カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

あたいの夏休み《前編》

公演が終わったら一目散に東京をあとにし、実家に帰って2~3週間何もしない。というのが常であった。しかし、今回はそうではない。
劇団 人格社 第3回公演 「光路図」 2022年8月13日開幕、8月14日終演
まさか3回目まで行くとは思ってなかったし、自分が1年間に3本も脚本を書くなんてもっと信じられなかったが、その一方で僕は調子に乗っていた。以前よりかは陽気に人と話し、心なしかSNSの更新が増えた。この出所のわからぬ高揚感は失速の兆しであることだと気が付かないわけではないが、何かをしている自分自身のことは何もしていない自分自身よりかは好きになれたので仕方がない。大学4年だが留年が決まっており卒業は再来年のこと。細かいことはまあ公演が終わってから実家に帰ってのんびりしながら考えようではないか。平日は落とした単位を拾い、土日は劇団の稽古を行う。こういった様子の僕の生活のゴールはひとまずは舞台の幕が下りることであると同時に、東京駅23番線山形新幹線ホームを目指すことであった。
7月28日に最後の授業を終え、8月14日に千秋楽を迎えたら一目散に山形へ帰る。8月15日以降のことは知らぬ。これが僕の夏休みのプランであった。
以下に実際の僕の夏休みを記す。

~カリフォルニア・日記 夏・ヴァケイション編 2022~

7月28日(木)
一夜漬けのし過ぎで僕は昼夜逆転していた。正常に就寝し、正常に起床する方法を忘れていた僕はこの日1限からある試験に徹夜して臨むつもりでいた。「交通経済論」「日本文化史」僕はこれらの試験に持ち込むためのノートを完璧にとっていたので、起きてさえいれば、その教室にたどり着くことさえできればよかった。これで試験は終わりだ。これで夏休みだ。これで劇団のことに集中できる。唯一の困難が、起床してその教室にたどり着くことであった。そんな阿呆な。起きていることそれ自体が目的。そのためだけに徹夜する。これがどれだけ苦痛なことであるか、伝わればよいのだが。そして、大方これは失敗する。
友人の山田は前の日の水曜日に試験を終えていた。「試験が終わったら深夜の首都高ドライブ行きたいンゴね~」みたいなことを山田が言っていたので、僕は彼の借りた車に乗せてもらった。7月27日水曜日22時、車は走り出した。
首都高速道路には都心環状線中央環状線があり、工夫して走れば永遠にぐるぐると高速道路を走り続けることが出来るのである。そして、レンタカーは深夜割引というものがあるらしい。
僕と山田は交代で夜の10時から朝の7時まで東京をぐるぐる走り回っていたが、岸田首相が節電を呼び掛けた街は東京タワーですらあかりが灯っておらず、ロマンチックな夜景ドライブはゴールのない腰痛耐久レースへと姿を変えた。エネルギーの節約で灯りを落とした夜の東京を、ガソリンを無駄にしながらぐるぐると回り続けた我々はきっと地獄に落ちるであろう。というかすでに苦行を強いられている。首都高は停車できるところがほとんどない。一度交代するともう走り続けるほかは無い。僕は午前1時から午前4時くらいまでずっと運転席にいた。つけていたラジオがトンネルに入ると雑音に変わる瞬間が何度かある。またか、とおもったらそこは通った覚えのあるトンネルであった。
山田に運転を代わってもらい、僕は助手席のシートをわずかに倒す。寝るんじゃないだろうなと山田は顔をしかめ、僕は腰が痛えんだよと弁解する。自分自身と山田を眠らせないために僕は試験のためのノートを音読する。「交通とは派生的需要である。交通手段そのものには本源的需要はなく、どこかへ行くための手段としての派生需要が交通にある。」僕が持っている「交通経済論」のノートにはそう書いてあったが、高速道路に乗ることそれ自体を目的としている我々が首都高に求めているそれは本源的需要であった。はした金とありあまる時間を持て余した大学生というのはおかしな消費者である。
山田にとっては本来は一人で気ままなドライブをするつもりであったのに、僕が乗り込んだせいで1限の時間まで走りつづけなければいけなくなったことは本当に申し訳ないと思っている。
僕は飽きてくるとノートを足元のリュックに突っこみ、フロントガラスをぼーっと見上げる。朝焼けが空を染める。首都高湾岸線の上から見た東京の空は普段地面から見上げる東京の空よりも信じられないほど広く見えた。海のそばまで街にはびっしりと建物が並び、その間を縫うように首都高の高架は張り巡らされ、知っている街、名前だけは聞いたことのある街、全く知らない街、それらを一瞬で通り過ぎていく。ちっちゃい東京。でっかい空。空はどんどん明るくなる。僕は感涙しそうになった。脚本執筆が難航し3か月以上に及んだことも、2年ぶりの大学への通学の苦痛も、落とした単位を拾い集めるための久々のまともな試験勉強も、朝焼けを見たときにすべてが遠のいていくような気がした。すべてが遠のいていく感覚はときたま僕に訪れる。自分はどこにもいない。移動する電車や車の中から流れていく景色を見るときの気持ちに似ている。自分の記憶ですら他人事に思えてしまう。

夜通し車に乗っていて奇妙な疲れ方をしていた。朝6時、せっかくだからと僕らは築地に降りた。「せっかくだから」とは何のことだと問われても困る。築地では1000円あれば朝6時でも海鮮丼を食べることが出来る。刺身につけた醤油は口内炎を刺激するものの、温かい白米とあおさの味噌汁が奇妙に疲弊した身体に染みわたった。僕は、このあと、試験を、受け、そして、寝て、起きて、演劇、を、つくる、の、だった。大丈夫だ。
夏休みがはじまれば、どうにか、なる。おれは大学生だ!しかも夏休みだ!何をやってもいいんだ!なんでもできるはずだ!なぜならここは日本で!しかもおれは私立文系で留年が決まっている!おれより無敵な奴はそうはいないはずだ。
高速道路を降りてしまったので一般道を通りレンタカーを返しに行く。築地から我らが中野・杉並区方面へ向かう道すがら、新橋、虎ノ門、赤坂、六本木、西麻布、南青山、渋谷を通過した(だいぶ遠回りした)。格調高く整った街々はガラス張りの高層ビルが立ち並び、すでに太陽が高く上った青空を反射していて、僕はまぶしくて消えそうになった。車の中はエアコンが効いていて寒いくらいであったが、外を歩く人々は暑そうだった。車の中にまで蝉の声が聞こえる。六本木にも蝉がいたことに驚いた。朝早く汗を流しながら大都会の一等地を歩く高校生やビジネスマン。それを涼しいところから見ている徹夜明けの大学生。とにかく健康になりたかった。渋谷を過ぎて山手通りに入り、中野区に近づくと懐かしい風景が見えてきた。ひどく安心したのを覚えている。この車を降りて大学へ向かえば、僕はこの街の一部になることができる。そう思った。
持ち込んだノートはよく見ると所々抜け落ちてはいるものの適度に補い試験はつつがなく終わった。まともな大学生みたいなことをしている気持ちにになってどこか誇らしくすらあった。昼休みに大学の目の前の富士そばに行ってわかめがのった美味くも不味くもないそばを食ったあと、夏休みの課題をもらいに3限の上級ドイツ語(履修者が僕しかいないので試験がない)の教室へ向かった。
劇団の人から発熱の連絡を受けたのはこの時であった。

7月29日(金)
前の日徹夜をしていたのでものすごく眠ったことを覚えている。長く浅く質の悪い眠りで目が覚めてもずっと気怠かった。とにかく明日と明後日の稽古は中止となり、僕は印刷物やノートで散らかった部屋を片付けるでもなく寝床の中で怯えて過ごしていた。

7月30日(土)
公演中止を決定した。僕は優柔不断なので右往左往していたが、劇団の関係者と相談を重ねた結果上演は不可能と判断した。

7月31日(日)
公演中止を発表した。僕はPCR検査を受けに行き、家に帰るとなんだか自分もコロナなんじゃないかと不安になりもうすぐ死ぬんじゃないかと思っていままでの稽古で撮った写真を見返し寝床の中で「ああたのしかったなあみんないままでありがとう」とむせび泣きながら繰り返しているうちに眠りに落ちた。

8月1日(月)
雨のせいで気圧が低くて頭が痛かったが、これもコロナの症状なんじゃないのか、もうすぐ死ぬんだなと不安になり、自分よりも悲惨な最期を迎えた者たちを見て安心するためにWikipediaをみて極東国際軍事裁判で有罪になった戦犯たちの経歴を調べまくった。自分の高校の先輩が一人いた。先輩は巣鴨プリズンで獄中死していた。巣鴨と言えば板橋に住んでいたころによく利用していた駅である。へえ~と思っていたらPCR検査陰性の結果が届いた。
しかし世の中は穏やかではない。漠然とした不安が世界を包んでいる。7回目の波がやってきている。そうか、もう7回目なのか。iPhoneと同じでだんだん騒がれなくなる。僕は去年末までしぶとくiPhone8を愛用していて、高額になっていく一方で変化が地味なiPhoneを斜に構えて見ていた。僕の最初のiPhoneは高校1年生のときの5sだった。とんでもないものが手に入ってしまったと、これで何をしてやろうかとでたらめに興奮していたが、いまではあって当たり前のものになってしまった。そのうちコロナも変異して人体で超広角カメラが使えたりSuicaの定期を取り込めたりRadikoが聴けたりするのであろう。ワクチンを打つと5G に接続できるようになるといわれているのも納得だ。
僕は光路図の脚本執筆のために3月からPCのOneNoteやGooglekeep に書き散らかしてきたメモ(いわゆるネタ帳)を見返していた。これらは地の文(台詞とト書きでできた、役者に実際に配られる台本となるテクストを僕はこう呼んでいる)とは別のものだ。ここにはTwitterのような短いつぶやきや、光路図の執筆に必要なモチーフや登場人物に関する記述や、どうしても入れたい台詞ややり取りに関する記述(時にそれは脚本の地の文よりも筆が乗って止まらなくなり短編小説と言えるほどのボリュームになることさえあった。)が安置されている。特にGoogle keepはスマホとも同期され使いやすいため時には大学にいる間、講義中ですら書き込んでいたこともある。どうしても電子端末が使えない場合は持ち歩いている無地のノートに書き散らかす。そのノートは常に僕の枕元に配置され悪夢の誘因となっている。内面世界ばかりを発達させているから大学に友達がいねえんだよ。
これらのネタ帳をもとに地の文を構築していくが、ネタ帳の量があまりに膨大になってしまったがために、いちいち参照するのが面倒になり邪魔にすら思えてくる。しかし、このネタ帳に吐き続けたものが僕の書こうとしていることの全てであり、到底無視することはできない。このネタ帳と対面するとき、僕は愛憎ともとれるようなばかでかい心象の動きを覚えそのたびに狼狽していた(無論授業中もである)。脚本執筆と大学生活を往来するどっちつかずの日々のもどかしさが瞬時に思い出され僕は動けなくなってしまった。
前2作「グッド・バイ」と「三年王国」は、オンライン授業期間に家に閉じこもり、大学から送られてくる動画や資料には目もくれず、26単位分を豪快に投げ捨てて書いていたものだった。目の前には地の文だけがあり、僕は常に作品世界に没入していたのである。そのとき投げ捨てた26単位を拾いに行くため毎日電車に乗って大学に通い、大学生活と作品世界とを往来する。もう一年留年するわけにはいかない。でも、明日と明後日と明々後日家にこもればやれるかもしれない。そういえば明日は小テストがあり学校にはこなければならない…リュックの中には奥山諒太郎「光路図」とゼミで使うサルトル実存主義とは何か」と地方財政論だか都市問題論だかの文献があり、難しそうな言葉ばかり並んでいるのになんだかとても頭の悪い奴の鞄に見えてきてリュックを白山通りの水道橋からきったねえ神田川に投げ捨ててやりたくなったが、同じく神田川くらい汚い道頓堀川に投げ捨てられたカーネルサンダース像が復活した事件を思い出し踏みとどまった。この繰り返しの中で「光路図」は書かれたのだ。
それでもやっぱり「光路図」は今の僕の全てだったのだが、ネタ帳ばかりが積み上がり地の文はいつまでたっても整わないままだった。単純に、やりたいことはおもいつくけど、やろうとするとうまくいかない。そんな具合で4月から7月は過ぎていった。
「光路図」は、今の僕の全てなんだ。
情緒がおかしくなってしまった僕はアパートを飛び出して横浜家系ラーメン二代目武道家を目指して歩き出す。ここは夜中の2時までやってる。緊急事態宣言やまん防のころの時短営業中は夜8時で終わるかわりに朝の4時からやっていた。真っ暗になった中野の街の中で、横浜家系ラーメン二代目武道家だけが光を放ち、その濃厚なスープの香りを漂わせていた。「グッド・バイ」「三年王国」のときもそうだった。暗闇の中で、横浜家系ラーメン二代目武道家だけが光であり、真実の楽園だった。入店すると店主は『ッッスせエエエーいいいいいいいッッッ!!!!』という雄たけびを発する。ラーメンとライスの食券を買い、「お好みありますか」といういつもの問いかけに「麺固めスープ濃いめ背油入りで」とオーダー。白米の上にきゅうりの漬物をこれでもかというほど載せ、掻きこみ、ドッロドロのスープで飲み込む(米と漬物はいくらでも食べ放題である)。一心不乱に麺をすすり、チャーシューと一緒に米を口に詰め込むと僕はすべてを忘却する。麺が三分の一くらいまで減ってくるとニンニクをぶち込み自分の味覚を破壊する。とうとう麺がなくなってしまうと僕はライスのおかわりをもらい、また漬物をのせ、さらに辛子味噌をのせ、ゴマをまぶし、それらをスープが残ったどんぶりに投下する。これを混ぜておじやのようにし、この世の摂理を超越する勢いで平らげる。腹を押さえながら雑居ビルがそびえる夜空に背を向けげっぷをし、家まで歩いて帰る。道中にある坂道を自転車が勢いよく下ってくるが奴らは巧みなハンドリングで僕をよける。自分が路上の秩序だと思っている田舎の中高校生なんかにはとてもできない芸当である。ここは変な街だ。寝床に倒れこむと僕は静かに眠った。

8月2日(火)
昨日PCR検査の陰性の結果が出たとともに、横浜家系ラーメン二代目武道家を実食しコロナウイルス感染症特有の味覚障害がないことを確認した。しかし、まだ確信は持てなかったので自分の味覚を確かめるべく昼間にモスバーガーに向かった。
真昼の太陽のもとを歩くのは、なんだか久しぶりの気がした。東京は夏の盛りであった。すっかりひるんでしまった僕はTwitterの下書きに以下のように記していた。

  • 「夏は嫌い」との公式見解を示す閣議決定
  • 町内に向け高温の熱風を放出しているエアコン室外機を複数台確認。本邦への武力攻撃とみなし対応を審議中。
  • 重度のメンヘラを自認する男性(21)、モスバーガー中野南口店にて7番の番号札を目の前にした状態で発見。「ハンバーガーを待っていると店員さんが僕を探しに来てくれる。誰かが僕を見つけてくれるのが嬉しかった。」と他者への依存願望を仄めかす供述。
  • 政府与党「モスバーガーのソースは吸う」との談話を発表。野党は反発。
  • 自宅三菱エアコン霧ケ峰、連続稼働時間が戦後最長となる見通し。財源確保に課題残る。
  • 知事要請「ハンバーガーは控えて」
  • 【号外】腰骨に新型爆弾か
  • 新型爆弾投下を受け「寝たきり宣言」受諾
  • 「万年床」への国際社会の不満噴出。迫る選択
  • 首相、昨年度落とした26単位について明言を避け、早期の幕引きを図る。野党「議論尽くされていない」親の期待を裏切る形か。
  • 首相公邸にUber Eats 「場所わからない」「空き家かとおもった」との声多数。
  • 奥山前総理、路上で昏倒。地面見失い自力で歩けなくなったか。
  • 公共財占有問題「中野区立中央図書館の本を延滞 返却催促をシカト」
  • 時間がずれた腕時計を1か月以上していた事実が発覚。そもそも無職には腕時計が不要との見方強まる。
  • 才能、枯渇。「湧いて出るものと思うな」との批判も。
  • 国防総省「太陽を撃墜」と発表

なんで外出してまでTwitterをやっているのかわからないが、新鮮な気持ちを味わうと一字一句実況したくなるものである。蝉の鳴き声を聴きながら汗を流してのんびり街を歩いていると変な気持ちになる。そうか、これが夏休みなのか。たしかに僕は休日を満喫していた。この時点ではハンバーガーを食べに行っただけだが、未だかつてないほど長い空白の時間が僕の目の前に突然現れた事実に実感がわき始めたのはこのあたりだったような気がする。どうせ暇ならいますぐ実家に逃げ帰ってもいいと思っていたが、嬉しいことに僕は5日に先輩にご飯に誘われていた。5日までは、東京に居ようと思った。

モスバーガーを退店すると僕は図書館へ向かった。光路図の参考文献として借りたまま延滞していた図書を先日図書館の返却ポストへと知らないふりして投函した。その中には星と星座の図鑑もあり、地元の子供たちの関心領域に空白を作ってしまったことが悔やんでも悔やみきれない。僕も図鑑が好きな子供だった。あるはずの巻が借りられていたらキレるに違いない。しかし、幼いころの記憶を回顧しても図鑑と言うのはたいてい禁帯出であった記憶がある。7月に子ど向けコーナーに興味本位で立ち寄ったら、学研の図鑑に禁帯出シールが貼られていなかったので喜んで連れて帰ってしまった。僕は本を積む癖がある罪深い男なので、図書館で本を借りても借りただけで満足するということが往々にしてあるが、この図鑑に関しては僕はとても読み込んだと言えよう。21歳にして図鑑に夢中になるとは思わなかった。図書館はやはり素晴らしい。こんな図書館を利用できなくなったら嫌だなあと思いながら利用者カードを使って次の本を借りようとしたら、問題なく貸し出し手続きを終えることが出来た。図鑑の延滞はお咎めなしの様子である。中野区は寛大だ。
図書館の中で「上演校」のネームプレートを下げた制服姿の男子高校生が英語の参考書を抱えて寝ていた。中野区立中央図書館はなかのZEROという文化施設の中にある。この大ホールで、今日まで高校演劇の全国大会が行われていたのである。その昔、僕もあれを長野県上田市でやった。全国大会最終日、審査結果が出るまでは何もない。講習会なるものが催されるが、引退する3年生はそんなものには出席しない。ただ、最後になるかもしれない上演を終え、部活を引退して受験生としての生活に放り出される前の、つかの間の空白。それは、知らない街でなんとか涼める場所を見つけて、閉会式を待つだけの虚無の夏のひととき。あれを今住んでる家の近所で思い出すとは思わなかった。彼らは大会後の先を見据えているのだろうか。部活を引退しても受験勉強に真面目に取り組むでもなくぼんやりと過ぎていった2018年の夏を思い出す。そして、2022年の夏もやっていることは大して変わらないのではないかとも思う。
家に帰ると僕はアイスコーヒーを作った。ペーパーフィルターの中にたっぷり入れた粉は、湯を注がれるとむくむくと膨れ上がる。ただでさえ蒸し暑いキッチンにさらに熱気が立ち上り、濃厚なコーヒーの香りが充満した。ここまで蒸し暑いなかで濃厚なにおいを嗅いでいると気絶しそうになる。やばい実験をしているような気持になった。濃い目に抽出したコーヒーを、大きめの氷をたっぷり詰め込んだサーバーに注ぎ込む。パキッ、パキッと気持ちの良い音を出してコーヒーと氷は溶け合う。この瞬間を待ち焦がれていた。カランコロンとサーバーの中身を混ぜてコーヒーを冷やす。電気ケトルを使って沸かした湯でコーヒーを作り、冷凍庫で作った氷を使って熱いコーヒーを冷やす。人類はここまでしてなにがしたいんだ。熱エネルギーをふんだんに弄んで作ったアイスコーヒーは美味しかった。こんな文明長続きするはずがない。畳に寝転がり、扇風機の風に当たりながら借りてきた小説のページを捲った。
なんだ、いい感じじゃないか。

8月3日(水)
御茶ノ水、午前11時30分。ここにも会ってくれる友達がいた。彼は大学病院に勤務する精神科医である。だがおそらく彼は僕を友達とは思っておらず、患者だと思っている。
「で、最近どう?」
具合が悪いからここに来ているのではなく、毎月来ることになっているから来ているまでのことである。それにしても、夏の病院は常に過不足なく空調が効いているイメージだったが、例の岸田首相の呼びかけのせいかこの日は冷房が控えめだった。駅から歩いてきた僕はキンキンに冷えている病院の中を期待していたから不満だった。病院のくせに。
「試験があって忙しかったですね」
「あんた単位すげえ落としたもんな。今年忙しいでしょ」
「いやそっちはいいんすけど、先生聞いてくださいよ。やるって言ってた舞台なくなっちゃったんですよ。」
「コロナ?」
「まあ。」
「あらー」
「暇なんすよ」
「なるほどね」
「何してんの?」
「寝てるか散歩してるかですね。具合はよくもなければ悪くもないですね。」
「相変わらずね。どうすんの、実家帰るの?」
「どうしようかなと思ってて。実家帰っても何もしないんで。」
「ふ~ん」
「せっかく時間あるんだったら東京でなんかしたほうがいい気がしてるんですよね~」
「へえ~」
「でも7月忙しかったんで、なんもしないで休むのもいいかなとおもって。実家帰ろうか帰らないかって。」
「そうなんだ」
「なんかできそうな気がするんですよ。あまりにも暇だから。とか言ってね、なんかすごい前向きな人みたいなこと言ってますね私。」
「いいじゃん。初めて会った時よりあんただいぶ元気だよ」
「いやあ、本当に暇なんですよ。」
「大丈夫だよこれから暇じゃなくなるから」
「そうなんですよね・・・」

そうなんですよ。暇なのはいまだけ。僕は暇なのが嫌なんじゃない。じきに忙しくなる。モラトリアムの最期を悟りつつある僕の漠然とした不安。僕の関心ごとはそっちだった。僕はある人のことを思い出す。姉御。

「で、次いつ来る?実家帰るなら少し先がいいか?10月とか」
「いや、9月中にどこか。秋は悲しくなので」
「わかった」
彼はボカスカとキーボードを打つ。彼はでかい音を立てて文字を入力する癖がある。次回の予約を入力するこの音が聞こえたら次は「じゃお大事に」と言われる。
その前に僕は口を開いた。
「先生、あのですね」
「なんですか」
「聞いてくれますか…?」
「いいよ」
「一緒に芝居やる予定だった役者さんがね、一個上で今年から社会人の人なんですけど、働きながら演劇やりたくて声かけてくれたんですけどね。なんかその人が上手くいってなくて参っちゃてるんですよね。なんかこうね、私もこうなるんだなと。働きながらでもやりたいことができなくなるわけじゃないから大丈夫、というわけにも行かないというか、現実を垣間見たんですよ。」
「なるほど、傍で見ててね。」
「ええ。いやその人相当参っちゃっててね、文学部国文科の出身だけどメーカーで営業やってるんですよ。あと発注とか設計とかマーケティングとか。」
「なるほど。いい感じだね。」
「いい感じですか」
「いやなんというか、すごいね。」
「そう。すごいんですよ。じゃなくてね、他人事じゃないんですよ。僕だって。」
「あんた経済学部でしょ。ちょっとは向いてんじゃない」
「冗談じゃない」
「まあ、僕らは医者の中でも文系みたいなもんだけど、計算はするし、処置もないわけじゃないしね。なんでもやりゃあいいんだよっていうふうに思ったりはしてる」
「なんか、やりたいこととの隔たりとか感じないんですか」
「まあ、いい時代だよ。ある種。昔はなんでもやんないと食ってけない時代だったからね」
「いうて僕らみたいな人たちが贅沢なのはわかってるんですがね」
「相対的に見りゃあね。別の課題が出てくんのよ。戦後ってみんな貧乏だったから、豊かになるってゴールがわかりやすかったのね。その時期を過ぎちゃったから。その後は、みんなやりたいことを見つけましょうってなるんだけど、やりたいことが見つかんない人だっていルわけですよ。結婚も恋愛至上主義だし、恋愛結婚しなきゃいけない。仕事も自分のやりたいと思ったものを見つけて自己実現を果たさなきゃいけないっていう、ある種の宗教みたいなものに縛られてるから。素敵な何かを見つけなきゃいけないって抑圧の中に今の人はいんのよ。昔は押さえつけられたことに対する反抗というわかりやすい構図が作りやすかったけど、今はそういうわけにはいかんのよね。だから、やりたいことを見つけるって悪魔の言葉なのよ。だから大変。大変さの種類が違うのよ。むーずかしい話よ。でもまあ、なんとか生きにゃあならんのよっていう話に落ち着くってわけよ。」
「生き急いじゃいけないというか、若いうちに何でもかんでも欲しがっちゃうからこわくなるんすかね。なんか、その人は刹那主義というか、衝動性が強くて、後先考えず目の前のことに全部立ち向かってしまう。焦ってしまいやりたいことをやっておかないと自分を保つことが出来ないって感じでね。」
「仕事辞めても茨の道だし、働き続けても大変だし、ね」
「…なんか、あの人このままの生き様じゃ持たないと思うんですけど、医者に連れてきた方がいいんですかね」
「いやまあ根本的な解決は難しいでしょうね。どう生きてくかって話だから。なんとも言えんでしょう。まあ、言い方悪いけど、良いサンプルが身近にいてさ、先輩がものすごいリアリティをもって示してくれてるんだから。伝わってくるんだったら先を見据えないとねえって話になるよねある種。」
「ある種」という言葉を使い彼は決して断言しない。これが僕にとって救いだった。僕の中で言いたいことなんて決まっていて、それを人に話せるかどうか、その変につかえているものを引っ張り出すすべにたけているのであろう。彼は。
僕は自分で結論を言ってしまう。すべてはわかりきったことの確認にすぎない。
「急にリアルなディティールが迫ってくるから怯えちゃってねえ、いやだからね、今実家に逃げ帰るのは違う気がするんですね。東京にしがみついていろいろなんというか・・・」
「まあ、また教えてください」

「また教えてください」というのは、「もう満足したろうから帰りなさい。」という意味である。この人は僕の話し相手をするのだけが仕事じゃない。お後がよろしいようで。ということだ。

僕は病院を後にする。人生が僕の目の前に迫りくるが、その手前には1か月の空白の夏休みがあった。僕は御茶ノ水の坂を下って神保町をふらふら歩いた。神保町の三省堂は建て替えのため休業していたので、東京堂書店書泉グランデに寄る。そのあとは大学のある水道橋駅の方へ向かった。散歩しながら医師に話したことを思い出す。僕は、実家に逃げ帰るのではなく、東京でできることをやりたい。とは言ったものの、東京でできることというのが一体何なのかはよくわかってはいなかった。実家に逃げ帰る、といっても実家には実家の現実がある。東京で暮らす自分自身の現実をしっかりと握ってから、実家に帰ろうと思った。でなければ東京に戻ってきてから動けなくなってしまうから。僕は法学部図書館の裏にあるモスバーガーで食事を済ませる。ここは学生証を出すとセットが100円引きになる学割を行っている。大学生で良かったと思う機会のひとつである。食事を済ませると、水道橋駅から中央総武線の黄色い電車に乗る。家には帰らずに僕は市ヶ谷で降りた。
今年の高等学校総合文化祭は東京都での開催である。総文祭はオリンピックのように毎年全国各地の都道府県で持ち回りで開催される。高校生の僕は総文祭の演劇部門に挑んでいたことになるが、他の部門のことはよく知らなかった。今年、いまさら高校演劇には興味がわかなかったが、せっかく東京開催されるのだから何か見ておきたくて、僕は新聞部門の会場へやってきた。僕は「光路図」の前作「三年王国」で新聞部をネタにし、もうなくなってしまった母校の新聞部を勝手に劇中で復活させた。僕にとって新聞部は演劇部ではなかったら入りたかった部活ランキングの上位にあり、どこか憧れの眼差しで外から見ていた。僕は高校在学中に配られた学校新聞のバックナンバーを大切に保管し、去年末「三年王国」の執筆のために再び読んでから学校新聞そのものに再び興味を惹かれていた。高校の新聞部、その謎に包まれた世界の現在を垣間見る機会が、なんと定期区間の中にあったのである。
市ヶ谷駅を出て神田川沿いの外堀公園の中を歩く。中央線の線路脇に生い茂る樹木から、けたたましい蝉の鳴き声が聞こえた。都会のど真ん中に小さな森があるような感じがして不思議だった。巨木の影が落ち、木漏れ日がまばらに光る小道を飯田橋駅の方向へ歩いていくと、総文祭ののぼりが立った建物が目についた。会場は私立の中学校の建物だった。中はとても静かでエアコンが涼しく、散歩の合間に立ち寄るには最適に心地よい場所だった。そういう場所ではないのだが。最終日の午後だからか、何人か新聞記者の人を見たが他には訪れている人はいなかった。廊下にびっしりと参加校の新聞が張り出され、とても静かだった。教室の中では、新聞部の人が総文祭のTシャツを投げて遊んでいた。あってほしい風景だと感じ、僕は満足した。

8月4日(木)
家で寝ていた。昨日一昨日と外出したことは僕にとっては大きなことであり、今日くらいは寝て過ごすのも悪くはないかと寝床の中で考えたのだと思う。次の日も予定があるということに安心していた。少なくとも飛び出したくなる気持ちにはならない。なぜなら明日出かけるのだから。なんの後ろめたさもない。こうやって自分自身を納得させて考えないようにする才覚が僕にはあるようだ。あってもなににもならないが。というわけで僕は正午を少し過ぎたあたりに起きて、食パンをトースターで焼き、コーヒーを作った。ご飯を食べて食器を洗うと僕はまたお布団に戻る。今日は何をするでもない。「夏休みに朝ご飯を食べた後にまた布団で寝るのは最高だ」昔実家の近くの学習塾で働いていた頃、夏期講習を担当していた中学生が言っていた。すでに正午を過ぎたころに僕が食べたこれは朝食なのかどうかはさておき、コーヒーを飲んだ僕はリラックスしてもといた布団の上へとするすると戻っていった。至福である。こんな気怠い日に、起き抜けに自分でドリップしてコーヒーを作ることだって僕にとっては大した所業である。南側の窓からレースカーテン越しに入ってくる昼下がりの太陽の光を感じながら、僕は仰向けに寝そべり、天井を見上げ、そして満足した。
僕はiPadを持っている。大学一年の時に貯金で買った。一番安いモデルだが僕にとっては大きな買い物だった。あの当時はこの僕にさえ貯金があった。鬱が悪くなり始めて、楽しいと感じられることが少なくなっていた当時の僕は買い物依存症の傾向にあり、iPadやコーヒーを作る器具や家具を買ったりした。貯金はそのときになくなり、代わりに残ったものたちと今は暮らしている。そのiPadAmazonプライムビデオを観る。
夏休みが始まる前は食事をするのも怠く、家にいるときは横たわったまま何も考えたくなかったので30分のアニメすら集中して観る気にすらなれなかったが、この夏休みが始まっていくぶん気持ちに余裕が生まれた途端、現在放送・配信中のアニメ「リコリス・リコイル」にはまってしまった。自分でもびっくりするくらい熱狂している。ここまでアニメにはまったことはなかった。人生を揺さぶった創作物は多々あれど、生活を支配した創作物はほとんどない。「早く見せて!!!殺す気か!!!おい!!!」と狂喜乱舞しながら毎週の更新を心待ちにしているが、さすがにリコリコのことばかり考えすぎて身が持たないと思い、同じくAmazonプライムで「邪神ちゃんドロップキック」を観ながら落ち着こうと思ったらこっちにも病的にはまってしまった。「リコリス・リコイル」は登場人物が愛おしいので好きで観ているつもりだが、「邪神ちゃんドロップキック」には僕は謎の浄化作用(カタルシス)を感じている。
「邪神ちゃんドロップキック」の主人公花園ゆりねは神保町のボロアパートに暮らす女子大生である。よってストーリーは主として東京都千代田区神田神保町で繰り広げられる。僕の大学が近くにある、あの神保町である。オープニングでいきなり、上半身がギャル、下半身が蛇の悪魔「邪神ちゃん」が大気圏外から神保町の交差点に降ってきて爆発し、東京都千代田区が一瞬で焼き尽くされる。神保町の百円ショップで働いていたころに夢見た風景が、こんな形で眼前に現れるとは。
交差点だけではない。公園、本屋、カレー屋、定食屋に至るまで神保町に実在する多くのものがアニメの世界観に丁寧にそのままトレースされている。自分が何度も歩いた街で、邪神ちゃんが暴れまわっている。悪いことをした邪神ちゃんがゆりねにもっとひどいめにあわされる。日常ギャグアニメなのに容赦のない暴力描写。それがただひたすらに痛快だった。邪神ちゃんが清々しいまでにクズで、救いようのないほどクズで、僕は安心して笑っている。幸せだ。このアニメでカタルシスを得る奴は、暴力に飢えているか、ある程度のクズを自認していながら突き抜けてクズな邪神ちゃんを見て安心している、そういう奴なんじゃないかと僕は思っている。

8月5日(金)
二人の先輩が遊んでくれた。僕の公演の中止の発表があって先輩はすぐに連絡をくれたので、僕は当初はとりあえずこの日を目指して生活していたが、この五日間でひとり気ままな生活を送ったことですぐにそちらに慣れてしまい、自分が公演をやるはずだったという実感が次第に薄れていた。この日先輩と遊んだことで僕は自分がやろうとしていたこととその顛末を思い出した。ひとつ上の先輩と、ふたつ上の先輩。どちらも高校の演劇部の先輩であり、僕からすれば物書きの先輩であった。この二人の先輩の交流の中に僕が入れてもらった形である。高校3年間、同じ演劇部の近い環境でものを書いていた僕と先輩達でも、その向き合い方と出来上がった物はそれぞれである。我々はそれぞれが書いた作品を互いに観てきたが、一体どのようなモチベーションでそれらが生み出されているのかが、この日議論された。とりわけ、僕を慰める趣旨で催された集会であるため、僕の供述がその話題の中心となった。そんな集まり他にはあまりないであろう。
今も演劇を続けている先輩は、可能性の海の中から引き揚げたものたちをつなげ、フィクションを構築している。僕がやっているのは、見たことのあるもの、記憶にあるもののコラージュであり、フィクションと言うよりは体験の再構成なのだ。記憶の湖での地引網漁。なんでそうなったのかと言えば、自分に見えているものを再確認するとともに、それを他の人に伝えて不安を取り除きたい、という願望があるのではないかと供述した。先立つものは孤独であり、自身と他人両方への不信であった。その不安な僕の内面の状態と、実在しているこの世との間を媒介するために僕の作品が存在するが、実際のところその不安は解消されない。自分がこの世に踏みとどまるための足元を、作り物で、しかも舞台と言う一時的な形で固めているために、この世にいる僕自身の存在は不安定で脆い。演劇を通じて人と触れ合い、作品を通じて認められることが幸運なことに叶ったとしても、それは自分自身を慰めるための行いに過ぎず、態度を改めない限り僕は他者に働きかけるどころか自分自身の内側を凝視することに終始しているに過ぎない。ものを書くことでしか他人やこの世とつながれない奴が、自分を慰めるために書いてはいけない。しかし、自分を慰めるにしても、自分自身が何をしたいのかは永遠にわからず、納得できるためになにをすべきかわからないままである。
そこにあるのは、ただひたすらの不安。不安に対抗するため何かを書くが、そこに記述されるのは不安の心情である。書いていると不安になる。人に読まれると思うともっと不安になる。本当にこれでいいのかなと不安になる。だけれども、舞台の上では不思議なことに不安が不安ではないものに変化していくような実感を得る。この実感が、作品を作って得たいものであるかもしれないが、舞台を降りると途端にまた不安になるために、再び作品を作ろうとするがそこに記述されるのは不安である。実に虚無的な行いである。時々作品を観たり読んだりしてくれた人たちや、一緒に作っている人たちに不安な気持ちを慰めてもらおうとするから僕は極悪である。ひとりでやれや。でも、寂しい。
先輩たちは困っていた。「何がそんなに不安で、なんでそんなに寂しいのか。現に私たちはおまえのことを認めて、こうやって関わっているじゃないか。それなのに、おまえはまだ不安で寂しいのか。」僕は、優しい先輩たちにこんなことを言わせてしまった自分自身が悲しく、生きていくのが不安になってしまった。人の優しさやぬくもりを受け取れず、歪めて見ている世界から不安しか受け取ることができないことがひどく寂しくて絶望した。もうこうなったらおしまいだ。だけれども先輩はそれでも優しく、「自己肯定感が著しく低い奴に特有の思考だから、おまえだけがおかしいわけじゃない。」と肯定してくれた。そういえば、「先輩は自己肯定感が皆無なのに、承認欲求と自己顕示欲だけが誰よりも巨大なんですよ」と後輩に言われたことがある。自己を肯定できないのに、自己を他人に見せつけたい奴、それは即ち、虚無を売りつける詐欺師である。本当は何も信じていない。だけど、同情を買ってもらいたい。この商売が成り立ってしまったらそれは悲劇だと僕は思う。二人の先輩は、ある程度強固な自分の世界を持ち、その上で世界に働きかけていた。僕に見えている世界はすべて曖昧で、かといって正確で鮮明な描写をもとめているかというとそうではない。何も求めていない。そこに立って見えているものが全てで、僕はそこから一歩も動くことは出来ず、おまけに僕のその視野は著しく歪んだり欠けたりしている。
先輩は手作りした梅酒を持ってきてくれた。鎌倉で梅酒作りを体験できるらしく、そのとき作ったものだそうだ。先輩二人を僕の家に招き、三人で畳に座って飲んだ。僕は全くお酒が飲めないが、梅酒は甘くておいしく、そして僕は不安だったのでそこそこの勢いで飲んでしまった。
先輩が僕の家の本棚を見て「読書傾向に節操がないな」と言った。読書傾向に限らず、僕はあらゆる事物に関し節操がない。恥を知ったところで、僕は力なく笑うほかない。
先輩二人を駅の改札まで見送った。やはり、どうしても、寂しかった。

 

___あたいの夏休み《後編》に続く

 

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