カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

9月について

 9月は瞬時に過ぎていく。過ぎ去った後に9月の姿を知覚することは出来ない。僕はそう考えるようになっていた。夏の日差しの下で汗を流しながら何をしていたのか、木の葉が色付き上着を着るようになったとき何を考えていたか、それらは記憶に残っている。しかし、その間に位置する9月について、僕は多くを覚えてはいない。ただ僕は、9月のただ中にいるときの戸惑いについてだけ語ることができる。

 ゼミで扱う哲学書とギャグ漫画を交互に読み、レポートという体裁のお粗末な作文を背中を丸めて打ち込み続け、なるべく金がかからないように工夫して自炊し、就活に関する情報を自分が直視したくない部分を避けながらそれとなく申し訳程度に調べ、いい加減バイトにも応募した。飛び出したくなった。自転車ででたらめに走り出す。前にもこんなことがあったような気がした。あれも9月だった。

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 舞台が終わったときの気持ちはいつも同じである。しばらくの間日々の暮らしの中にあり、常に意識の中で大きく張りつめて存在していたものが瞬時になくなる。明日からは稽古がなく、明後日もない、というただそれだけのことに違和感を覚える。作る人と見る人が一堂に会し、同じ時間と空間を共有し、その上完全に同じことはもう二度と起こらない。当然だが演劇はそれが前提で成り立っている。喪失という言葉はあまりに深刻だが、それにしても喪失に似たこの居心地の悪さには特有のものがある。実生活の虚無。2018年夏の最後の舞台からの3年間、僕は常にこの居心地の悪さの中にいたのかもしれない。僕は今年の8月、一瞬の間だけこの居心地の悪さを克服した。そして、また戻ってきたのだ。この実生活に。とにかく、ひどく居心地が悪い。僕が高校三年間の間、結局ずっと演劇部にいたのは、終演後のこの落ち着かない感覚が理由なのかもしれない。

 先のことは何も考えていなかった。目の前でいま起こりつつあることを成し遂げさえすればそれ自体で大きな意味をもつ。それだけを信じて走り続けた。公演という大事業を終えても目の前に残ったのは、ただの生活であった。それは、ほとんどなにも姿を変えずに私の目の前にもどってきた。仲間たちもそれぞれの生活へと戻っていき、僕にも元通り自分の家の天井を眺める夜が訪れるようになった。孤独や虚無という言葉ではとても言いきれたものではない悲しみがそこにはあった。

 

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 夏休み明けのゼミで、休暇中のことについて話さねばならなかった。僕は迷ったが、演劇以外はしていなかったので劇団の話をした。みんなぽかーんとしていた。教授もなにを言ったらよいかわからない様子であった。彼らは正しい。プラトンが想起していた偉大なるイデアも、これくらい生きている自身からかけ離れた存在であったのだろう。

大学三年生、僕は自分がどういう位置に立っているのかわかっていない。普通の大学三年生がたどりつくあたりまえの境地が僕には何も見えていない。来年はどのような位置にいるのだろうか。すでに足元がおぼつかないのに、来年の今頃僕は自力で立つことができているのだろうか。もう、この時点で自覚できているものでなんとかやっていくしかない。自覚が出来ているのならばの話であるが。
 もう長いことこんな具合で路頭に迷っている。もう何度も「なにがしたいの?」「なんて言ってほしいの?」と言われている。僕も心の底からそう思う。何をすれば不安でなくなるのか。どういう言葉を見つければ安心することができるのか。とりあえず生活を継続するためには、黙り込む以外に手段はないのである。不安をごまかしながら、最低限のことをこなしていく。そろそろ、このまま下を向いて生き続ける未来を受け入れなければならないような気がしていた。消極的であろうと積極的であろうと、自分が選んだ生き様に変わりはないという事実を自覚すべきだ。しかし、いまだに選ぶことは出来ていない。
 ただ、黙ってじっとしていることができなかった。表現には消し難い加害性があり、それは他者のみならず自身にも向かっているが、かといって沈黙を肯定するわけにもいかなかった。舞台を離れたあとの3年で学んだことはおおよそこのようなことであった。

 

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 僕は常に強い生きざまに憧れていた。各人がどのような段階を踏んでそのような生きざまにたどり着いたかを問わず、強い生き様はそれ自体で大きな力を持つ。僕はそう考え、大学1年の間ずっとレイモンド・チャンドラー推理小説に登場するハードボイルド私立探偵フィリップ・マーロウに憧れ、その分厚い本を開いている間を自身のもう一つの人生としてとらえ日々を送っていた。それは現実逃避ではなかった。現実を生き抜くための姿勢を読書体験で整えるための試みであった。僕の意識には必要のない感傷が多すぎる。物事を深刻にとらえる一方で美化しようとする悪い習慣が病のように取りついている。硬派な文体で綴られる淡々とした登場人物たちの生き様は、虚しさにとらわれた僕の意識を実際的な人生へと導いてくれると考えていた。強く生きねばならない。強い生き様、すなわち行動規範のある生き様が必要だ。乱暴にやりたいことだけをやり、出来ないことを嘆いていじけるのではなく、本当にやるべきことを見定める力が僕には必要だった。

 私立探偵フィリップマーロウだって常に男の色気に満ちているわけではない。淡々と情景が描写される文体はむしろ、日常生活の所作や何もしていないときの彼の姿を印象的に描いている。階段を上って息を切らしたり、家でつまらなさそうにボクシングの試合を観たり、一人でチェス盤をいじってみたり、紙幣を眺めながらぼーっとしたり。彼は基本的に無気力で、冷笑的で、あらゆることに無関心だ。そんな人物が主人公でも長編小説の物語が動いていくのは、彼の周りで事件が起きて、それに彼が何かと巻き込まれるからであるが、それだけではない。ただ事件が起きてそれに巻き込まれるだけでは物語は大きくは動かない。「そうせざるを得ない」状況で実際に「そうする」ことのできる人物がいて初めて、物語は動き出す。「そうせざるを得ない」状況で「そうする」ことのできる奴は実際のところそうはいない。「すべきこと」よりも安易な選択肢はいくらでもある。多くの場合人は安易な選択肢が見えた途端そちらを選択してしまう。それが現実と小説の違いだ。
 では我々は現実とは違う小説から何を学ぶことができるのだろうか。必要なのは教訓ではなく生き様である。それが僕の答えだ。高い次元で完成された物語の中では登場人物はその生きざまを全うしており、その生きざまはそれ自体で生きる指針となり得るのではないか。なぜならば、誰しも人生の途上にあり、生きながらにしてその生を全うすることは不可能であるからだ。架空の人物に憧れることも、現実の生を高める手段のひとつと言えないだろうか。そもそも、推理小説からどのような教訓が得られるだろうか。真実は暴かれ、死んだ者は戻らず、残された者は悲嘆に暮れる。それを受けて、視点人物である探偵のもとには何が残るであろう。結局、探偵は「いつも通り」に戻っていく。少なくともフィリップ・マーロウの場合はそうだ。だからきっと安心して読むことができる。「もとの生活に戻っていく」から、本を閉じた後も僕は何とか生きていける。教訓めいた事柄が露骨に押し出されないからこそ、視点人物とともにリアルな生を追体験できるのではないのだろうか。

 

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 後輩に言われたいくつかの言葉を思い出す。乗り換えで歩いている最中や、コンビニの前で飲み物を飲んでいるときなどに、ふと核心をついたことを言われる。

「先輩は自分を徹底的に被害者として描けるから平気でものを書き続けられるのです」「先輩の鼻に付くところはいちいち感傷を美化しようとするところです。」
「とどのつまり、先輩はわかりやすい愛しか受容することができないのですよ
「当たり前の幸せとか、ふさわしい生活とか、なにかと難しい言葉を使いたがるから永遠に満足できない。」

 

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コーヒーメーカーはぶくぶと音を立て始めていた。私は炎を弱くし、湯が上にあがっていくのを見ていた。ガラス管の底の部分にいくらか湯が残っていたので、火力をさっと強くして上に押しやった。そしてすぐにまた火を弱めた。コーヒーをかき回し、蓋をした。それからタイマーを3分に合わせた。細部をおろそかにしない男、マーロウ。なにをもってしても、彼のコーヒー作りの手順を乱すことできない。拳銃を手に目を血走らせた男をもってしても。(中略)こんな細かい作業になぜいちいちこだわるのか? 張りつめた空気の中では、どんな些細なものごとも演技性を持ち、大事な意味を示す動きとなるからだ。そのときがまさにそれだった。一触即発の空気の中では、すべての決まりきった動作でさえひとつひとつ自立した意思表示になる。どんなに長いあいだ反復され、日常習慣と化したことであってもだ。ポリオから回復した人が、ゼロから歩行を学習するのと同じだ。自明のものとして見過ごされてよいことなどそこにはひとつとしてない。

ロング・グッドバイ

 

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 最後にもう一度ハードボイルドについて書く。僕にってそれは、中途半端に道化を演じないことを意味する。道化を演じるならば命がけで取り組むべきだ。僕はその覚悟をしなければならない。もう10月だから。