カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

思ひ出 (未完)

 

2023年3月

3月のある日、夕方だったと思う。演劇の公演が終わって毎日ごろごろしていた。部屋で寝転がっているとき、母親からLINEが送られてきた。「これが届きました」郵便物の封筒が写った画像が添付されていて、その郵便物の差出人は「日本大学経済学部」であった。赤い字で【重要】と印字され、太い赤い線で囲ってあった。
僕は即座に母親に電話をかけた。
「父ちゃんは帰ってきたか?」
「まだだよ」
「明日山形に帰るからその封筒はおれが開ける。だから父ちゃんに今夜その封筒を見せるのはよしてくれないか?」
母は了承してくれた。
26単位を豪快に落とした去年の春、僕は実家に帰るも、留年した事実について自分から言い出すことが出来ず10日間ほど特になにをするでもなく過ごしていて、両親もこの話題には触れようとはせず僕が自分から切り出すのをただ待っていた。長い冬が終わりつつあり少しずつ雪が溶けていくのどかな春の山形で、いやな緊迫感が常に漂っていた。とうとう僕が東京に帰らなければならない日がやってくる。朝の新幹線に乗る前の夜のことだ。夕食が終わっても父親がネットフリックスを見始めない。明らかに誰も見ていないテレビ番組がただ流れている。母親も座卓の前で正座している。弟は2階の部屋で音ゲーをしている。「おまえ明日帰る前に行っとくことあるんじゃねえか」という父親の一言から、僕の号泣会見が始まった。
あれから一年、母親は僕の「その封筒はおれが開ける」という発言から、少なくとも僕が自分から話を切り出す「覚悟」があることを読み取り、その申し出を了承したのだろう。
僕は今年、30単位を豪快に落とした。去年より落とした。実家に届いたその封筒には、それはそれは恐ろしい現実が記された文書が入っているに違いない。僕は実家に帰り、父親の立ち会いのもとその郵便物を開封した。

卒業延期について(通知)
成績表ではなかった。卒業延期なんぞ去年の春からわかっている。そんなわかりきったことわざわざ大袈裟にに書面で送ってくんじゃねえ。
僕と父親はあははははと笑って、大学のポータルサイトを開いて調べてみると成績発表は3月の末にならないと保護者のアカウントからは照会可能にならないらしい。当然、僕のアカウントには通知が一度とどいてはいるが。
それから、僕は両親がいる手前、地元のいくつかの企業を相手に就職活動の真似事のようなことをして両親を安心させて、そして成績発表の前にそそくさと東京に帰った。
3月の末、再び実家から電話がかかってきた。
「おい、これ去年の成績表じゃねえのか? ほとんどなんにも変わんねえぞ?」
それはそうだ。新たに8単位しかとってないんだから。
僕は畳の上で正座してスマホを耳に押し当てていた。叱責の言葉に対し、頭を下げて「もっともでございます… 反省しております…」と消えそうな声を発した。そんな安易なパフォーマンスなどなんの意味もない。父親は冷静な人間だ。起こってしまったことをうるさく言っても仕方がないと言って、この1年でどうにかなるんだよなと確認された。1年間の履修上限は40単位。僕の不足単位は38単位。どうにかなるギリギリである旨を伝えた。
「就活頑張ってるのは見ててわかったから、とにかく授業をなんとかしろ。卒業できないことにはどうにもならん。あと、今年はくれぐれも演劇だけには関わらないでくれ。お前が元気なときとそうじゃないときがあるのはわかってるし、それは病院にかかっている以上仕方のないことだ。だけど、極端に元気がなくなるのは、演劇が関係しているんだろう?」肩に力が入り、ぎゅっと目をつむり、うつむいて声を出した。
「おっしゃるとおりでございます。」
電話を切ると、僕は畳の上に寝転がった。

ギロチンの刃はいつも上の方で待っていて、あれが降ってくるのも時間の問題なのだろうな、と常に僕は考えていた。高校のときも、大学に入ってからも。

いままで漠然としか認識していなかったギロチンの、その刃の先端がいま、光って見えた気がする。しかし、あのギロチンの刃が降ってくれば終わりということではなく、それを節目として、今度は別の生を生きていかなければならない。もしこれが刑罰なのだとしたら、僕が犯した罪とはなんなのだろう。存在することが罪なのならば、みんなどうやって許されて生きているのだろう。僕は誰に許しを乞うているのだろう。
こういうことは昔から飽きるほど考えてきて、考えても仕方がないことはわかりきっていたので、僕はとりあえずギロチンの刃の下で寝っ転がってTwitterとかInstagramを見る。3月末。僕と同じく平成12年度に生まれた者は大学を卒業する。同級生たちは卒業旅行の様子を連日投稿したり、袴やスーツ姿で学位記を持って大学の建物の前で撮った記念写真などを投稿したりする。4年間を遂げたのだ。自ら選び、課された4年間を全うし、その証明として旅行に行ったり記念に写真を撮ったりするのだ。当然、4年間を遂げず、課されたものを全うせず、4年を5年に伸ばした僕に記念すべきものなどなにもない。それでも、大学から今年の卒業式の案内のメールが来る。
卒業をした彼ら彼女らの4年間と、卒業延期通知書が来た僕の4年間は別物であろうが、4年間は4年間である。僕だってその時々では必死に生きていたはずである。
行こう。ギロチンの刃が待っている。でもその前に、振り返ってみよう。足跡をたどろう。

 

 

高校編

数ⅢとCNNと『女生徒』

大学に入れた。というよりは、入れてしまった。といった方が正しいかもしれない。私の母校である誇り高き県立地方進学校では、1年生から「どこの大学にも入れんぞ」という脅し文句をよく先生方から賜る。事実として選ばなければ入れる大学はあるだろうが、先生方が言いたいのは「選びたければ」どこの大学にも入れんぞ、ということだろう。実際、入学できればどこでもいいと思っている生徒は全くいなかったし、僕だってどこでもいいわけじゃなかった。あの場にいた少年少女たちは選択の幅を可能な限り広げるために3年間特殊な訓練を積んでいた。高校での三年間はひたすら選択の幅を広げるためにあり、限りない選択肢のなかから自分のものを選び取るのは、その後の段階の大学に入ってからのことであるとされていた。

一直線の道がのびているように見えて、なんとなく非常に遠回りかつ無駄の多いようにも見える。しかしそこに疑問を呈したところでほかに辿る道は存在しない。気が進まないがまあそんなことは全員同じだし先生方だってたどってきた道であろう。

特段勉強が好きなわけではなかったので、二百数十人の秀才の中で僕はある種の無力感のようなものを薄っすらと感じながら高校生活を歩み始めていた。

私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘うそのないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。

 

太宰治「女生徒」より

「女生徒」という本を読んでいた。1年の春、右前の席の奴が1年なのに数Ⅲの参考書を解いていて、右の席の奴は朝休みにスマホで英語のニュースを見ていて、また同じクラスにいた生徒は連日公欠でテニスの試合に出ていたのに久々の英語の授業で当てられたとき完璧に答えていたのを見て、なんかこいつら気持ち悪いな、といったら申し訳ないのだが、これが当たり前ならば自分の立場とはただの頭の悪い奴ということになるのがたいへん恐ろしく思えてきて、だとしたら教養のひとつやふたつ身に着けてみようと図書室で適当な本を借りてきて電車の中や朝休みに読むようになったのである。しかし、そこで僕が身につけたのは「教養」というよりは、「思想」(のようなもの)であった。

いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘びしさは、可笑しなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。誰も教えて呉れないのだ。ほって置くよりしようのない、ハシカみたいな病気なのかしら。でも、ハシカで死ぬる人もあるし、ハシカで目のつぶれる人だってあるのだ。放って置くのは、いけないことだ。私たち、こんなに毎日、鬱々したり、かっとなったり、そのうちには、踏みはずし、うんと堕落して取りかえしのつかないからだになってしまって一生をめちゃめちゃに送る人だってあるのだ。また、ひと思いに自殺してしまう人だってあるのだ。そうなってしまってから、世の中のひとたちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかって来ることなのにと、どんなに口惜しがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。

確信した。「これはおれの話だ」と。間違いない。なにか巨大な悪がこの世には潜んでいてみんなをだまして、気が付けばみんな無意識にこの巨大な悪に加担している。みんな苦しんでいるのに見て見ぬふりをして、痛みに気付いているのに自分をだまして真実から遠ざかっていく。みんな巨大な悪の巨大な力にねじ伏せられているんだ。一切は巨大な欺瞞だ!

(いまになって僕はこんなふうに言葉を弄ぶことが出来るようになったが、当時はこのような言葉を持ち合わせてはおらず、よってそのとき太宰の女生徒の一文は自分の感じていることを正確に出力できる唯一の言葉であったのだ。)

この一文を始めて読んだのは昼休みの図書室だったと思う。僕は昼休みに弁当を食べ終わると、教室の中に話す相手もいないし、僕みたいな奴はほかにもクラスにはいたけども次の授業の予習などをしているので、僕は真似して予習なんぞするわけもなく、自然とその場に居ることが嫌になるので図書室に行くことになった。その矢先のこの天啓のような一文である。中庭に向いた背後の窓からはやわらかな光が降り注ぎ、その光を見上げるとどこまでも青く高い空が視界に入った。僕は空がこんなふうだったことを知らなかった。再び視線を目の前に戻す。中庭越しに教室の窓が見える。中では生徒たちがみんな上から何かに押されているかのように下を向いていた。始業の時間が迫っていたのだろう。奴らの視界は机の上。一方で、僕はこの美しい空の青を望み、降り注ぐやわらかい光につつまれながら謎の闘志を燃やしていた。彼らはこの空の青を知りはしない。この暖かい光を自らの背中で遮ってしまっている。この美しい世界を、巨大な力に欺かれる前に見ていたはずの美しい世界を、いま確かに見ているのはこの建物のなかで僕のほかにはいないと、大きな喜びを勝ち得たかのように感じていた次の瞬間であった。図書室のスピーカーから予鈴の音が鳴った。僕は教室に帰らねばならなかった。これだ。このチャイムだ。僕はこれを打倒しなければならない。憎むべきこの巨大な抑圧と迫害をいつか白日の下にさらし、この邪知暴虐たる巨大な悪を暴かねばならぬ。そうして僕は次の授業中も本を読み進めた。

当然、自分がいかれてしまったことに気が付くのには時間がかからなかったが、それ以上に学業が取り返しのつかないことになっていた。夏休みが明けて前期の期末試験があったあたりか。勉強しなくなって2~3か月と、今思えばなにをそんなに絶望しなければならないのか。取返しがつかないなどあまりに大袈裟ではないかと思う。しかし、当時の私の前には、自分が怠けていた証拠が、積みあがった未提出の課題という形で可視化されていた。流石は誇り高きわが県立進学校である。日々課される学習をためていくと、これだけ迫力のある景色を見ることが出来るのだ。学校で身につけた価値尺度しか備えていない齢15の僕は、この暴力的なまでに強力な有罪の証拠を前にそれはそれは深く絶望した。何度、今日から生まれ変わって真面目に勉強しようと試みたかわからない。しかし、生まれ変わるたびに現実に直面しなければならず、そのたびに絶望し、正気でいるには堕ち続けるほかはなかったのである。

かわいそうに。いまやニッコニコしながら可能な限りふざけて当時について述懐しているが、そのときの僕自身はいたって本気(マジ)なのである。若い、というよりは、幼かったのであろう。

2年2組17番

高1から高2にあがる春休みがはじまる前の修業式、僕は職員室に呼び出された。絞首台にのぼるような気持で職員室に向かったが、説教はされず、ただ、春休みに定期的に宿題が進んでいるかどうか見せに来い。と言われた。僕は春休み、そのためだけに学ランに袖を通し電車に乗って学校へ何度か向かった。わからないところは先生が教えてくれた。授業中は僕をいないものとして扱っていた先生が、僕一人を相手にしていると思うと、なんだかやる気になったのである。僕が図書室で「天啓」を受けたとき、憎く思った相手は、この人ではなかった。では、誰だったのだろう。何だったのだろう。

僕は春休み明けの試験で文系120人中60~70位くらいの点を取った。去年240人中240位だったのが文理半分になってよくわからなかったが、とりあえず最下層でないことに安心し、生きていけそうな気がした。この時だけである。この時を最後にその後1年と半年は真面目に勉強することはなく、このだいたい70位くらいの順位が僕が高校生活でたたき出した最高得点となった。

形だけ幸先の良いスタートを切ったからか、学年が上がって高校二年生になると僕は落ち着きを取り戻す。流石に2周目にもなると相変わらず漠然とした恐怖はあるもののいちいちそこまで絶望することもなくなっていた。僕は文系のクラスに進んだが、去年同じ教室で数Ⅲを解いていた奴と朝休みにCNNを観ていた奴は理系クラスに行った。数ⅢとCNNは僕が授業中眠っているのを発見するたびに、つぎの休み時間に「きみ、さっき寝てたよね」と確認してくるのである。屈辱であった。優秀な人間から直接レッテルを貼られることほど耐え難いことはないのであるが、今思えば教室で一言も発さない僕に対してなにか会話の糸口を見出そうとしたときにそれしかなかっただけの話なのであろう。イジりですらなかったのだ。あまりに、多感すぎた。

演劇部で脚本を書いた奴

高2の時に演劇部で脚本を書いた。なんで書こうとしたかは思い出せるようで思い出せない。かなり苦しんで書いたし、なんなら一人で書き終えられず一部他の人に書いてもらって文化祭の初演を迎えたが、あまりにエピソードが多すぎるので割愛する。これがどういう作品なのかは、冒頭を引用するだけでだいたい理解してもらえるだろう。

 

音楽:ショスタコーヴィチ交響曲第五番ニ短調『革命』第四楽章 アレグロ・ノン・トロッポ」爆音で轟く。緞帳があがるちょっと前から既に音楽と共に破滅のような笑い声が聞こえる。舞台の上には高校の普通教室が、コの字型に配置されたパネルによって表現され、舞台上の空間を圧迫するかのような様相を呈している。正面のパネルには黒板があり、上手には引き戸がある。七脚の椅子が配置され、それぞれ男女の生徒が黙々と机に向かっている。中央に机が一脚。その上に一人の男子生徒が乗っている。開幕前から高笑いを響かせている気違いはこいつだ。

少年              ハッハッハッハッハッ! 見ろ! 人がゴミのようだ! ハッハッハッハッハッ! 最高のショーだと思わんかね? ハッハッハッハッハッ!

黙々と机に向かう他の生徒たちを侮辱するように声高々に言い放ち、机から降りて教室の中を動き回る。

少年              時はまさに期末テスト。今しがた問題用紙と回答用紙が配られたが、俺にはこの紙切れを受け取る以前に気力なんてものはありはしなかった お察しのとおり俺は試験勉強など一切していない。何故か?面倒だからに決まっているだろう!こいつらを見ろ!ここにいる全員がまるで上から何かに押されているかのように下を向いている。とんでもない絵面だ。地獄絵図だ。そんなに点数が欲しいか。その数字に一体何の意味がある?その数字の向こうにある将来に一体何の価値があるというのか?その先に待っている将来を、年を追うごとに退屈になっていくばかりの平均化された諦めの人生を。人質にとられている将来には今この時を犠牲にしてまで手に入れるほどの価値など無いというのに。

少年は1人の生徒の傍らに行き、ちょっかいをだす。

少年              おいおい、ずいぶん苦労して解いているようだね。まったく、馬鹿馬鹿しい。

するとその生徒が突如立ち上がる!そして叫ぶ!

生徒              うおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!

怒り狂ったその生徒は少年のむなぐらを引っ掴み叫びと共にめいっぱい少年をぶん殴る!殴る!殴る!それと同時に教室の生徒たちが次々と立ち上がり暴れ始める。悲鳴と怒号が飛び交う。みんなテスト用紙を引き裂き、ぐしゃぐしゃに丸めぶん投げる。椅子や机を振り回し暴走し始める。殴り合い。罵り合い。そして、少年が黒板をぶっ叩いたその瞬間、黒板がパネルの向こう側に抜け落ち、四角い穴から強烈な光が漏れる!音響も瞬間的に厳かなバロック音楽に変わる。すると正面のパネルが真っ二つに分かれ、その中から何人もの天使が躍り出る。先ほどまでの暴力と罵声の狂乱と対極をなすようにゆっくりと舞うように、この世のすべての美を象徴するかのごとく微笑みと清らかな笑い声と共に舞台上を一気に光で満たす。憤っていた生徒たちは天使を目の前に表情を変え、天使たちと一緒に笑顔で教室を元通りにし始める。少年でさえも無意識のうちに従順になり自ら着席してしまった。すべてが元に戻ると、天使たちは、登場と同じように煙のように舞台上から消える。音楽もフェードアウトする。再び生徒たちは黙々とテストを解き始める。))))))))

 

実話に基づいた涙なしには語れぬ物語である。僕は実際に英語の授業中に教師の一挙手一投足を原稿用紙に書き留め、彼の発した言葉は一字一句違わず脚本の台詞になってしまった。担任と二者面談したとき、あまりにも当たり前のことばかりを咎められて、終始僕の側は「はい」以外に言葉を発することが出来なくなった体験も、試験で出来が悪かったものだけが集められる追試の会場で初めて言葉を交わした相手と仲良くなったことも、ラーメン屋に置いてあったラジオから聞こえてきた番組も、演劇の大会で公欠が続いて久々に教室の自分の席に向かったら大量のプリントが机の中に押し込まれていて絶句し座らずにその場にしばらく立ち尽くすしかなかったことも全部そのまま書いた。勿論あの数ⅢやCNNのような者たちでさえ登場している。

ひどい目に遭っていたと思っていた自分の高校生活だったが、ネタにしてみると意外と面白かった。

この作品を文化祭で全校生徒の前で上演した。文化祭に限らず、式典だとか講演だとかで講堂の席に座らされるとみんな寝てしまうのだが、みんなずっと笑って見てくれていた。図書室で天啓を受けた日、窓から中庭越しに見えた教室の中の「奴ら」が、逆に僕の生き様を観ていた。後日、何人かの先生も面白かったと言ってくれた。僕だけが、舞台袖から自分自身の物語を眺めながらこの期に及んで「ああ、なんか情けねーな」と思っていた。打倒すべき相手はおらず、自分自身はこの後どうすればいいかわかっていなかった。

文豪ごっこをしているうちは平気であった。

この作品は演劇の大会に出品するものも兼ねており、作品は勝ち進み全国大会まで出場を果たした。高校演劇に詳しくない者にとっては意味不明かもしれないが、最初の地区大会が2年の9月にあったとして、全国大会は翌年、3年の8月に開催される。高2の夏から高3の夏にかけての丸一年以上を僕はこの作品の改訂に費やした。とはいえ、演劇部の部室に始まり、職員室の顧問の先生の机と、パソコン室と、印刷室を順番に回り、それ以外の時間は図書室でただぼんやりしていただけなのであるが、取り組むものが増えて自分の実生活が充実していると勘違いした僕は存在の不安をやり過ごし、1年の時は怯えながらだったものを、こんどはほとんど平気で学業を放棄していた。脚本上には「情けない現実」が事細かに描写されているにもかかわらず、それがそのままショーとして成立してから、僕はこの誇り高き我が県立進学校をテーマパークのように楽しんでいた側面すら今思えばあった気がする。現実が虚構に飲み込まれ、自身の実在は希薄になり、それに応じて抱える問題もどこか他人事になる。ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」の主人公ハンスに自身を投影しながら読んでいた時を再現すべく、自身が最も共感できるような登場人物と舞台と背景を生み出したところ、なんだか自身が抱えていたものが陳腐に見えてきてしまった。しかし、依然として自身の問題は解消されない。虚構の中で誇張すれば誇張するほど、現実の実感が矮小化されていくような、よくわからない状況にいた。そして、僕が書いた脚本は決定的な結末は迎えず、これといった答えは導き出さずに終わる。これが原因であらゆることが自分の中で循環し続けて抜け出すことが出来なくなっていった。この舞台は自己救済の手立てとなった一方で、自身を陥れる罠でもあった。

たった一言知らせて呉れ! “Nevermore”

さて、クラスの中では僕は数ⅢやCNNに比べてしまうとただの頭の悪い奴なんだと1年の頃は焦っていたが、高2の今や気が付くと僕は頭が悪いうえになんか演劇部で得体のしれないことをやっているやばい奴になってしまっていた。言い逃れは出来ない。だって頭は悪いし、演劇部だし、得体のしれないことをやっていたからだ。斯くして僕は開き直ることが出来た。変な奴だと思われるのが嬉しかったのかもしれない。張りつめた日々を抜けるとあらゆることが雑になっていき、自意識がゆるくなっていく。ある意味で、脚本を書いてから部活を引退するまでは悠々自適に過ごしていたと言えよう。
この高2の冬の頃は居心地が良かった。全国大会出場が決まると、演劇部が地元の新聞に載り、全校集会で表彰され、校舎の正門に作品名と僕の名前が書かれた垂れ幕が掲げられた。当然、その栄誉は演劇部の組織的な努力の賜物なのだが、やはり僕は浮かれていた。決定的なものを手に入れた気でいた。何が欲しいかわからず2年間駄々をこね続けてきたが、どうやら満足したようだ。前述の通り全国大会が開催されるのは翌年の8月である。これまで半年かけて作ってきたが、次の舞台は8か月先ということだ。なんだか嘘のようだったが、一区切りがついて僕は安息を手にしたような気でいた。相変わらず空は低く重々しく鉛のような色をしていて、たまに信じられないほど雪が降ったりして風景は色彩に乏しいものだったが、たどり着いた地点で見える景色がこれならば、それはそれでよい。苦痛は作り話の中に押し込められ、目を逸らしていたものは本当に見えなくなる。ただ、存在していることが楽になった。浮かれていられるなら永遠に浮かれていたかった。低く迫った鉛色の空が現在の僕をこの季節に永遠に閉じ込めて保存してくれれば良い。学校を劇場の中の箱庭にして、日々の苦痛を「おはなし」にして、僕自身はその一部になり、もう絵画のように動くことはない。動く必要がないからだ。これは一瞬の幻で、きっとこれ以上の幸いはこの先一切手に入らず、そして、現在の安息はすぐに失われるであろう。そんな予感めいたものが僕の中には常にあった。今見ている幻覚はそのうちなくなるのだから、今はただキマっているふりをして何も考えないようにしていた。この時だと思う、上で待っているギロチンの刃が見えたのは。

盆地の無慈悲な春

それでも、季節が変わって盆地に春の日の光が降り注ぐと徐々に雪が解けていき、少しずつ目に見える情景が色彩を取り戻す。暖かくなるにつれて、僕のこの誤魔化しはきかなくなっていった。鉛色の盆地の冬が終わると、雪と氷の下にあった土があらわになり香ってきて、迫るように街を取り囲む黒々とした山々がやがてうるさいほど緑色に変わっていく。思い出す。去年の今頃、何をしていて何に怯えていたのか。太陽の軌道が頭上、限りなく真上を運行する季節になり、盆地に降り注ぐ太陽光と熱が最大に近くなったころ、焦げそうになって頭がいかれた高2の僕は何をつくりだしたか、思い出す。なんでこの間まで自分は浮かれていたのか、すべての原因と結果が、辿ったその道筋が、季節が巡ってその気配を感じ取ると脳裏に浮かび上がる。幻覚は途切れ、そしてまた発狂する。

 

図書室

 昼休みや放課後はよく図書室にいた。高校3年生、夏休みまであと少しといった頃だ。体育祭を終え、運動部の最後の大会を終えて部活を引退した人たちは、夏休みに文化祭の準備が始まるまでの間、受験勉強に力を入れ始め、クラス一丸となって受験に備えつつ、夏休みになったら文化祭に向けて高校最後の思い出づくりを楽しんでいこうというような、そんな潮流というか機運を、教室の空間に僕は感じ取っていた。僕は思い出を作れる気がしなかったし、受験勉強なんてしていなかったし、何よりこの年が高校最後であることを受け入れることができなかったので、当然教室には居づらかった。教室が居やすかったことなんてなかったが、毎朝起きて電車にのってここに来なければ、家に居てももっと惨めになるだけであろうという、ただそれだけの理由で高校には不思議と毎日通っていた。

 そもそも僕は演劇部をまだ引退していない。去年の12月、僕の書いた脚本で演劇部の全国大会への出場が決まったニュースが学校に知れ渡ったあの朝は、さすがに教室へと意気揚々と足を踏み入れたような気がするが、あの冬から季節が巡り、2年から3年に上がったこの夏、いまだ演劇部員の僕はなんだかみんなに取り残されているような気がしていた。勉強をまるでしなかったので取り残されるような気持ちは高校入学以来常にあったけども、それに加えて大きな流れから自ら離れていくこの感じにはどうにもやりきれないものがあった。大きな流れを離れ、僕は図書室へ向かった。

 図書室には演劇の部長もいた。去年から同じクラスだった。彼女は勉強ができるが、やはり自分がまだ部活を引退していない身であることに居心地の悪さを感じていたのだろうか。しかし、2年のときから教室にいる彼女を見ていて、それまで居心地の良さそうな様子であったかというと、そうではないように僕の目には映った。僕には友達がいなくて、教室という空間に僕と僕以外の人々は同居はしているが、それだけのことであり交わることがないと割り切り、好き勝手な時間に弁当を食べたり本を読んだり寝たり折り紙をしていたりしていたけど、彼女は。友達がいないわけではない。楽しそうに話す声だってよく聞こえてくる。だけど、昼休みに友達とお弁当を食べ終わると、そのまま友達とおしゃべりでもしながら次の授業の予習でもするのかと思いきや、図書室に行って一人で本を読んでいたりしていた。僕は午前中の授業の合間にやることがなく、満腹の状態で眠りたかったので昼休み前に弁当を食べ終わっていて、だから昼休みはずっと図書室にいたのだが、そこに彼女がやってきて、不思議だな、と思ったりしていた。

 僕は本は好きだがたくさん読む方ではなく、図書室に行ってもいつも本を読みすすめていたわけではなく、ただ腰掛けてぼーっとしていたり、イヤホンで音楽を聴いていたり、書架の間をうろうろしてなんとなく背表紙たちを眺めながらふらふら歩いていたりしていたが、彼女はいつも同じ窓辺のベンチに腰掛けて、というか、靴を脱いであぐらをかいて、まっすぐ手元の本に視線を落としていた。昼休み、日は高く登り、彼女の背後の窓からは陽光が差し込む。本の上の活字を追う彼女の眼差しもそんなようなものだった。姿勢はとにかく気だるげで、靴どころか靴下も脱いだりして、時には寝っ転がっている時もあった。だけれども、活字を追う視線だけは真剣で、その表情は常に変わらず、きっとお話の中に没入しているのだろうな。と僕は思いながら、そんな彼女の様子を眺めるのが好きだった。昼休みの図書室にはあまり人がいない。彼女もまた図書室にはいつも僕がいることを知っていたが、僕があのベンチで読書する彼女の姿をなんとなく良いなと思いながらときたま眼差していたことまでしっていたかはわからない。たぶん知るよしもなかったであろう。次の授業のまであと5分を知らせる鐘が鳴る。鐘がなってももう少しだけならここにいられることを僕と彼女は知っている。そして、教室に戻りに立ち上がらなければならない頃合いもだいたい掴んでいた。それでも彼女がなかなか立ち上がらない時がある。きっと、読んでる本が面白いのか、キリの悪いところなのだろうな。と思いながら僕が彼女の前を横切って教室に戻ろうとすると、彼女は顔を上げ、二人一緒に教室へ戻った。しゃべりながらの日もあれば、そうでない日もあった。そういえば彼女がなんの本を読んでいるのか聞いてみたことはなかった。僕と彼女はあまり同じような本を読まない。彼女が本の話をするときは、表紙がきれいな本を適当に手にとって見たりすると言っていたことがある。彼女はいつもハードカバーの本を図書室で借りて読み、僕は学校からの帰り道の本屋で買ったいつも持ち歩いている文庫本を図書室で読んでいた。図書室の居心地の良さだけを僕と彼女は共有していた。図書室の中では会話は交わさない。ふたりで図書室を出て、扉を閉じてはじめて彼女の方から言葉を発し、階段を登って3階の教室につくまでの短い間話しをしていた気がする。たまに彼女が図書室にいなかったときはなんとなく寂しく、いつしか今日はいるかなと、いつものベンチを一瞥する習慣が僕にはついていた。そんな夏であった。

平成最後の夏

2018年の夏は平成最後の夏とよく言われていた。平成が終わっても夏は来るだろうに、あらゆる事物に「平成最後」という修飾がなされ変な特別感を演出されていた。世の中が毎年やってくるただの夏に余計な感傷を付加してエンタメみたいに消費していた。当時の僕が何に戸惑い何に傷ついたとしても、それはこの悪ふざけみたいな感傷イベントの大きな流れの一部に過ぎないと思うと腹立たしくすらあった。立派ではなかったかもしれないが、僕だって必死にあの夏を生きていたのである。その記憶にすらも中身のない便乗商売みたいな印象がこびりついて離れない。これは僕の高三の夏の話であり、平成最後の夏の話ではない。はずなのに、夏服の白い半袖シャツと一緒にまとっていた僕の憂愁と、Twitterで見た『エモ』の区別があいまいになってしまう。茹で上がるような熱気と湿度の中、強すぎる光に照らされてすべてが白飛びしぼやけた視界。それを背景に、不明瞭な嘘みたいな記憶が今にも消えそうに漂っていた。あれを夢だったとは言いたくはない。だが、あまりにも夢でしかなかった気もする。2018年の夏を区切りにしてあらゆることが強制的に終了した。僕がしがみついていたのは決して平成なんかじゃない。

そういう時代だった。そういう時代だったから仕方がない。とは、絶対に認めるわけにはいかなかった。おれの時代が平成と一緒に終わる。そんなことは許されない。区切りがついたらなんでも切り捨てられると思うなよ。なんにも変わりはしねえんだ。たとえ平成の夏が二度と来なくても、演劇部員から受験生に身分が変わっても、つきまとうものをそう簡単に断ち切ることはできやしないんだ。勝手に話を進められたのでは困る。ふざけるな。勝手に終わるな。

さて、僕の代の演劇部は平成最後の全国大会に出場したわけだが、そこでの評価はあまり好ましいものではなかった。文化祭、地区大会、県大会、東北大会とそれぞれの講評で幾多のお褒めの言葉を賜り、誇りを胸に万感の思いで突き進み全国大会まで駒を進め、わざわざ10時間かけて長野県まで来たというのに、去年の7月からずっと1年間それでも慢心せず書き直し続けたというのに、審査員からいただいた感想は以下のようなものであった。

 

「いやあ、人生もっと楽しいと思うんですけどね、なんでこう登場人物はみんな絶望してるんですかねえ。でもまあ、この高校の皆さんは、絶望してるから仕方ないんでしょうかねえ。」

 

平成の精神に殉死

さて、普通に秋が来た。平成最後の夏が終わったので平成最後の秋がやってきたというのに世の中はあまりありがたがらなかった。僕は平成最後のクリスマスを、平成最後の正月を、平成最後のセンター試験を、平成最後の卒業式をこれから見据えていたというのに。来年春からはじまるらしい得体のしれない新時代と得体のしれない進学した場合の大学生活或いは落第した場合の日々を拒み、もはや平成の精神に殉死するつもりで目を血走らせていたというのに、平成最後の夏を最後にして喪失を演出する奴は現れなかった。僕はすべてに喪失を感じていたというのに。みんな平成が終わっても普通になにも変わらないことに気が付いたからであろうが、僕の場合平成が終わったら全部終わるのである。2019年春より先の時代は存在してはならない。それゆえに平成の精神と殉死を遂げなければならなかった。

ひとりでもおれと一緒に平成の精神に殉死しようという奴はいないのか。

そんな奴はいない。あの夏を境にみんな顔色を変えてしまった。英語の授業中に先生に当てられて答えに窮して困っていたのは僕だけではなかったはずなのに、みんなそのうちこたえられるようになっていて、他人の不出来を安心の材料にしていた下劣な僕という人間はとうとう取り残されてしまっていた。