カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

書いてみた

ブログの更新も久々である。本当は長い春休みの間に書きたいことが色々あって、構成だとか話の筋とかを考えていたのだが、頭の中で思い浮かべるにとどまり、パソコンの前に座ってキーを叩くまでに至らなかった。パソコンの前に腰を据えてみると急に考えていたことが消えてしまい、覚え書きを書こうにも言葉が思うように出てこない。なにかを考えることに以前よりも疲れを感じるようになったことは否めない。自分の書いた文章は今まで自分でも割と気に入っていたが、書く気力が起きなくなってくるとそんな自身の状態にも嫌気がさしてきてしまう。そんな感じだがら自然と書くことに気が向かなくなっていたのだろうと思う。

春休みの間はいろんな人と会った。昨年の秋に精神的に参ってしまってからしばらく実家にいたが、それで具合がよくなったかというとそういった実感はこれといってない。両親は必要以上に僕を気遣ってくれていたが、11月から数えて3か月ほど子供部屋を中心に生活し、両親のほかに話す相手がいない状況にさすがに居心地の悪さを感じていた。
居間で家族と食卓を囲んで夕飯を食べ、しばらくテレビを観たりして、父親母親の順番で入浴する時間になると僕は2階のベランダに出て煙草を吸う。ユニクロのダウンを羽織り、冬の夜空を見上げると、きまって視線の先にはオリオン座の真ん中の三連星があり、オリオン座とにらめっこをしながら煙を吐くことが自然と僕の習慣となっていた。毎日同じ時間に同じ位置にいる。僕も星座も。オリオン座は冬の星座なので、本当にこの暮らしをずっと続けていたら違う星座が見えてくるのだろうが、僕にはこの冬が永遠に終わらないものに思えてどこか恐ろしかった。ベランダに置いてある灰皿の吸い殻がただ増えていくだけ。おそらくこのまま寝そべって暮らしていても何も良くはならない。春休みになったら会いたい人に会おう。と、長い冬の間は考えていた。

春休み、といっても山形の2月3月はまだまだ灰色の冬の季節であり、春の気配など4月が目前に迫るぎりぎりまでやってはこない。この地の冬は長い。だからこそやがて来る春が恐ろしい。灰色の冬がいくら永遠のように思えても季節はめぐる。冬が永遠だと錯覚するせいで毎年毎年4月になるといらない戸惑いを覚える。退屈に不満を覚えるなら変化を求めるべきだ。一人でうずくまっているだけでは何も良くはならない。

充分な時間と余裕を与えられた僕は、そのただなかで元気にならなければならない。幸せにならなければならない。という焦りに駆られていた。

正直、自殺に失敗して「生きててよかった」と言われても、「なにも良くねえんだが」としか思わなかった。そういうのはもうやめたい。やめるべきだ。やめるべきだと考えるようにした。やめるべきだと考えざるを得ない状況だった。心からやめたいと思っているわけではない。つまり、そういうことだ。命が病のように僕の精神を侵している。生きなければならないという事実が僕を脅迫する。だが、いいかげん大人になった方がいい。いつまでも駄々をこねていられると思うなよ。

僕の中には僕しかいない。自分自身が、親や友達から大切に思われているという前提が欠落している。僕は僕が生きて在ることにすでに嫌気がさしているが、僕が生きて在ることをみんなは喜んでくれる。生きて在ってほしいと言ってくれる。

僕は自分自身のために望んで生きて在ることができないが、僕が生きて在ることを他の人が望んでいる以上、僕は自身が生きて在ることをやめることができない。しかし、ただ生きて在る。それだけ。というのは、難しい。

じっさい、僕は春休みの間にたくさん人に会った。みんなが、「君には生きていてほしいし、書き続けてほしい。」と言ってくれた。

僕は生きて在り続け、書き続けることを求められていた。幸せなんだと思う。

しかし、生きて在ることと書き続けることは、言うまでもなく途方もない困難であった。この期待に、身に余る期待に、応えることが出来る自信がない。

生きてほしい、書いてほしい。といってもらえることを心の底から嬉しいと思う。しかしそれと同時に、生きていることに苦痛を感じ、書くことが出来ていない自身の状態も心の底から恐ろしく感じた。

僕は作家でもなんでもないけど、僕に何かあるとしたらそれは書くことだけで、「生きていてほしいし書いてほしい」と言われると、ここにきて書くことは即ち生きることになってしまった。つまらないものを書いてしまうと、遂に生きていることもできなくなる。

だから、書かないでいることで生き続けることをとりあえず保留にしてきた。

気が付くと4月が半分終わっていた。4月にあったことを一通り書いてみようと思った。しかし、書くことがあるのに、書きたいことがあるのに、実際に出力されたのは書けない理由だけであった。

こんなのなんにも書いていないのと同じだ。こんなの生きていないのと同じだ。
ではここに並んでいる文字はなんなのだろう。毎日毎日来る日も来る日も眠って目覚めて腹を空かせて飯を食って頭を抱えてみじめな気持ちになって。これは一体何なのだろう。

気が付いた。僕の現在の歪んだ認知では、書いている奴なんて一人もいないし生きてる奴なんて一人もいない。

もう少し寝そべっていようかと思った。

こういう記事をこの「カリフォルニア・日記」に公開するのはどうも気が進まない。なんにも書いていないのと一緒な気がする。公開するボタンをクリックできずにしばらく頭を抱えていたが、他に何か書ける気もしないので、とりあえず置いておく。もっとまともなものが書けるようになるまで置いておくしかない。しかし少なくとも、こんなもんが遺書なのは絶対に嫌だと今思ったので、気は進まないがやはり生きて書くしかないんだろうなと思った。いつか絶対に、完璧な遺書を書いてやる。もう僕にはそれしか残っていない。

書くこと即ち生きること。というのは全く納得できないのだが、書けないということ即ち死ねないこと。となると、ひどく腑に落ちる感じがした。