カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

虚構の春

寝不足の時に外で日差しを浴びているとふわふわと意識が希薄になっていく。足取りに力が入らなくなっていき、そよ風にあたっただけで立ち止まりたくなってしまう。

家の近くの駅まで戻ってきた。電車から降りようと席から立ち上がろうとした時、感覚が大きく揺らいだ。走り出す電車の音、鳴り続けるアナウンス、改札通過の音、人々の足音。僕は立ち止まって耳を塞ぎたくなった。

ホームの真ん中に、公衆電話がぽつりと置いてあった。台の上に電話機だけが置いてあって、そのまわりには何もない。自販機と階段の間、人々が忙しく往来するホームの上でそこだけ常に誰もいないように見えた。みんなが電話機を無視しているのではなく、電話機が誰も寄せつけないのだと感じた。

何かで耳を塞ぎたかった僕はすがるようにその受話器を手に取った。そのとき瞬間的に、僕を慰めてくれる誰かの言葉が聞けるような気がなんとなくしたのだ。受話器からはプーッという電子音が聞こえる。この音もきっと何かの慰めになるに違いないと耳をすませたが、それすらも電車の走行音やアナウンスにかき消されてよく聞こえない。こんなうるさい場所に置かれた電話で人と話ができるはずがない。なんなんだこの電話機は。僕は諦めて、そっと目を閉じた。一切が意識から遠のいていくのを感じた。めまいがして歩くことができない。僕はうずくまる代わりに電話機の前で立ち尽くす。受話器で片耳を塞ぎ、目を閉じる。駅のノイズをノイズではないものとして受け入れると、それらの音の向こうから、聴きたかったプーッという音が聞こえるようになった。やっと意識の中は電話機と僕だけになる。すると、少しづつ僕の感覚が地面の水平を取り戻すのを感じられた。プーッという音から架空の誰かの慰めの言葉を導き出すことは出来なかった。だけど、どうでも良くなって受話器を置いた時の、がちゃんという音。その音は、予期せず僕を癒してくれた。そのがちゃんという音を機に、周囲の環境音は自然な形で僕の意識にカット・インする。

僕に必要なのはきっかけだとかそういうことを言いたいんじゃない。僕はただただその受話器を置く音が心地良かった。その音を聞くためだけにそこに至る全てが用意されているような気さえした。どこに置いてある何が救いになるかわからない。

また同じことをやってしまうかもしれない。僕は今や人ではなく電話と話がしたい。