カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

五月病の早期発見

躁状態で書いてます※

5月病という疾病の原因として、大部分を占めるのは連休の存在であることは想像に難くないであろう。
私はいま、先週の金曜から数え一週間ぶりに大学へと登校し、2限を終え、次なる4限までの空き時間をもってしてこの書をしたためている次第である。私は明日と明後日の東京での用事を終えたのち山形県上山市へと帰省する決意を固めた。あれほどまでに大きな難関を乗り越えて東京の地へ戻ってきた私であるが、この帰省を思い立ったきっかけは決してポジティブなものではないことをここに明らかにしておく必要がある。ある種の岐路にたっているわけであるからして。
私の目前には9連休が控えている。とはいえ、ほとんど大学に行っていない私にとって世間が連休だろうがなんだろうが、なにも変わりはしない。家から動かなければ、すでに不本意ながらに開始されていた独自の連休が伸び続けるだけである。そんなものは何もありがたくない。私は世間が連休へと足を踏み入れるこの金曜日を共にしたい一心で本日はここまでやってきたことになる。今日ここに来られるかどうかも怪しかったものだが、奇跡的にやってくることができた。サボるだけサボっておきながら、世の中と共に連休を享受する後ろめたさに対するせめてもの抵抗であるといったところであろうか。
さて、やってきたところでどうだろう。今学期、まともに午前中から授業に馳せ参じたのは初めてのことであった。そもそも、奇妙なる大学の計らいにより新学期のスタートラインというのは実に曖昧であった。先週までは、来る必要のある授業とそうでない授業が混在し、それが私を混乱させた。そして、今週から、すべての授業が大学の教室にて行われる運びとなった。これが今週月曜の私をさらに混乱させた。

4月中は新学期に慣れるために使おうと私は目論んでいた。しかし、最初の2週間の出席の必要は実に変則的で、規則正しさを欲していた私は面食らった。面食らった私は張り合いのないまま4月上旬中旬の3週間を戸惑いながら、絶望したり無になったり横になったり走り回ったりしていた。そして、ついに登録したすべての授業が時間割通りに執り行われる、その時が今週月曜日にとうとうやってきたのである。このとき、すでに4月は4週目である。嗚呼、嘆かわしい。私は規則を欲していた。大学は2週間私に不規則を要求した。登録した授業は思ったよりも多くなり、時間割の余白は少なくなった。私はうろたえながらも覚悟を決めつつあった。しかし、蓋を開けてみれば、不規則な空白である。弄ばれているのでないとしたら、ではなぜ私は困惑しているのか。実に嘆かわしい。2週間も当惑の日々を地平を見失いながら過ごした。これが私にとって何を意味するか、読者諸氏には想像できるだろうか。2週間である。大学は来いと言ったり来るなといったりする。わからなくなるではないか。すべきことが、自分が何者なのか。そして、全部何もかも忘れかけた4月の4週目、即ち新学期3週目にしてやっと、時間割通りに学校にいくことになるのである。書いていて阿呆らしくなってきた。私はプログラムされた機械ではない。機械でないが故に苦しんでいるのである。機械でない私が習慣を手に入れるためには、訓練のほかに仕方がない。その訓練が、したくてもできなかったのだ。自明のごとく、私は機械などではない。そんな都合よく立ち居振る舞いを変えられる筈が無かろう。なんのために私は無との闘いを強いられたのだ。実に腹立たしい。
大学が作った仕組みに対する罵詈雑言はこのあたりにしておこう。

前置きが長くなったが、話は本日(4月26日金曜日)の午前へと戻る。古来より1日は24時間と定められていながら、私は不規則な睡眠に悩まされ、日付変更線を書き換えまくっていた。東から太陽が昇り西に沈む。この天体の運行が作り出す人々の活動と睡眠の周期、これから外れて独自の昼と夜を過ごさねばならなかった私であった。しかし、奇跡は起こった。今朝のことである。私の身体と頭が動いているその時と、太陽が東から昇り人々が動き出すその時が、まるで皆既日食が起きるその時のように、重なったのである。私は無との闘いに疲れ切っていた。私は連休を享受したかった。私は自分に負けたくなかった。そして私は校舎へとたどり着いたのであった。
授業は面白かった。なんということはない。ここまで来て席に座ってしまいさえすれば困難などないのである。私の頭は冴え切っていた。閉ざされた暗い部屋を抜け出して、太陽光を浴び、道中の光景から視界に入ってくる様々の情報に思案を繰り広げてここまでやってくる時点で私の思考は必要以上に巡り巡り、回転数は極限まで振り切っていた。教員からの問いかけに対して学生たちは静まり返る。おそらく最年長の6年生である私は挙手をして発言し、教員からお褒めの言葉を賜るなどした。授業中にセットした覚えのない私の目覚まし時計が鳴ってしまう一幕があったが、授業に対する私の前のめりの姿勢を認めていた教員は微笑をもって赦しを与えてくれた。嘘のように充実した90分であった。私は教室を出て食事をとりながら、久しく感じていなかった生きているという実感を、昼飯の時間に昼飯を食うことで胸いっぱいに味わい、そしてすべてが満たされた。つまずいて心傷ついた者に必要なのは小さな成功体験の積み重ねである。いま私が味わったそれがまさにそれなのであろう。これを毎日、繰り返せばよいのである。私が必要としていた、規則。それを手に入れる最初の一歩を踏み出すことが出来た。私の目の前にある閉ざされた門がほんの少し開かれ、その扉の隙間から淡い光が漏れている。私はそれに、決して力強くはないものの、手を伸ばそうとしていた。
しかし、次に授業があるのは、9日後であった。私はまたもや大学が定めた教務日程に弄ばれる運命をたどるのであろうか。私は眩暈を覚えた。そして、この書を記すに至ったのである。

私を今日ここまで連れ出したのは、連休ではないのか。今日行けば当分行かなくて良いのだから、行ってやってもいいのではないか。そんな心持で足を伸ばしたのではないか。

私が随分とわがままなことを言っているのは勿論承知している。しかし、求めるものと、必要なものの不一致に、ただただ当惑するのみである。