カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

自己実現の罠

えー、奥山さんが書いた脚本で賞を受賞したとのことでしたが、そちらへ進もうとは考えなかったのですか?

もっともな疑問である。ただし、この問いに結論を出すのは容易ではない。
8階の会議室。ビルはガラス張り。田舎にはここまで立派な建物は存在せず、平らな街が延々と広がるのを超然と見下ろしていた。
なぜ、自分がここにいるのか。その問いは根本的にそこまで戻らなければ答えは出ない。
答えられないわけではなかった。しかし、そこで私の視線が揺らいだのを彼らは見逃さなかったのだろう。
この先どこの会社に行ってもこれを説明させられると思うと、もう演劇のことをエントリーシートから削除したほうがいいのではないかとも考えたが、その他に書くことなどない。
私はどこに出向いても場違いだ。よそに行ってきみの夢を追いかければいいではないかなどと無責任なことを期待されているような気がするが、そんな夢など私にはない。
演劇は仕事にはならない。だから他に仕事が欲しい。
好きなことをしたいから仕事を探しているのではなく、月給をもらいたいから仕事を探しているのだが、いったいそれの何が悪いのか。なりたい自分になりなさい。夢を持って生きなさい。やりたいことをやりなさい。みんながみんな妄信的に自己実現の道をまっすぐに走破できるならそんなに楽なことはない。
他ではなく御社でなくてはならない理由を一生懸命考えても、落とされれば別に御社じゃなくても良かったと自分を慰めなくてはならない。なりたい自分が見つけられた奴は世界を自分の形に変えてしまえばよいのだが、そうでなければ世界の形に自分を変えていくしかない。どう考えても、後者の方が世のため人のため秩序のため平和のため良いに決まっているのに、前者のような生き方が持て囃される。
私が言いたいのはつまり、自分の形に合わせて世界を変えていくことが、私には向いていないことが演劇をやって気が付いたことだということだ。もうすこし正確に言えば、そういう生き様はきちんと生活をするうえでひどく障害になる。自己実現は自己責任であり、自身の加害性に自身が被害を受けて自滅した私が世界に対して働きかけようとしたところで、自己実現の論理で自身を説明しなければならず破綻する。何を言っているか自分でもよくわからなくなってきた。
ある程度単純に自身を説明できれば良いのである。単純に自己を実現し、単純に世界に身をゆだねることができる。そういった都合の良い存在になることが今求められている。
残念だがそういうわけにはいかないが。