ゼミで扱う哲学書とギャグ漫画を交互に読み、レポートという体裁のお粗末な作文を背中を丸めて打ち込み続け、なるべく金がかからないように工夫して自炊し、就活に関する情報を自分が直視したくない部分を避けながらそれとなく申し訳程度に調べ、いい加減バイトにも応募した。飛び出したくなった。自転車ででたらめに走り出す。前にもこんなことがあったような気がした。あれも9月だった。
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舞台が終わったときの気持ちはいつも同じである。しばらくの間日々の暮らしの中にあり、常に意識の中で大きく張りつめて存在していたものが瞬時になくなる。明日からは稽古がなく、明後日もない、というただそれだけのことに違和感を覚える。作る人と見る人が一堂に会し、同じ時間と空間を共有し、その上完全に同じことはもう二度と起こらない。当然だが演劇はそれが前提で成り立っている。喪失という言葉はあまりに深刻だが、それにしても喪失に似たこの居心地の悪さには特有のものがある。実生活の虚無。2018年夏の最後の舞台からの3年間、僕は常にこの居心地の悪さの中にいたのかもしれない。僕は今年の8月、一瞬の間だけこの居心地の悪さを克服した。そして、また戻ってきたのだ。この実生活に。とにかく、ひどく居心地が悪い。僕が高校三年間の間、結局ずっと演劇部にいたのは、終演後のこの落ち着かない感覚が理由なのかもしれない。
先のことは何も考えていなかった。目の前でいま起こりつつあることを成し遂げさえすればそれ自体で大きな意味をもつ。それだけを信じて走り続けた。公演という大事業を終えても目の前に残ったのは、ただの生活であった。それは、ほとんどなにも姿を変えずに私の目の前にもどってきた。仲間たちもそれぞれの生活へと戻っていき、僕にも元通り自分の家の天井を眺める夜が訪れるようになった。孤独や虚無という言葉ではとても言いきれたものではない悲しみがそこにはあった。
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夏休み明けのゼミで、休暇中のことについて話さねばならなかった。僕は迷ったが、演劇以外はしていなかったので劇団の話をした。みんなぽかーんとしていた。教授もなにを言ったらよいかわからない様子であった。彼らは正しい。プラトンが想起していた偉大なるイデアも、これくらい生きている自身からかけ離れた存在であったのだろう。
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僕は常に強い生きざまに憧れていた。各人がどのような段階を踏んでそのような生きざまにたどり着いたかを問わず、強い生き様はそれ自体で大きな力を持つ。僕はそう考え、大学1年の間ずっとレイモンド・チャンドラーの推理小説に登場するハードボイルド私立探偵フィリップ・マーロウに憧れ、その分厚い本を開いている間を自身のもう一つの人生としてとらえ日々を送っていた。それは現実逃避ではなかった。現実を生き抜くための姿勢を読書体験で整えるための試みであった。僕の意識には必要のない感傷が多すぎる。物事を深刻にとらえる一方で美化しようとする悪い習慣が病のように取りついている。硬派な文体で綴られる淡々とした登場人物たちの生き様は、虚しさにとらわれた僕の意識を実際的な人生へと導いてくれると考えていた。強く生きねばならない。強い生き様、すなわち行動規範のある生き様が必要だ。乱暴にやりたいことだけをやり、出来ないことを嘆いていじけるのではなく、本当にやるべきことを見定める力が僕には必要だった。
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後輩に言われたいくつかの言葉を思い出す。乗り換えで歩いている最中や、コンビニの前で飲み物を飲んでいるときなどに、ふと核心をついたことを言われる。
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コーヒーメーカーはぶくぶと音を立て始めていた。私は炎を弱くし、湯が上にあがっていくのを見ていた。ガラス管の底の部分にいくらか湯が残っていたので、火力をさっと強くして上に押しやった。そしてすぐにまた火を弱めた。コーヒーをかき回し、蓋をした。それからタイマーを3分に合わせた。細部をおろそかにしない男、マーロウ。なにをもってしても、彼のコーヒー作りの手順を乱すことできない。拳銃を手に目を血走らせた男をもってしても。(中略)こんな細かい作業になぜいちいちこだわるのか? 張りつめた空気の中では、どんな些細なものごとも演技性を持ち、大事な意味を示す動きとなるからだ。そのときがまさにそれだった。一触即発の空気の中では、すべての決まりきった動作でさえひとつひとつ自立した意思表示になる。どんなに長いあいだ反復され、日常習慣と化したことであってもだ。ポリオから回復した人が、ゼロから歩行を学習するのと同じだ。自明のものとして見過ごされてよいことなどそこにはひとつとしてない。
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最後にもう一度ハードボイルドについて書く。僕にってそれは、中途半端に道化を演じないことを意味する。道化を演じるならば命がけで取り組むべきだ。僕はその覚悟をしなければならない。もう10月だから。