カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

昔住んでいた町に行った

 10月のある日、僕は病院にいた。

「失礼します」
「やは」

 目の前にいる医者は三人目である。一人目は大学一年の時僕を実家に帰し、二人目は田舎で面倒を見てくれた。その後東京に戻ってきた今、三人目が目の前にいる。
 3人の医者に対して、僕は3回それぞれ自分について語らねばならなかった。自分自身について語るのは難しい。それにも関わらず、生活に支障をきたすほど精神に問題を抱えた人間が、自分自身に関してどれだけ語れるであろうか。診察の予約をして病院までたどり着くだけでも相当の体力を要する。

「最近どうなの?」
「特には何も」

きわめて内的な苦痛。言葉にして表現するのは容易なことではない。

「具合の方は?」
「相変わらず」
「というと?」
「相変わらず落ち込んでいます」

 苦痛に言葉で形を与えるのは大変むずかしい。創作で挫折した試みを、再び診察室で行おうとしていた。それも3回。3人目の医師に初めて会ったとき、今や僕は饒舌になっていた。(昔に比べれば)すっかり元気になった僕は、一通り説明し終わると話すことがなくなり、仕方がないので毎回雑談のようなことをして帰る。

「落ち込んでるって、ひどいの?」
「いいえ、暮らしていける程度に」
「あ、そう。ならよかった。」

 最初に医者にかかったときは、もう何を言えばいいかわからなかったので、思い出したことを手当たり次第に話したのだと思う。今思えば、話さなくてもいいことまでずいぶん話した気がする。「恥の多い生涯を送ってきました」父親の職業、自身の生い立ち、小学校を転校した話、田んぼの真ん中にある退屈な中学校、全く勉強しなかった高校時代、そして、大学への進学。聞かれていないのに話続ける。話すことでしか僕は落ち着くことができなかった。だが、今思えば当時は医者のほかに話し相手がいなかっただけのようにも思える。話ながら思い浮かべる情景が、だんだん新鮮な記憶へ近づいていき、現在の自分が立っている地点へとたどり着いたとき、僕は黙った。第一の医師もしばらく黙っていた。

「いつも通りなのね」
「でも落ち込んでいます」
「暮らしてける程度にでしょ?」
「ええ」
「じゃ、ある程度は落ち着いてるってことでしょ」
「たしかに」
「マシじゃん」

 世の中は苦しみで満ちている。暮らしていけないほどに落ち込んでいる人が病院にやってきて懸命に語るべきだ。しかし、暮らしていける程度に落ち込んでいる人は、誰に向かって何を語ればよいのだろうか。僕はたまたま、病院の診察室で話をすることができているが、大したことは話していないし、これが何かの救いになるとは思っていない。

「次いつにする?来月の同じ日でいい?」
「はい」
「じゃお大事に。またねー。」
「ありがとうございました」

 お金を払って病院を後にする。こんな話の相手をさせられる先生がいったいどんな気持ちなのか僕にはわからない。最初に受診したときの不安が根絶されたわけではないので月に一回病院に来てはいるが、別に一切の痛みがない世界を目指しているわけではない。口に出して説明したことを思い出してみる。なんだ、ただそれだけのことだったのか。そんなはずはない。僕がこれまで医師たちに語ってきたことが苦しみのすべてだったとは思えない。

 

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 ここは大学の附属病院だ。近くには僕が籍をおいている大学がある。大学の近くの、暗く薄汚い地下鉄の駅が、大学1年生の頃に住んでいた町へ通じている。何もせずに過ごした大学生活の前半を今や僕は惜しんでいた。あの時何に怯えていたのか、思い出そうとしているうちに僕はその地下鉄に乗っていた。

 駅の入り口は小さく、薄暗い細い階段が地下深くへと続いていた。蛍光灯の寒々とした光が汚れた地下道を照らし、自分の足音がその地下道全体に響く。地下鉄の窓からはトンネルの壁しか見えない。景色が見えないと移動している感覚も希薄になる。この電車は朝と夜だけばかみたいに混雑する。昼間は驚くほど人が乗っていない。20分ほどで地下鉄を降りる。階段を登って地上へ出る。地下鉄の駅の出口からは風が吹き下ろしており、その向こうから秋の強い日差しが差していた。地下の薄暗い蛍光灯の光に慣れた目には、この太陽の光はあまりに眩しい。地下鉄で通学することで生じる小さな苦痛の積み重ねが、この光線で耐えられなくなる。特に秋の強い光はなおのことであった。

 とにかく集合住宅の多い町だった。建物の存在感に対し人の気配があまりに少なく、それは廃墟の中のようであった。この町には昼間人口というものがほとんどいないのである。寝に帰るための場所。こんなところに活気があっても仕方がない。そういう場所だ。人の気配がない静まり返った風景。その中にたくさんの生活の痕跡が見られるが、それらが力なくただ存在している以外は何もない。最低限の暮らしのためのものだけが合理的に配置されている。

 

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 2019年の春。東京で土地勘のない父親と僕は、学生マンションを紹介する会社の人間に「いまから苦労して探すよりここに決めてしまった方が楽です。都内はもう部屋は空いてないでしょう。」と言われていた。ほかに住める場所がないなら仕方がない。大学に乗り換えなしで行けるならここで良いだろう。他に探して回るのは面倒だ。父と僕はあまり多くの言葉を交わさなかった。

 とても後悔している。生活を一人で一から作り上げていくことの重大さをもっと自覚するべきであった。わがままかもしれないが、適応する能力にも限度がある。とにかく、その町は死んでいた。大学と電車で一本なのは便利である。しかし、沿線に何もなく大学と家の往復以外にすることが見つからないことを便利と呼ぶならの話である。我々にとって「都会は便利」なのではない。都市にとって便利なように人間が配置されているだけだ。この町はとくにその性質が強かった。ほんの数十年前は経済成長期のサラリーマンが寝に帰るための団地以外何もなかった土地なのだから。

 僕が当時住んでいたのは学生マンションだった。当時築12年の鉄筋コンクリート造りの堅牢なマンションで、入り口には暗証番号を入力しないと開かない自動ドアがあった。安全安心。それ以外には何もない。部屋は六畳より狭く、一つだけある窓からは隣のスーパーの屋上駐車場しか見えなかった。

 高校で演劇をやめた僕は、東京で一人になって本当に何者でもなくなった。高校の演劇部でしていたことはあまりにほかの人の力に依存していた。自己矛盾の解消に他人を巻き込まなければいけないうちは未熟だ。一人では何もできない自分が、現実逃避の手段に演劇を用いても高校時代と特には変わらない。一度何者でもなくなって、他人とは距離を置き、自分の力で自分の問題を解消できる最低限の強さを先に手に入れるべきだ。というようなことを考えていたのだと思う。しかし、そんな強さが身に付く前に精神がくたびれてしまう方が早かった。自分は何者でもなく、暮らし以外には何もない。それは自身が望んだことであったということが何より虚しく、この暮らしから抜け出す力を持っていないことがただひたすらに悲しかった。

 家を出て散歩に行く。そこで出会う風景はとても慰めになるようなものではなかった。威圧的と言っても良いほどに荒涼たる情景が近所には広がっていた。

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 とにかく巨大な団地だった。再開発の途上だったらしい。広大な土地に並ぶいくつもの団地の建物は無人で、ただ取り壊しを待っていた。昼でも夜でもずっと重機の音がして、少しずつ同じ形の建物を解体していた。全部でいくつ同じ形の建物を解体するのか、それに何年かけるのか。考えるのはあまり楽しくはなかった。

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 ひときわ目を引くコンクリートの巨大な塔は給水塔である。中には団地で暮らす人の生活用水が入っているらしい。僕はこんなものを見たことがなかった。団地群の中で高い建物は奴だけで、だだっ広い空に向かって何の表情もなく存在を主張している。どこまで歩いても奴は視界に入ってくるし、しかも奴は一本ではなく何本も存在している。こんな不気味な奴があっちにもこっちにもいるのだ。わけのわからない巨大なきのこみたいなやつの存在はかなり恐ろしかったし、いまも給水塔を見ると不安な気持ちになる。だが僕が抱く恐怖も奴には何も関係ない。奴はとにかく巨大で、コンクリートでできているから頑丈で、体温なんかもちろんなくて、その色や質感ときたらとにかくなんの表情もなくて、こんなにも表情がないものがあっただろうかってくらい表情がなくて、それでいて常にあらゆるものを見下ろして無言で威圧している。夜に奴を見上げた時のことを考えるともうぞっとしてしまう。暗闇の中の奴の色は夜空の色とほとんど変わりがないのに、その気配と言ったら昼間に見るよりも恐ろしいのである。あたりは真っ暗なのにそれでもなお奴は足元の町に影を落としている。恐怖のあまり奴を視界に入れないように自転車に乗っていたら電柱に衝突したことがある。はたしてのろのろ動く重機たちがこんなものに立ち向かえるのだろうか。どうやって壊すのだろうか。破壊するその瞬間はぜひとも僕も立ち会いたい。

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 誰にも迷惑をかけずに生きることが、人生の目的になるかというとそんなことはなかったのである。人間は迷惑でつながれていたし人生は迷惑でできていた。孤独な都市生活からは迷惑が排除され、あとに残るのはきっとこの団地と給水塔みたいに殺伐とした風景なのだろう。

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 実生活に対する憎しみと自分に対する絶望と給水塔に対する恐怖を抱えながら、それでも僕は大学生活を送っていた。10月のことである。高校の同級生で、東京でよく遊んでいた山田との連絡が途絶えた。

 一週間ほどの沈黙のあとに山田から連絡があり、山田が地元の大学病院にいることがわかった。僕は新幹線で地元の駅に向かいそこからバスに乗って大学病院にたどり着いた。山田と僕は同郷だが、ぼくは大学病院には馴染みがなかった。東京の家を出てから4時間、そこは僕にとっては果てのような場所に思えた。山田が僕を待っていた病室は、不気味なほど清潔な場所で、山田は弱り切った様子でそこにただ佇んでいた。「海に沈みながら永遠の夕陽を見ているようだ」と山田は言った。一体何を言っているんだ。ぼくは海に沈みながら永遠の夕陽を見ている様子を想像しようとしたが、目の前にいる山田の何も見ていない無の表情を見て、考えるのをやめた。ほんとうにそこは果てだったのかもしれない。

 僕が東京に帰ってからも、彼からは時々電話がかかってきた。「もっと、当たり前の幸せがあったのかもしれない。特別な人間になる必要なんてなかったのかもしれない」どうしたんだ。お前はそんなことを言うやつではなかっただろう。僕はそのとき電話で話しながら、住んでいた学生マンションの裏の丘の上の公園から、眼下に広がる無数の集合住宅を眺めていた。その公園からも気味が悪いほどたくさんの集合住宅を見ることができた。大きく背の高いマンションが夕陽を遮り、灰色の小さな建物がいくつもならんだ団地は高層住宅の間から漏れた西日を受けながら横たわっていた。他に見えるものは、都心と郊外を結ぶ通勤電車。低い音を立てながら忙しく走り抜けていく。ぼくには、この風景に詰め込まれているそれぞれの無数の生活が山田の言う「当たり前の幸せ」と同じものだとは思えなかった。

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 この近くにかつて「自殺の名所」と呼ばれた団地があった。当時日本屈指の規模の団地で、まるで高い大きな壁みたいな14階建ての高層棟がいくつも連なっている。1970年当時、まだ高層建築物が珍しかった時代にこの高層棟から飛び降り自殺をする人が相次いだ。70年代だけで130人以上がこの地で自死を遂げたという。

 死にたくなる景色だと思った。この景色に抱かれると限りなく生の実感が希薄になる。だが、僕は自身の生命を持て余しているにすぎない。山田はその生命を脅かされていた。なにひとつとして実感が伴わなかった。自分が生きていることも、山田が死にかけていることも、団地から飛び降りて大勢死んだことも。目の前に広がっている光景と、電話の相手の声と、自分の心臓の音。すべてが意識から遠のいていく。これが本当に自分の人生なのか?なぜみんな生きているんだ?

 高架橋を走り抜ける通勤電車と、ぼくの地元へ向かう新幹線がすれ違うのをみた。あれが向かう先には、彼の言う当たり前の幸せはあるのだろうか。

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 すべては過ぎ去ったことであるため、僕はこんなことを情感たっぷりに語って、これ見よがしに写真なんか投稿することができる。後日譚を語ろう。

 山田は今も生きている。余命宣告は誤診だったらしい。何万人に一人の割合の紛らわしい腫瘍だったらしく、摘出された彼の組織はホルマリン漬けにされて大学病院の研究室に置いてあるという。だが病が彼に残した影響は深刻であった。一度死を宣告された山田がどんな境地に至ったかは僕には知ることができない。腫瘍は彼の人生にどうしようもない空白をもたらした。その穴の底から彼は這い出てきて何とか生きようと試みている。

 僕は引っ越した。正確に言うと、あの家での生活に耐えられなくなって実家に逃げ込んだ後、かなり時間がたった後いまの家に移り住んだ。実家に逃亡したのは新型コロナウイルス感染症が流行し始める2020年3月より前の2019年12月末のことだ。病んでしまった直後に謎のウイルスが蔓延して、大学の授業を学校に行かなくても受けられるようになったこともあり、今年の6月までの一年と半年もの期間を実家で過ごしたことになる。これまでの大学生活では東京に住んでいた時間よりも実家に住んでいた時間の方が長いのである。1年半、静養するには十分な期間だったはずである。

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再び、診察室

「劇団やってるんだっけ?」

「はい」

「どうよ?」

「ぼちぼちですね…今は一回目が終わって、二回目をやろうとしたりしなかったりしています」

「へえ」

「たまに不安になります」

「ああそう」

「はい」

「でもさ、演劇やってるときの方が元気でいやすいんでしょ」

「まあ、それは間違いないです。」

「じゃあいいじゃん やりなよ」

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 今思えば必要以上に深刻に考えすぎていたのかもしれない。ただ、すべては必要なものだったのかもしれない。踏むべき段階だったのかもしれない。当時は視野が欠けていたのだとしても、見えているものを使って必死で考えてはいたのだ。こうする他はなかった。

 山田の腫瘍の原因は不明のままである。だが彼自身に非があるものとは考えにくい。「おれがどんな選択をしたとしても、十代の終わりには必ず腫瘍が発見されて空白が訪れる。」彼は言う「おれの人生のどの分岐の先にも、この腫瘍があったと考えることができる。だから過去に起きたことにある程度寛大になることも出来る。」

 生き辛さが突然降ってきて自分に当たったとは考えていない。僕は最初からそれを抱えていて、いつかどうしようもなく行き詰ることは決まっていた。そのときたまたま東京にいて、あの給水塔があっただけなのだと思う。奴は何も悪くない。

 僕は過去への執着をやめないし、あったかもしれない他の人生について思いを巡らせれば終わりがない。僕は僕自身の生きざまについて解釈し続ける。暮らしてける程度に苦しむとはそういう行いのことも指している。

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 「不幸には必ず原因があるし、何もない状態から人は幸せを得ることもできない。精神科はハッピーを処方する場所じゃないんだ。だから、自分自身のことを話せるようになるまで気長に待つんだよ。」