にて上演。脚本・演出を手掛けた。

現在はギリシアのミコノス島に居を移し、次回作「ドビュッシーパスピエ」の執筆に取り組んでいる。

《作品履歴》

  • 『ガブリエラ黙示録』(原作)2017~2018
  • 『おおきなかぶ』2017
  • 『グッド・バイ』2021
  • 『三年王国』2022
  • ロング・グッドバイ』2022
    • 投売新聞武蔵野支局から本社営業部へ異動になったハタダ。国分寺の家とも今日でお別れ。お世話になった先生にすき焼きをご馳走したら、明日から丸の内OL⁉のはずだった。本社で最初に取った電話。それが全ての始まり。「中古車フェア」を名乗る犯罪組織の調査を進めることになってしまう。そのさきにあったのは、ハタダのかつての愛車であった。
    • UFOによる爆撃で家を失ったヤブサカ。火災保険が下りず、居候先で煙たがられながらも仕事を続けていたが、かつてアパートがあった爆心地で「賢者の石」を拾う…
  • ドビュッシーパスピエ』2022
    • 僕は紺色の背広を着て、水色のネクタイを締め、内羽根のストレート・チップの革靴に足を詰めて新幹線に乗っていた。傍らには文明堂のカステラが入った紙袋があった。
    • 彼は言った「海に沈みながら永遠の夕陽を眺めているようだ」
    • 彼が月の光を浴びたときにドビュッシーと同じことを考えるかというとそうとは限らない。
  • 『スナック・シアター』2023
    •  ここは、なぜか精神科医ばかりが集まるスナック。話を聞いてもらったり、お話をしてもらったり。店主、アルバイト店員、そして客の医師たちの間には奇妙な信頼関係があって…
  • 『ヤブちゃん』2023~2058
    •  それでも地球は回っているし、僕は生きていかなければならなかった。
  • 『贋作 若きウェルテルの悩み』2023
    • 伝説と言われた恋愛ゲーム。そのゆえんは極めて高い難易度であった。恥をかきすぎるとその場で拳銃自殺を遂げてしまう謎のルールがあり、自尊心を保ったまま、放課後の甘い時間を過ごさねばならない。それは、純粋な愛ではなく、醜い自己愛の発露に過ぎないことに気が付いたとき…
  • 『シーバスリーガル12年』2023
    • 「あなたは煙草を吸わないから好き」と言われたので、その日初めて煙草を買った。
  • 『赤羽台ノワール』2024
  • 赤ずきんちゃん車輪の下でつかまえて』2024
  • 『解体されゆく旧中野駅舎』2025
    • もうここには、サンプラザもブロードウェイもない。今もあるのはあの真っ黒い謎のドコモのビルだけ。変な名前の複合施設が出来てからここはただの新宿のおまけになった。
    • ブロードウェイの地下があった部分には、未だに退去していない人々がいた。そこを中心に、中野駅北口の地下社会:ネオ・ブロードウェイが独自に発展していた。彼らがやりたい放題に地下を掘りまくった結果、東京メトロ東西線のトンネルが崩落する事故が起こる。
  • 『カリフォルニア・ロケット』2027
  • 巣鴨プリズン』2028
    • 巣鴨プリズンで生涯を終えた戦犯たち。人類を危機に陥れた彼らが、なぜ東京の僻地でじっとしていられたのだろう。
  • 『晩年』2028
    •  選ばれてあることの恍惚と不安とふたつ我にあり
  • 『斜光』2030
    •  ついに最後の写真フィルムの製造が中止されると発表された。思想の強いカメラ女子:千穂は、ペンタプリズム並みに屈折した恋心にピントを合わせることができず、スローシャッターでブレブレ、絞りは開きっぱなしで彼の姿はあまりに眩しくて白飛びしていてよく見えていなかった。最後のフィルム、最後の27枚。加水分解したピントリング、モルトが剥がれ落ちた裏蓋、にじむ彼の二重像、連動距離計に私はついていけない。露出計の針と、私の心はいつも揺れている。それでも私は巻き上げる…
  • 『殺人一家横浜家系』2031
    • 横浜に存在するとされる、伝説の殺人一家「横浜家系(よこはまかけい)」殺しのプロの一家は、再開発で立ち退きを迫られ、二子玉川のマンションへの引っ越しを控えていた。しかし、これは因縁の秘密結社「東急グループ」が横浜家系を滅ぼすために仕組んだ陰謀であった。
  • 『スカイタワー41』2041
    • 消滅可能性都市に指定された山形県上山市。出生数がゼロとなって久しい。だが、この町には、1990年代に建てられた41階建ての場違いなタワーマンションがそびえたっていた。
    • 少子高齢化は加速する一方だが、山形新幹線はいつまでたっても遅いままだ。一切発展しないまま衰退の一途をたどる山形県。ついに市町村の9割が財政破綻した。
    • 町の大人たちに失望した少年たちの間では、新種のドラッグが流行していた。上山市にいくつも乱立したドラッグストア。その多くが今や闇の商売に手を染め、その結果山形中からジャンキーとなった少年たちがあつまり上山市は一種のスポットとなっていた。闇ドラッグストアの元締めの青年「ヤマザワ」は、「月のはじめの元気市」と称し、少年たちを引き連れ町の大人たちに「超暴力」をふるっていた。市役所の職員を全員殺し終わってしまい退屈していたヤマザワたちは、半分くずれかかったスカイタワー41の最上階を目指す。
  •  『シン・高島平』2045
    •  廃墟と化した高島平団地。14階建ての20棟を使って、人類史上最大の「ドミノ」が行われた。とっくの昔に廃止され、忘れ去られていた旧都営地下鉄三田線のトンネルの空洞の中をものすごい勢いで爆風が押し寄せる。衝撃波の直撃を受けた旧三田線沿線の水道橋から大手町、内幸町までは壊滅的な被害となり、結果的に東京の半分が「高島平」になる。荒野と化したかつての東京「シン・高島平」に、衝撃波が地を穿ち形成された「シン・荒川」が流れる。

ここ数日の日記

1.10日くらいうちに住んでいた後輩が帰った。

 後輩は11月の初旬もうちに10日ほど住んでいた。そのあと福岡に向かい数日過ごした後、また東京の僕の家に戻ってきた。そこからまた10日、一昨日の朝までいた。彼の家は今仙台にあるということになってはいるが、11月中は彼はずっと不在であった。

さらに驚くべきことはというと、彼は僕の家にいる間ずっとご飯を作ってくれていた。だから僕は彼から宿代なんてとることはできない。むしろ対価を払うべきは僕の方であったが、後輩は大したことではないという様子ほぼ毎日おいしいご飯を作ってくれた。美味いのである。この上なく。うちにはもともとなかった調味料が彼が滞在するたびに増えていく。使いこなせる自信がない。家出した先でこれだけの炊事をこなせるその力がとにかく羨ましかった。

彼はものすごく嫌がりながら仙台へと帰っていった。さて、彼がいなくなってからの僕の生活だが、何もうまくいかなかった。

2.実家に電話した。

 携帯電話を買い替える必要があった。今使っているものが不調であるからだ。「ドコモのままプランを変えて機種変更したい。それでそれなりに安く済むし手続きが楽なんだ。そう父ちゃんに伝えてくれ母ちゃん」ただそれだけの要件で母に電話した。月曜の夜。しかし、母は酔っぱらっていて話が通じなかった。ここで父の登場である。

「おれはほとんど使わないからお前もそういうふうにできるはずだ」

「違うんですよ『とーちゃん』。使わなければいけない用事があるのです。」

「とーちゃんはそんなの知らん」

「存じ上げております。『とーちゃん』。しかし事情があるのです。」

 父はスマホに詳しくない。僕も通信事業者に精通しているわけではないし、その上うまく説明できる自信がない。そこに酔った母がちょっかいを出す。父と母は口論をはじめる。僕は電話を持ったまま沈黙している。するとだしぬけに父が言う。

安倍晋三がいまテレビに出てるんだ。日本銀行が貨幣を発行すればいいから政府の財源はなくならなないとか言いやがる。ばかじゃねえのか。」

「おっしゃる通り」

「こういうことを言う国会議員が何人もいるんだ。おまえどう思う?」

「あー、いやー、財政政策で景気が調節できる段階ではないと思いますね。」

「その通りだよ。安倍晋三プライマリーバランスのことわかってんのか?」

「あー、アベノミクス以降日銀の機能は低下していると言えるのでは…」

「全くだよ。黒田のヤロー(日本銀行:黒田総裁)がよー」

 父が本当に安倍晋三の悪口を言いたいだけなのか。それとも、仮にも経済学部に通っている僕を試したいのかはわからない。ただ、ミクロ経済学Ⅱ(再履)の評価がCだった(Dで落第。その一つ上である)僕にはもうこれくらいが限界であった。

「まあいいんだけどさ、おまえ就職はどうすんだ」

急所の打撃を受けた。僕は喘ぎながら平然を装い、続ける。

「2月に3日ほど新聞社の写真記者職のインターンシップに参加したいと存じております。」

「おまえ山形県庁は受けないのか?」

「いやぁ、地方公務員上級職ははそれなりの準備が必要では…?」

「そんなもん3か月くらいで大丈夫だろ」

「いや、3か月は無理があるのでは…」

「おまえ賢いんだから大丈夫だろ」

 父が僕を賢いと思っているのは高校入試で少しばかりうまく行ったからであろうが、15歳の僕と今の僕を比べると、その脳みそのしわは大幅に減っているものと思われる。今の僕の脳みそはおせちに入っているかまぼこくらいスムースになっている。

「それにしてもそれなりの準備を要するのです『とーちゃん』」

「しろよ、その準備を」

「選択肢に入れておきます。『とーちゃん』」

「で、おまえ携帯は何が欲しいんだ。」

iPhone 13 mini 128GB スターライトです」

よどみなく答える。

「わかった」

受け入れられたらしい。それだけ伝われば結構だ。

3.とーちゃんと呼べ

のび太「パパ」

ちびまる子ちゃん「お父さん」

シンジ君「父さん」

 まだ幼稚園に入る前だった気がする。父は風呂の中で僕に「とーちゃんのことはとーちゃんと、かーちゃんのことはかーちゃんと呼べ」と言われたのを記憶している。それ以前はどう呼称していたのか記憶していないが、斯くして僕はクレヨンしんちゃんになったのである。

4.デトマソパンテーラ

 電話口で父が私の就職に関することと安倍晋三の悪口を交互に言いながら母と言い争っているので、なんだか空気が険悪になってきた。いや、僕たちが共有しているのは音声だけであり僕が吸っている空気はまるで別物なのだが、すくなくとも良い気持ちはしなかった。僕はだしぬけに言う。

「『とーちゃん』、デトマソパンテーラって知ってる?」

「知ってるに決まっているだろう。」

「知ってるんだ」

「当たり前だろ」

「いやー、好きで聴いてるラジオで車の話になってねー、出てきたのよ。デトマソパンテーラが。なんだそれはとなりまして、『とーちゃん』なら知っているかと。」

 

2021.10.09 リリー・フランキー「スナック ラジオ」 - YouTube

(11:00 あたりを参照)

「そりゃもう。スーパーカーブーム世代だからね。懐かしいな。でもおれの周りではデ・トマソ・パンテーラよりも格好良いと言われていたのは…」


パンテーラPantera )は、デ・トマソの3作目のスーパーカー。1960年代を代表するレーシングカーフォード・GT40の構造的特徴をイメージした、イタリア製のボディにアメリカ製の大排気量エンジンを搭載した、デ・トマソフォードによる伊米合作のスーパーカーである。「パンテーラ」はイタリア語で「豹(ヒョウ属)」、イギリスではpantherを意味する。(Wikipedia


とーちゃんは楽しそうに話してくれた。よし。証券市場論の試験勉強と同時並行でスーパーカーについて勉強しておこう。僕はその場をしのぐ手段としてスーパーカーを手に入れ、それに乗り込み走り去ることができると考えていた。そんな馬鹿な。なんにせよぼくは「デトマソパンテーラ」という言葉の響きが気に入っていた。「デトマソパンテーラ」と言いたいだけだ。どんな車かは知らんが。

 

5.薬局に行くのを忘れた。

 僕は山形の薬局で1時間待たされたことがある。誇張ではない。ずっと時計を見て何分経ったか数えていたから正確に記憶している。待合室の面々はほとんど入れ替わることはなかった。待たされていたのは僕だけではなかった。それでもカウンターの向こうにいた薬剤師は急いでいるようには見えなかった。急ぐ必要なんてないのだろう。田舎の精神科の向かいにある薬局のばかみたいに平凡な土曜日。急を要する事態などどこにもない。事実、僕はほかに何の用事もなかった。他の人がどうだったかは知らない。あれ以来とにかく薬局で待つのが嫌いになった。そこで、いつも処方箋だけ置いて「あとで取りに来ます」と言って立ち去るようになった。スマートで忙しそうな紳士のように。その紳士が置いていったのは抗うつ剤睡眠導入剤の処方箋なのだが。

 その薬を受け取るのを忘れた。寝る前に飲む薬がない。薬局はとっくの昔に閉まっている。

6.夢

 寝ているときに見るもの。夢。僕は夢の話が人に通じたことがない。なぜかというと夢と現実の区別がついていないからである。睡眠導入剤によってもたらされる強制的な深い眠りの中では夢を見ることがない。少なくとも僕は。しかし、薬を飲み忘れたときの浅く短い眠り、或いは一度目覚めたあとの再びの眠り。その中で僕は夢を見る。というかこういう場合僕は半分起きている。頭の半分で考えていたことを引きずりながら、眠っている状態と覚醒している状態の間みたいなところを寝床で数時間さまよう。それを繰り返す。この時に見るヴィジョンは日中起きているときよりも強烈に感覚に訴えかけてくる。半分起きている頭で考えるのは以下のようなことだ。苦しい。布団から出たくない。何もしたくない。冷蔵庫の中に大根がある。米を炊いていない。パンはあるが塗るものが無い。布団の外は寒いが外は暖房を入れなければならないほど冷えてはいない。もう嫌だ。何もしたくない。どうすれば楽になれるんだ。声をあげて泣き叫びたいがその力もない。誰かに抱きしめられたい。誰に???これらの物事がこの世のものとは思えないほど恐ろしいヴィジョンとなって感覚に訴えてくる。大根や炊飯器や切れてるバターや切れてるバターが陳列されている売り場や切れてるバターが陳列されている売り場のあるスーパーマーケットやスーパーマーケットにたどり着くまでの道や実際にその道を僕が歩くことになった場合に身に着けるであろう衣服が。あるいは暖房をつけた場合の電気料金が。あるいは一切の痛みの無い世界が。一瞬の多幸感の致死量の再放送が。誰だか知らないが抱きしめてくれる人が。この現象をただ悪夢と呼ぶのであればそれは過小評価であろう。

 こういうことを説明するのが面倒なので「夢とか見ますか?」と言われたら「いやー、僕夢見ないんですよねー」と言っている。

7.あるものでなんとかする。

 寝る前に飲む薬が3種類1錠ずつある。そのうちの2種類がもうなくなっていて、そのかわり1種類だけなぜか3錠も残っていた。何も飲まずに寝ると、浅く短い眠りを繰り返し、前述の悪夢に類するものを見ることがわかっている。だったら何も飲まないよりましであろう。そう思って残ってる3錠をすべて飲んだ。

8.36時間動けなくなった

 もう何も覚えていない。少なくとも1日経ったのかもしれない。ひどく腹が減った。久しぶりに大好きなモスバーガーに行こう。そして、帰りに薬局に寄ろう。

9.モスバーガーが好きすぎてお金が全然ない話をしても誰も同情してくれない。

 だけど、モスバーガーに行った日。その日は良い日だ。

10.薬局からの帰り道

 幼稚園の制服を着た男の子と、お母さんが手を繋いで歩いていた。男の子は言う。

「おばーちゃんは、おかーさんを産んだんでしょ?じゃあおばーちゃんはおとーさんも産んだの?」

お母さんは答える。

「違うの。おとーさんのことはおとーさんのおかーさんが産んだの。」

「ちがうでしょー。だっておばーちゃんはおかーさんのこと産んだんでしょ?おかーさんのおかーさんがおばーちゃんだからおとーさんのおかーさんもおばーちゃんじゃないの???」

 この子は自分が理解できている事実から演繹して推論を進めている。それゆえにこのような結論がもたらされる。よくわかる。僕もなぜじーちゃんとばーちゃんがそれぞれ二人ずついるのか意味が分かっていなかった時期があった。

僕は微笑みながら劇薬が入った袋をさげて家路をたどった。

昔住んでいた町に行った

 10月のある日、僕は病院にいた。

「失礼します」
「やは」

 目の前にいる医者は三人目である。一人目は大学一年の時僕を実家に帰し、二人目は田舎で面倒を見てくれた。その後東京に戻ってきた今、三人目が目の前にいる。
 3人の医者に対して、僕は3回それぞれ自分について語らねばならなかった。自分自身について語るのは難しい。それにも関わらず、生活に支障をきたすほど精神に問題を抱えた人間が、自分自身に関してどれだけ語れるであろうか。診察の予約をして病院までたどり着くだけでも相当の体力を要する。

「最近どうなの?」
「特には何も」

きわめて内的な苦痛。言葉にして表現するのは容易なことではない。

「具合の方は?」
「相変わらず」
「というと?」
「相変わらず落ち込んでいます」

 苦痛に言葉で形を与えるのは大変むずかしい。創作で挫折した試みを、再び診察室で行おうとしていた。それも3回。3人目の医師に初めて会ったとき、今や僕は饒舌になっていた。(昔に比べれば)すっかり元気になった僕は、一通り説明し終わると話すことがなくなり、仕方がないので毎回雑談のようなことをして帰る。

「落ち込んでるって、ひどいの?」
「いいえ、暮らしていける程度に」
「あ、そう。ならよかった。」

 最初に医者にかかったときは、もう何を言えばいいかわからなかったので、思い出したことを手当たり次第に話したのだと思う。今思えば、話さなくてもいいことまでずいぶん話した気がする。「恥の多い生涯を送ってきました」父親の職業、自身の生い立ち、小学校を転校した話、田んぼの真ん中にある退屈な中学校、全く勉強しなかった高校時代、そして、大学への進学。聞かれていないのに話続ける。話すことでしか僕は落ち着くことができなかった。だが、今思えば当時は医者のほかに話し相手がいなかっただけのようにも思える。話ながら思い浮かべる情景が、だんだん新鮮な記憶へ近づいていき、現在の自分が立っている地点へとたどり着いたとき、僕は黙った。第一の医師もしばらく黙っていた。

「いつも通りなのね」
「でも落ち込んでいます」
「暮らしてける程度にでしょ?」
「ええ」
「じゃ、ある程度は落ち着いてるってことでしょ」
「たしかに」
「マシじゃん」

 世の中は苦しみで満ちている。暮らしていけないほどに落ち込んでいる人が病院にやってきて懸命に語るべきだ。しかし、暮らしていける程度に落ち込んでいる人は、誰に向かって何を語ればよいのだろうか。僕はたまたま、病院の診察室で話をすることができているが、大したことは話していないし、これが何かの救いになるとは思っていない。

「次いつにする?来月の同じ日でいい?」
「はい」
「じゃお大事に。またねー。」
「ありがとうございました」

 お金を払って病院を後にする。こんな話の相手をさせられる先生がいったいどんな気持ちなのか僕にはわからない。最初に受診したときの不安が根絶されたわけではないので月に一回病院に来てはいるが、別に一切の痛みがない世界を目指しているわけではない。口に出して説明したことを思い出してみる。なんだ、ただそれだけのことだったのか。そんなはずはない。僕がこれまで医師たちに語ってきたことが苦しみのすべてだったとは思えない。

 

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 ここは大学の附属病院だ。近くには僕が籍をおいている大学がある。大学の近くの、暗く薄汚い地下鉄の駅が、大学1年生の頃に住んでいた町へ通じている。何もせずに過ごした大学生活の前半を今や僕は惜しんでいた。あの時何に怯えていたのか、思い出そうとしているうちに僕はその地下鉄に乗っていた。

 駅の入り口は小さく、薄暗い細い階段が地下深くへと続いていた。蛍光灯の寒々とした光が汚れた地下道を照らし、自分の足音がその地下道全体に響く。地下鉄の窓からはトンネルの壁しか見えない。景色が見えないと移動している感覚も希薄になる。この電車は朝と夜だけばかみたいに混雑する。昼間は驚くほど人が乗っていない。20分ほどで地下鉄を降りる。階段を登って地上へ出る。地下鉄の駅の出口からは風が吹き下ろしており、その向こうから秋の強い日差しが差していた。地下の薄暗い蛍光灯の光に慣れた目には、この太陽の光はあまりに眩しい。地下鉄で通学することで生じる小さな苦痛の積み重ねが、この光線で耐えられなくなる。特に秋の強い光はなおのことであった。

 とにかく集合住宅の多い町だった。建物の存在感に対し人の気配があまりに少なく、それは廃墟の中のようであった。この町には昼間人口というものがほとんどいないのである。寝に帰るための場所。こんなところに活気があっても仕方がない。そういう場所だ。人の気配がない静まり返った風景。その中にたくさんの生活の痕跡が見られるが、それらが力なくただ存在している以外は何もない。最低限の暮らしのためのものだけが合理的に配置されている。

 

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 2019年の春。東京で土地勘のない父親と僕は、学生マンションを紹介する会社の人間に「いまから苦労して探すよりここに決めてしまった方が楽です。都内はもう部屋は空いてないでしょう。」と言われていた。ほかに住める場所がないなら仕方がない。大学に乗り換えなしで行けるならここで良いだろう。他に探して回るのは面倒だ。父と僕はあまり多くの言葉を交わさなかった。

 とても後悔している。生活を一人で一から作り上げていくことの重大さをもっと自覚するべきであった。わがままかもしれないが、適応する能力にも限度がある。とにかく、その町は死んでいた。大学と電車で一本なのは便利である。しかし、沿線に何もなく大学と家の往復以外にすることが見つからないことを便利と呼ぶならの話である。我々にとって「都会は便利」なのではない。都市にとって便利なように人間が配置されているだけだ。この町はとくにその性質が強かった。ほんの数十年前は経済成長期のサラリーマンが寝に帰るための団地以外何もなかった土地なのだから。

 僕が当時住んでいたのは学生マンションだった。当時築12年の鉄筋コンクリート造りの堅牢なマンションで、入り口には暗証番号を入力しないと開かない自動ドアがあった。安全安心。それ以外には何もない。部屋は六畳より狭く、一つだけある窓からは隣のスーパーの屋上駐車場しか見えなかった。

 高校で演劇をやめた僕は、東京で一人になって本当に何者でもなくなった。高校の演劇部でしていたことはあまりにほかの人の力に依存していた。自己矛盾の解消に他人を巻き込まなければいけないうちは未熟だ。一人では何もできない自分が、現実逃避の手段に演劇を用いても高校時代と特には変わらない。一度何者でもなくなって、他人とは距離を置き、自分の力で自分の問題を解消できる最低限の強さを先に手に入れるべきだ。というようなことを考えていたのだと思う。しかし、そんな強さが身に付く前に精神がくたびれてしまう方が早かった。自分は何者でもなく、暮らし以外には何もない。それは自身が望んだことであったということが何より虚しく、この暮らしから抜け出す力を持っていないことがただひたすらに悲しかった。

 家を出て散歩に行く。そこで出会う風景はとても慰めになるようなものではなかった。威圧的と言っても良いほどに荒涼たる情景が近所には広がっていた。

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 とにかく巨大な団地だった。再開発の途上だったらしい。広大な土地に並ぶいくつもの団地の建物は無人で、ただ取り壊しを待っていた。昼でも夜でもずっと重機の音がして、少しずつ同じ形の建物を解体していた。全部でいくつ同じ形の建物を解体するのか、それに何年かけるのか。考えるのはあまり楽しくはなかった。

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 ひときわ目を引くコンクリートの巨大な塔は給水塔である。中には団地で暮らす人の生活用水が入っているらしい。僕はこんなものを見たことがなかった。団地群の中で高い建物は奴だけで、だだっ広い空に向かって何の表情もなく存在を主張している。どこまで歩いても奴は視界に入ってくるし、しかも奴は一本ではなく何本も存在している。こんな不気味な奴があっちにもこっちにもいるのだ。わけのわからない巨大なきのこみたいなやつの存在はかなり恐ろしかったし、いまも給水塔を見ると不安な気持ちになる。だが僕が抱く恐怖も奴には何も関係ない。奴はとにかく巨大で、コンクリートでできているから頑丈で、体温なんかもちろんなくて、その色や質感ときたらとにかくなんの表情もなくて、こんなにも表情がないものがあっただろうかってくらい表情がなくて、それでいて常にあらゆるものを見下ろして無言で威圧している。夜に奴を見上げた時のことを考えるともうぞっとしてしまう。暗闇の中の奴の色は夜空の色とほとんど変わりがないのに、その気配と言ったら昼間に見るよりも恐ろしいのである。あたりは真っ暗なのにそれでもなお奴は足元の町に影を落としている。恐怖のあまり奴を視界に入れないように自転車に乗っていたら電柱に衝突したことがある。はたしてのろのろ動く重機たちがこんなものに立ち向かえるのだろうか。どうやって壊すのだろうか。破壊するその瞬間はぜひとも僕も立ち会いたい。

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 誰にも迷惑をかけずに生きることが、人生の目的になるかというとそんなことはなかったのである。人間は迷惑でつながれていたし人生は迷惑でできていた。孤独な都市生活からは迷惑が排除され、あとに残るのはきっとこの団地と給水塔みたいに殺伐とした風景なのだろう。

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 実生活に対する憎しみと自分に対する絶望と給水塔に対する恐怖を抱えながら、それでも僕は大学生活を送っていた。10月のことである。高校の同級生で、東京でよく遊んでいた山田との連絡が途絶えた。

 一週間ほどの沈黙のあとに山田から連絡があり、山田が地元の大学病院にいることがわかった。僕は新幹線で地元の駅に向かいそこからバスに乗って大学病院にたどり着いた。山田と僕は同郷だが、ぼくは大学病院には馴染みがなかった。東京の家を出てから4時間、そこは僕にとっては果てのような場所に思えた。山田が僕を待っていた病室は、不気味なほど清潔な場所で、山田は弱り切った様子でそこにただ佇んでいた。「海に沈みながら永遠の夕陽を見ているようだ」と山田は言った。一体何を言っているんだ。ぼくは海に沈みながら永遠の夕陽を見ている様子を想像しようとしたが、目の前にいる山田の何も見ていない無の表情を見て、考えるのをやめた。ほんとうにそこは果てだったのかもしれない。

 僕が東京に帰ってからも、彼からは時々電話がかかってきた。「もっと、当たり前の幸せがあったのかもしれない。特別な人間になる必要なんてなかったのかもしれない」どうしたんだ。お前はそんなことを言うやつではなかっただろう。僕はそのとき電話で話しながら、住んでいた学生マンションの裏の丘の上の公園から、眼下に広がる無数の集合住宅を眺めていた。その公園からも気味が悪いほどたくさんの集合住宅を見ることができた。大きく背の高いマンションが夕陽を遮り、灰色の小さな建物がいくつもならんだ団地は高層住宅の間から漏れた西日を受けながら横たわっていた。他に見えるものは、都心と郊外を結ぶ通勤電車。低い音を立てながら忙しく走り抜けていく。ぼくには、この風景に詰め込まれているそれぞれの無数の生活が山田の言う「当たり前の幸せ」と同じものだとは思えなかった。

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 この近くにかつて「自殺の名所」と呼ばれた団地があった。当時日本屈指の規模の団地で、まるで高い大きな壁みたいな14階建ての高層棟がいくつも連なっている。1970年当時、まだ高層建築物が珍しかった時代にこの高層棟から飛び降り自殺をする人が相次いだ。70年代だけで130人以上がこの地で自死を遂げたという。

 死にたくなる景色だと思った。この景色に抱かれると限りなく生の実感が希薄になる。だが、僕は自身の生命を持て余しているにすぎない。山田はその生命を脅かされていた。なにひとつとして実感が伴わなかった。自分が生きていることも、山田が死にかけていることも、団地から飛び降りて大勢死んだことも。目の前に広がっている光景と、電話の相手の声と、自分の心臓の音。すべてが意識から遠のいていく。これが本当に自分の人生なのか?なぜみんな生きているんだ?

 高架橋を走り抜ける通勤電車と、ぼくの地元へ向かう新幹線がすれ違うのをみた。あれが向かう先には、彼の言う当たり前の幸せはあるのだろうか。

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 すべては過ぎ去ったことであるため、僕はこんなことを情感たっぷりに語って、これ見よがしに写真なんか投稿することができる。後日譚を語ろう。

 山田は今も生きている。余命宣告は誤診だったらしい。何万人に一人の割合の紛らわしい腫瘍だったらしく、摘出された彼の組織はホルマリン漬けにされて大学病院の研究室に置いてあるという。だが病が彼に残した影響は深刻であった。一度死を宣告された山田がどんな境地に至ったかは僕には知ることができない。腫瘍は彼の人生にどうしようもない空白をもたらした。その穴の底から彼は這い出てきて何とか生きようと試みている。

 僕は引っ越した。正確に言うと、あの家での生活に耐えられなくなって実家に逃げ込んだ後、かなり時間がたった後いまの家に移り住んだ。実家に逃亡したのは新型コロナウイルス感染症が流行し始める2020年3月より前の2019年12月末のことだ。病んでしまった直後に謎のウイルスが蔓延して、大学の授業を学校に行かなくても受けられるようになったこともあり、今年の6月までの一年と半年もの期間を実家で過ごしたことになる。これまでの大学生活では東京に住んでいた時間よりも実家に住んでいた時間の方が長いのである。1年半、静養するには十分な期間だったはずである。

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再び、診察室

「劇団やってるんだっけ?」

「はい」

「どうよ?」

「ぼちぼちですね…今は一回目が終わって、二回目をやろうとしたりしなかったりしています」

「へえ」

「たまに不安になります」

「ああそう」

「はい」

「でもさ、演劇やってるときの方が元気でいやすいんでしょ」

「まあ、それは間違いないです。」

「じゃあいいじゃん やりなよ」

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 今思えば必要以上に深刻に考えすぎていたのかもしれない。ただ、すべては必要なものだったのかもしれない。踏むべき段階だったのかもしれない。当時は視野が欠けていたのだとしても、見えているものを使って必死で考えてはいたのだ。こうする他はなかった。

 山田の腫瘍の原因は不明のままである。だが彼自身に非があるものとは考えにくい。「おれがどんな選択をしたとしても、十代の終わりには必ず腫瘍が発見されて空白が訪れる。」彼は言う「おれの人生のどの分岐の先にも、この腫瘍があったと考えることができる。だから過去に起きたことにある程度寛大になることも出来る。」

 生き辛さが突然降ってきて自分に当たったとは考えていない。僕は最初からそれを抱えていて、いつかどうしようもなく行き詰ることは決まっていた。そのときたまたま東京にいて、あの給水塔があっただけなのだと思う。奴は何も悪くない。

 僕は過去への執着をやめないし、あったかもしれない他の人生について思いを巡らせれば終わりがない。僕は僕自身の生きざまについて解釈し続ける。暮らしてける程度に苦しむとはそういう行いのことも指している。

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 「不幸には必ず原因があるし、何もない状態から人は幸せを得ることもできない。精神科はハッピーを処方する場所じゃないんだ。だから、自分自身のことを話せるようになるまで気長に待つんだよ。」

9月について

 9月は瞬時に過ぎていく。過ぎ去った後に9月の姿を知覚することは出来ない。僕はそう考えるようになっていた。夏の日差しの下で汗を流しながら何をしていたのか、木の葉が色付き上着を着るようになったとき何を考えていたか、それらは記憶に残っている。しかし、その間に位置する9月について、僕は多くを覚えてはいない。ただ僕は、9月のただ中にいるときの戸惑いについてだけ語ることができる。

 ゼミで扱う哲学書とギャグ漫画を交互に読み、レポートという体裁のお粗末な作文を背中を丸めて打ち込み続け、なるべく金がかからないように工夫して自炊し、就活に関する情報を自分が直視したくない部分を避けながらそれとなく申し訳程度に調べ、いい加減バイトにも応募した。飛び出したくなった。自転車ででたらめに走り出す。前にもこんなことがあったような気がした。あれも9月だった。

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