カリフォルニア・日記

知っていること以外話す気はない

【小説】Good bye for now

ーまたの題名を『復活』


就職した年の夏、わたしは免許更新をしに地元に帰った。県外の大学に進学し、東京で就職したが、免許は大学3年の夏に地元でとったので、更新しにわざわざ地元に帰らなければならない。
毎日営業でぐるぐる回っている首都高の環状線から北の方角へ外れると次第に景色は空と山と道路だけになり、わたしはうんざりとした気持ちになった。やれやれ。わたしはアクセルを踏み込み、右の車線に移って前のトラックを追い越した。

日曜の免許センターは混んでいた。平日は仕事があるので来れないので混むとわかっていても日曜に来なければならなかった。やれやれ。わたしは列に並んだ。地元の人間がたくさんいるので知り合いがいたら嫌だなと思ってずっと下を向いていた。
「次の方ぁ はーい、はただしおりさんですね。初回の更新になりますので本日は視力検査のあとに2時間の講習を受けていただきます。奥の教室へどうぞ。」
簡単な視力検査が終わると、教室に通された。社会人になってからこういう座学の教室で人の話を聞いていると学生だった頃を思い出して憂鬱な気持ちになる。やれやれ。わたしは学生の時と同じように教官の話に耳を貸しながら別のことを考えていた。
早く帰りたいなと思い始めた頃、教官は受講生にプリントを配り始めた。プリント?高校まではプリントで、大学に入るとそれはレジュメと呼ばれ、会社の会議で配られるやつはアジェンダとかいう。ここでは何と呼ぶか知らんが、わたしはその印刷物を前から受け取り一枚とって後ろに回した。やれやれ。学校みたいでなんか嫌だ。
「えー、ではいまから皆さんにはこの安全運転自己診断をしてもらいます。書いてある質問を私が今から読み上げますので、当てはまる場合はマルを、当てはまらない場合はバツを欄に記入してください。」
はあ。わたしはなんとなくこういうアンケートを書くのが昔から好きだった。人の話を黙って聞いているより少しは面白いと感じるに過ぎないのだろうが、こういう質問の意図をあれこれ考えて模範的な回答をでっちあげるのがなんとなく楽しいなと考えていると、教官が言った。
「えー、こういうのは問題文みるとなんとなく正解がわかっちゃう人もいると思いますが、皆さんが日常的に運転するときの安全への意識を確認する目的ですので自分の心の声に正直に耳を傾けて回答してください。」
へえ、面白いじゃあないの。わたしは運転にはそこそこ自信がある。営業で毎日首都高をぐるぐるしているわたしは、いかに路上の秩序を自分自身のものにするかに妙なゲーム性を見出して楽しんでいるのだ。やれやれ。路上でルールをわきまえずイキっている連中とは違い、わたしは道路交通法という正義のもとで、正義の味方なのだ。わたしが路上の秩序なのだ。わたしは路上のエリートだ。やれやれ。わたしの仕事中の気晴らしはこういった誇大妄想くらいしかない。
「えー、ハンドルを握ると性格が変わるという人もたまにいらっしいますが、やっぱり車の中って密室ですから、自分の世界になっちゃうんですよね。普段意識できてない問題があるかもしれませんので是非ご自身を客観視してください。」
なに。こいつわたしに向かって言ってやがるのか。別に運転中にそういうモードになってもいいじゃないか。よかろう。正直に答えてやる。わたしは道路交通法という正義の味方なのだ。路上のエリートなのだ。
やれやれ、わたしは心の声がデカすぎるが、別にわるいことじゃなかろう。そうだよな?就職してからわたしの心の中にハードボイルド私立探偵フィリップ・マーロウが住み着き始めたことを見透かされたようでわたしはむきになってしまった。やれやれ、教官。てめえもわたしのこころを覗いて内心サブカル女wwwwwとか言うとるんやろ。チッ
「ではーいちばん上から読んでいきますねー」
よろしい。はじめたまえ。
「わき見をしていて、ハッとすることがある。」
ふん。このわたしに限ってそんなことはあるまい。バツ
「前方があいていると、ついスピードが出てしまう」
それは愚か者のすることだ。真の快楽はただ速く走ることではなく流れに乗ってうまく走ることだ。バツ
「割り込みをされそうなときは、車間距離をつめて走ることがある。」
愚問だ。車間距離は精神状態を写す鏡だ。路上の秩序に従うには、常に冷静であることが求められる。バツ
「夜間や悪天候の時はなるべく運転しないようにしている。」
…… 仕事だから仕方なかろう。それにわたしは雨女だ。…マル
「運転中、よくオーディオ、テレビの操作をする」
…… あるじゃないか、お気に入りのアルバムの中でもあんま好きじゃない曲とか、いまそういう気分じゃないのが流れてくるとき。一曲とばすだけじゃねえか。…マル
「歩行者や自転車に、自分のペースを乱されるのはいやだ。」
…… 自分のペースを乱されるのはみんな嫌じゃないのか…? …マル

「考え事をしていてハッとすることがある」

なんだ、これは?

「昔通った場所を再び通ると、そのときのことを思い出す」…マル
「助手席に乗せていた人が降りてひとりになると、さっきまで隣に座っていた人間について少しの間考える」…マル
「たまに窓をあけて風を浴び、感傷にひたることがある」…マル
アスファルト タイヤを切りつけながら 暗闇走り抜ける」 …マル
「道端で高校生のカップルが仲良くしているとつい気になってしまう」 …マル
「やりなおせればいいと思うことがある」 …マル
「失ったものを数えている感覚がある」 …マル
「流れていく無数の車の光を眺めているとふいに死にたくなる」 …マル
「全ては遠のいていった」 …マル
「歳月が憎い」 …マル
「あの日の自分が憎い そんな日の記憶がふりはらえない」 …マル
「もっとみんなを愛せたはずだ」 …マル
「強くなりたい 優しくなりたい」 …マル
「今を生きている感じがしない」 …マル


「自分は過去に囚われている」


ボールペンを持つ手が空中で止まった。


「ハタダさん。ハタダさん。」
教官がわたしに話しかけてきた。わたしははっとして振り返った。
「ちょっと、なんなんですかこのテストは?」
「車の中は自分だけの世界。しかし、外は多くの他人が生きる世界です」
「なんですって?」
「前方に集中し。ミラーをよく見るのです。時間は前にしか進みません」
妙だ。ほかの参加者がもういない。どう考えてもおかしい。
「あの、ほかの方々は?」
「講習は終わったので皆さま新しい免許証をもらって帰りました」
「じゃあ、わたしにも新しい免許証を…」
「ハタダさんは視力検査の説明を受けてからお帰りください」
「視力検査はさっきしましたが?」
「より精密な検査です。”視野”についてのお話をしますので別の検査室へ。新しい免許証はその後です。」
「はあ」
わたしは仕方がなく教官についていった。通された部屋は来た時の視力検査とは違う部屋だった。
「この検査は任意です。検査を受けずにお帰りになられた場合、今日と同じテストを3年後の更新の際に受けていただきます。検査を受けられ、かつ無事故無違反を守られた方は次の更新は手短に済みます。」
「いまいち趣旨がわからないのですが」
「これは普通の視力検査の機械ではなく、エレクトロバイオメカニカルニュートラルトランスミッティングゼロシナプスアフターエフェクトファイナルカットプレミアレポジショナーという装置です。これを使った”検査”を受けていただくかどうかをハタダさんにはここで選択して頂きます。」
「あの、こちらは何をするための装置なんですか?」
「潜在意識にアクセスし記憶を編集するものです。ここの穴を覗いて装置から発せられる光を直視すると、大脳皮質に視神経を通じて信号が送られ潜在意識を抑圧する記憶のみを再配置します。」
わたしは黙っていた。あるいはイラついていたのかもしれない。
「失礼。そう申し上げる決まりになっていますので。要するに、これで安全運転の妨げになるある種のトラウマを消します。」
「記憶を消すということですか?」
「正確には、影響が出ないように編集するのみですが、嫌なことを思い出さなくなるので消えたと表現しても良いでしょう。」
「そうなんですか?」
「思い出す必要のない記憶は存在しないのと同じです。脳にはそもそも忘れるという機能がそなわっているのにも関わらず、不必要にことあるごとに思い出すのは何かしらのエラーであり、安全運転上支障をきたします。」
「何かしらの、エラー。ですか。しかし、思い出すということは大切なものだからでは?」
「無いと生きてはいけませんか?」
たしかに。私は再び黙ってしまった。
「どうされますか?」
「消したら人格が変わるとかありますか、これ。」
「影響はないと考えられます。それに、消すのではなく、あくまで記憶を再配置し”隠す”だけです。最初に申し上げました通り、これは”視野”の問題です。適切な運転操作には機敏な判断が求められますので、現在の視界を遮るものを抑制する必要があります。」
困った。わたしはこのあと行くところがあり、田舎では車が無いとどこにもいけないのでとっとと新しい免許を受け取って帰る必要がある。
「これって義務ですか?」
「いえ、任意です。事故防止のため、ハンドルを握ると我を忘れそうな方にこういったリスクがあることを把握していただくためのものですので。ご協力いただけた場合、県警の方から協力感謝状を後日送付いたします。」


古い免許と交換で新しい免許をもらった。写真が大学3年のときのものから今日撮ったものに変わっている。相変わらず輝きのない目をしていた。気に入らなさそうな顔をしている。環境が変わっても、なにも変わりはしない。そのときにはそのときの不満があり、わたしはずっと変わらずふてくされている。これからもそうだと思うとうんざりするが、わたしにはそうする以外になかったのでそうしているまでだ。やれやれ。わたしは免許センターから車を出し、国道をしばらく走ってから橋を渡ると脇道にそれて川沿いをずっと走っていった。川で奴がわたしを待っている。

奴は常にあの河原にいる。一浪して東京の私大に入ったはずなのに連絡をとるとなぜかいつも田舎にいてこのように河原に呼び出される。高校のときと同じように。
「よお。わりいな。社会人一年目で何かと忙しいだろうに。」
「いいですよ。こっちに来ても免許の更新のほかにやることもないですから。先輩は夏休みですか?」
「夏休み、らしいな。休学してるからよくわからんが。」
「休学したんですか」
「行けないんだか行かないだけなんだか自分でもよくわからんが、医者にすすめられたから休学した。」
「はあ。えと、その、病気の方は、大丈夫なんですか?」
「悪いと言えば悪いし、平気と言えば平気だな。ただ、先週から通い始めた自動車教習所で停学を喰らった」
「先輩なにしたんすか?」
「適性検査を馬鹿正直に受けたら最悪の成績をたたき出し、尋問され、精神科に通ってるのがばれた。医者が診断書書いて警察署長がそれ読んでハンコ押すまで停学。誠に遺憾だ。」
わたしはこの男よりかはだいぶましだ。と思って安心できるから、この男の話に付き合うのをやめられないのだろうか。この男は高校の一個上の先輩だが、浪人と留年でまだ大学にいる。薬を飲まないと眠れないらしいが、薬を飲んでも眠れるわけではないらしく、夜中にこの男からLINEがきているのに朝起きて気が付くというのがここ数年日常だった。まあ、わたしも意味もなく夜更かししててすぐ返すこともたまにあったけど。たまにではなく、わりと、あったかもしれない。
「まじで、法律とか警察ってのは厄介だねえ。知らんけど。おれまだガキだから。」
「年上でしょうが。わたしもう働いてるんですけど。」
「ハタダさんは優秀だからわからないか。おれと似たような高校生活送って、同じ穴のムジナで慰め合ってたのに、しれっといい大学入って普通に就職しやがって。」
「わたしだって苦労してるんですよ。」
「知ってるよ。ハタダさんは偉いねぇ。よくやってる。僕だったら死んでるね。」
あんたみてえになりたくねえから仕方なく頑張ってる。と言ったらさすがに傷つけると思ったので言葉を飲み込んで知らん顔をした。わたしのささやかな気遣いをよそに、奴はずっと空を見上げてポカーンと口を開けて「あ゛ー」だか「う゛ー」だか言っている。ふとわたしのポケットをさぐると財布があり、さっきもらった免許証を取り出してみた。
「先輩。なんか、わたし今日、記憶消されそうになったんすよ。」
上を向いていた奴の首がゆっくりと回転し、青白い顔がこっちを向いた。ふたつのまるい眼が腹立たしく見開かれてこっちを見ている。口は半開きのまま。
「あらー 穏やかじゃあないわねえ」この青ざめた間抜け面と変な声はどうにかならんのか。
「詳しく聞かせてちょうだいな。わたし気になります。」おまえの一人称はなんなんだ。ぼくなのかおれなのかわたしなのかはっきりしろ。
「なんか、変なペーパーテストやらされて、妙な共感を煽る感じの不気味なやつで、そんで、あなたにはトラウマが多いみたいだから、なんか特殊な”視力検査”の装置で記憶を”再配置”だかなんだかしてトラウマを消すことが出来ますみたいなこといわれました。」
「ふへへへへ ハタダさんばれてんじゃん。トラウマ多いの。傑作だわい。んで、消したの?記憶。」
「消しませんでしたよ。消したらあんたと話すことなくなるから。」
わたしがそう言ったのは単にそれが紛れもなく事実であったからだ。奴は半開きの口を閉じて眉を少し上げた。一体それは何の顔だ。
「良い心がけだ。抜け駆けは許さぬ。」
「今日あんたと会う用事が無かったら消してたかもわかりませんがね。まあ、今日ぐらいは良いかなと。」
「ふーん」今度は膝を抱えて手で口を覆い始めた。わたしも内心突拍子のない話だろうと思って記憶を消されたかもしれない話をしてみたが、この男はこの男なりにそれについて考えてみているようだ。思案を巡らせている最中は口元をいじらずにはいられないらしい。
「どうやって記憶いじんのよ。再配置?だかなんだか知らんが。」
「なんかデカい視力検査の装置みたいな奴で、ピカッとやって視界を遮るものを目立たない場所に隠して安全運転がどーたらこーたらって。」
「よくはわからんが、連中がそうやって他人の財産を好き勝手いじくりまわす無法者ということはなんとなくわかった。」
「財産?」
「財産に違いなかろう。見聞きした経験の積み重ねは己を形作る血肉や骨に他ならぬ。」
言っていることは概ね正しいかもしれない。だがこの男に関してはどうだろう。
「その大事な思い出は、寂しいとき抱いて寝るのに使うんすか。」
「抱いて寝ても、必ずしも眠れるとは限らない。」
「思い出を抱きしめて寝てたら眠れなくなって薬5種類飲んでんじゃないんすか。」
「4種類だわ。それはミルタザピンとかジェイゾロフトとかブロチゾラムがあったときで今は眠剤エチゾラムトリアゾラム抗うつ剤SNRISSRIが…」
「いまは、どうなんですか」
「レクサプロのジェネリックがやっと出て薬代が安くなったのよ。」やれやれ、こいつは薬剤師にでもなった方がいいんじゃねえのか。わたしはわずかにため息をつき、言った。
「そうじゃなくて、病状は?」
「…」すると今度は奴がため息をついて、頭を抱えやがった。どうやら深刻な話が、或いはただ深刻ぶった話のどちらかがはじまるようだ。
「こないだ、父親と、夢の話をした。」
「夢?ですか?」
「実家にいるおれが昼夜逆転してるのが父親は気に入らないらしくてね」
「でしょうね」
「寝床についてもなかなか眠れないって言ったら、薬はちゃんと効いてるのか?薬飲んでも眠れないのか?って聞かれて」
「はあ。」
「なかなか眠れないときってだいたい昔のこと考えて寝床で頭抱えてるだけなんだが」
「考えなきゃいいじゃないすか」
「癖なんだな。それにずっと日中ずっと家族といて、寝る前にやっと一人になると考えるんだよ。親はいつか死ぬしこのままじゃいられんし、これから生きてける気がしねえし、じゃあどうしてこうなったかって」
「薬飲んでると違うんすか」
「ずっと飲んでるからこれもうよくわかんねえんだけど、たまに薬飲み忘れると、これがないとだめだな。ってなるんだ。」
「というと?」
「薬飲まないで寝ると、眠りが浅くてね。ずっと悪夢を見るんだよ。そんで目が覚めたらなんかめちゃくちゃ疲れてんのよ。もう死にたくなるくらい。」
「その、悪夢とは?」
「細かいことは起きてしばらくしたら忘れるんだが、だいたい、今まで会ってきた人間たちが目くるめく登場するな。」
どんなものだろうと想像してみた。わたしの脳裏をインスタントな走馬灯のようなものがぼんやりと駆け巡るとなんとなくとても嫌になってすぐやめた。
「それってわたしも出てきますか?」
「なぜかおまえは出てこないな」
「ああ、なんか、よかったです。」
人の走馬灯の一部に自分がいるなんて、あまり考えたくはない。ましてこいつのものなんぞ。
「ともかく、夢で出てきた昔のことを起きてからしばらく引きずるんだな。現実が夢に蝕まれていく感じで気持ち悪いんだ。」
先輩はじっと遠く川の流れを、或いは対岸の方を眺めていた。向こう岸の上空には、分厚い入道雲が西日を受けてほのかに朱色に染まっていて、その間からは金色の光が漏れていた。
先輩の悪夢がみる悪夢は、たしかにたちが悪いなと思った。しかしその一方で、単にこいつがあまりにも暇なせいで悪夢はその弊害に過ぎないのではないかとも、ほんの少し思った。
言うか迷ったが、他に言葉も見つからないので、言ってみた。
「過去に囚われすぎなんじゃ?」
「てめえの口から言われるとな、そいつぁ聞き捨てならんな。」
「先輩のは度を越してますよ。先輩も記憶消してもらったらいいんじゃないすか。」
先輩は少し黙った。
「いいや、記憶は財産だね。」
「そんな悪夢にうなされてても?」
「記憶が悪いんじゃねえよ。大事にしたいことが多すぎるんだな。」
なんとなく、先輩の言いたいことがわかる気がする。この人は、まるでそれが才能みたいに、どうでもいいことをたくさん覚えている。わたしが遠い昔先輩にしゃべったこととか、高校のしょぼくれた新聞部での日々のこととか。そういうのをだしぬけに蒸し返してきてわたしまでトラウマの渦に引きずり込む。
「自意識をもつ主体としてのおれが世界に働きかけた結果としておれの中にアーカイブが残り演繹的に現在のおれの行動はすべて決定される。同じようにその構造からは誰一人逃れ得ない。これからたどる道は当たり前のように足跡の続きになっている。ということだ。知らんけど。」
話しながら自分が納得できるように、自分のなかでだけ辻褄があうような言い回しをつらつらとはじめるくせに、知らんけどとか言うなよ。哲学者みたいな気取ってるくせして、こいつ経済学部だし。
「おれがおれであるために、トラウマだろうが記憶は手放さねえぞ。」
「まあ、自分で折り合いつけて生きてけるんならいいんじゃないすか。」
これはわたし自身への戒めでもあった。そう簡単にできたら苦労しないこともわかっている。先輩は相変わらずぼんやりと対岸のほうを見ていた。わたしは加えて言った。
「普通は、折り合いをつける手段として”忘れる”んでしょうけども」
水の流れの方を見ていた先輩は一瞬私の方を向いて、そして膝と膝の間に頭を突っ込んで下を向き大きなため息をついた。こうやってわかりやすくいじけてみせて、「どうしたの?」って言ってほしいに決まっている。言ってたまるか。どうせ自分から喋りはじめるんだから。
先輩は、のろのろと、すこし小さい声でしゃべり始めた。やれやれ。
「こないだも、ここに来たんだ。女の子と二人で。」
「はあ!?誰すか?」
「ん~ん…」
先輩は顔を上げ、またこっちを向いた。眉間にしわを寄せ、口を尖らせている。なんだそれは。気色悪い。張り倒すぞ。
「言え」
「高校の同級生。医学部行ったからまだ学生。いま地元にいる。これまでもちょっと遊んだ。」
はえー」
なんなんだこいつは。
「良かったじゃないすか。なんつうか、この歳で川遊び付き合ってくれるひとで。」
「だって、おれここしか遊ぶとこ知らないから…」
「そんな奴あんただけだよ。」
「…」
「なんだよ」
「かわいかった」
「知らねえよ」
「あのね、そうじゃなくてね、なんか、良い感じに日が暮れてきてて、座るとこあるかなってその子が言うから、土手に座るより堰(せき)に座った方が…」
「せき?」
「あの、川の途中に段差を設けて水の流れを抑制するための構造物」
「河川敷オタクがよ」
「あれがね、水が流れてない部分があって、そこに座ると夕日がきれいに見えるから、そこに登って座ろうとしたんだよね。」
「それで?」
「あの、おれはよじのぼれたんだけど、彼女が登れなくて、それで、彼女は一生懸命登ろうとするんだけれども、どうしても登れなくてね、じゃあ別のところにしようって言っても、彼女はどうしても登りたいっていうから、手を貸してみたりしなかったり、それでね、一生懸命登ろうとしてる姿が、その、なんというか、」
先輩はうつむいて一瞬目をつむってつぶやいた。
「かわいかったんだ。」
「へえ」
「好きになっちゃいそうだった。」
ばかだな。ガキなのか、おまえは。と思う一方で、妙な言い方をするなとも思った。
「好きになっちゃいそうだったってなんだよ。思わせぶりな女みてえなこと言うなよ。おめえの台詞じゃねえだろ。」
「違うんだよ」
「何が違うか言ってみろよ」
「楽しかったんだ。すごく楽しかったけど、苦しくなりそうだったから。」
大真面目な顔でこういうことを言う成人男性なんぞそういないだろう。そのあまりに純粋な眼差しはやや潤んでおりそこはかとなく薄気味が悪い。しかし、しかしだ、そういった薄気味悪さが自分にも心当たりが全くないかというとそうとは言い切れず、そうしてわたしはこいつを無視できない。
「ううううううううううっ…」
よくもまあ大人のオスがこんな情けない声で鳴くものだ。
これのために呼ばれたと思うと腹立たしくすらあったが、こうなるのが薄々わかってて来るわたしもわたしだ。だったら聞いてやろうじゃねえか。
「すきになっちゃいそうだったんだろ!それで、なにが苦しいんすか!」
とは言いつつ、こいつが言いてえことはある程度察しがついている。
「なんか、もう、こういう疲れるの、耐えらんねえな、と思って。」
「…上野駅
「二度とないんだ。はじめて好きな人と一緒に出かけたとき、駅でその人が来てくれるのを待っているときの、あの時のあの感じを。あれだけでもう十分だった。あれのほかにはもうなにもいらなかったんだ。同じようなことを繰り返すことは僕にはもうできない。」
だから、おまえの、一人称は、いったい、どれなんだ。
気分で使い分けているようなこの都合の良さがなんとなく気に入らない。
わたしは黙っていた。先輩もしばらく黙った。
「おれってどうすればいいんだ???」
前方視界を確保するため、記憶を消しましょう。と、免許センターの教官のようにはわたしは言えなかった。この男からこれを奪ったら何が残るかわからなかったし、この男はこういう生き様を自ら選び取ってこうしている。そして、残念だが同じようなことがわたしにも言えた。
「またクソ映画のネタにすればいいじゃないすか。もう作んないんすか、クソ映画。」
この男は自分で脚本を書いて監督して自主制作映画を作っていて、高校の時にわたしも手伝わされた。自分でクソ映画と言いながら、新聞部の部室に居座って部室のパソコンで編集していた先輩は楽しそうだった。大学に入ってからも何本か作ったらしいが、最近は作っていないらしい。わたしは、先輩のクソ映画が好きだったのに。
「仲間がよ、みんな卒業した。」
「あ~」
「その道に行った奴らもいて、そいつらはいまクソじゃない映画作ってるだろうけど、大変そうでね。」
「先輩もその道の巨匠になるもんだと思ってましたが。」
「現実逃避でクソ映画作ってたのに、それ仕事にしたらこんどはクソ映画からどうやって逃避すりゃいいんだ?」
「でも、映画作んの好きでしょ」
「好きだったもんを嫌いになるのが一番やなんだよ。現実逃避の先にある現実なんぞ知りたかあなかったし、そこまでの覚悟はもてなかったね。楽しい思い出作りにすぎなかったんだ。」
「先輩のクソ映画好きでしたけどね。わたし。」
「おれもその時は自分のクソ映画が好きだったけどさ、作らなくなってから見返すとよ、おれが見る悪夢と、おれのクソ映画、ほとんど同じなんだよ。クソ映画が悪夢の再現なのか、悪夢がクソ映画の再現なのかわからないくらいに。わざわざ撮らなくても夢でクソ映画見れちまうのに気が付いたんだ。それと同時に、おれが一人で観てる悪夢と同じようなものを人に見せてたことの恐ろしさに最近気が付いた。悪夢と現実の境があいまいになり、現実がクソ映画になっていく。でも現実を生きるこの世の他人たちはおれの映画の登場人物じゃあないし、そもそもおれは主人公じゃない。この世はおれを楽しませるためにあるんじゃない。」
先輩の眼は光を失っているように見えた。その様子は、目の前にある川の向こう岸を見失ったようにも見えた。
「てなわけで当分映画は作らん。というか、もう作れん。」
かける言葉が見つからなかった。先輩と同じように向こう岸を眺めてみた。そういえばあっち側には行ったことがない。新聞部の部活終わりに連れてこられたのもこっち側。文化祭終わりに「打ち上げ」と称して花火をやりながら先輩の参考書を燃やして遊んだのもこっち側。
この男を目の前の川にブチ込んだら、向こう岸までたどり着くだろうか。たぶん、浮き沈みしながら、ずっとこっち側を見ているにちがいない。そして流されまいとしがみついている。それが今なんだろう。ずっとしがみついているのと、流されてどっか知らないところに流れ着くの、どちらが楽なのだろうか。わたしは、流れに身を任せた側だ。だけど、今こうしてここに戻ってきてしまった。
結局、ここの対岸には何があったんだろう。
再び向こう岸の方へ視線を向けると、さっきまでその上空にあった分厚い入道雲が目前、というか真上まで迫っていた。もはや雲を染める朱色の西日も、漏れ出る金色の光もなく、どす黒い影がわたしたちを包んでいた。
「おい、やりやがったな。雨女。」
先輩が言った。
「わたしが雨女になったのは、先輩の陰湿な性格のせいです。新聞部入らなかったらこうはなりませんでした。」
ついに、雨が降ってきた。
「へー じゃあ何部がよかった」
「関係ないっすよ。新聞部が暇すぎて他の部活出入りしてたから」
大粒の雨が地面を叩きつけるように降り始めた
「じゃあさ。文芸部で書いてたさ。おめえの小説また書きなよ」
ぼたぼたという雨が、次第に、ざあざあ、というよりはだーーーというほどの勢いになり、遠くで雷が鳴り始めた。わたしはでかい声をだした。
「やですよ! 自分のこと書いたら! 先輩みたいに! 悪夢が現実になっちゃうって今知ったから! まじで雨やばいから! 先輩! とりあえず! わたしの車の中に!」
先輩とわたしはひとまずわたしの黒いセダンに乗り込んで雨宿りをすることにした。車内は湿気でむっとしていたのでエンジンをかけてエアコンをつけた。ぼたぼたと音を立てて雨粒が車の天井に打ち付ける。
「で、なんだっけ。」
「わたしが雨女になったのは先輩のせいです。」
「…そうか。なんつうか、あの、すまなかったな。」
「いや、別にいいすけど。」
実のところ、先輩のいる新聞部に入る前からわたしは雨女だった。考えることまでじめつき始めたのはこいつのせいかもしれないが、そもそもわたしはずっとじめじめしていた。やれやれ。この男の存在はわたしにとって多くの気付きを促した。それで生き易くなるようなことはなかったが、わたしは自覚できていることで生きていくほかない。
フロントガラスは雨粒でいっぱいで、外は何も見えない。鉄製の車体の外から、雨音とエンジンの音が低く響いているだけだった。
「ねえね、煙草吸いたくなっちゃった」
「今?」
「なんか、頭つかって喋ったから疲れた」
「知らんがな」
「あとさ、雨降ってるとき煙草吸うと美味いんだよ」
「知らんがな」
「傘ある~?」
「勝手にしなさい」
わたしは運転席の後ろに手を突っ込んで、後部座席の足元に横たえてあった黒い長傘を引っ張り出して先輩に差し出した。
「すまんねえ」
ドアを開くと隙間から瞬時に雨が車内に入り込んできた。
「早く閉めやがれヤニカス!」
ぼふっ。とドアが閉められたが助手席の座面がすでに半分濡れている。奴は傘をさしてはいるもののすでにかなり濡れている。あれがまたわたしの車に乗り込んでくるのかと思うとあまりいい気持ちはしなかった。やれやれ。先輩は車の前に立って、水色の箱から煙草を一本取りだしてくわえる。片手で傘を持っているのでやりにくそうな様子だった。なんか必死で面白かったので、わたしはヘッドライトを点け、ワイパーを動かしてフロントガラス越しに奴を観察していた。
ワイパーが雨粒をフロントガラスから取り除き、一瞬視界を開くがすぐに雨粒で遮られ、またワイパーが雨粒を取り除く。目の前でワイパーが往復する運動を隔てて奴がマッチを擦り、煙草に火を点け、煙を吐くのを観察していた。奴がフロントガラス越しにこっちを見ながら煙を吐いてくるので、わたしもにらみ返してやった。それを、ワイパーの往復運動が周期的に遮っている。やれやれ。なんでわたしはこんなことをしているんだ。どこで何を間違えた。再びわたしの脳裏をインスタント走馬灯が駆け巡る。大人たちの期待を背に名門校の門をくぐり、変な新聞部に入ってみたり、変な先輩と川で遊んだり、他の変な部活に出入りしたり、川までカメラを持って行って変な写真撮りに行ったり、変な小説書いて文芸部誌に載せたり、変な小説の残部を川で燃やしたり、変な後輩の変な話を川で聞いたり、変なことばっかだったけど頑張って大学に入ったものの、なんか変なことにはもう飽きてて、ただなんかつまんなくて、すると変な先輩にまた川に呼び出されて、そうして会社に入って、そしてまたなぜか変な奴にまた川に呼び出されて、変な奴はいまわたしの車の前でヘッドライトに照らされながら白い煙を吐いている。フロントの外気導入口が奴の副流煙を吸い込み、エアコンの風がなんかヤニくさいので、内気循環に切り替えた。やれやれ。
もしわたしの悪夢もおまえと同じようにクソ映画にできるのだとしたら、おまえだってわたしのクソ映画の登場人物なんだよ。だとしたら、わたしは奴になんて言うべきだ。わたしはわたしでクソ映画なりクソ小説なりクソ写真を作るってか?余裕のない会社員のわたしとちがって、暇人の休学中5年生のおめえはその時間をわたしを慰めるクソ映画作りに費やせと?この世がわたしを満足させるためにあるわけじゃないとして、だったらおまえくらいはわたしを楽しませろよと?
全てが的外れな気がした。わたしは奴に、何を言うべきだ。
わたしはわたしのこの忌まわしきインスタント走馬灯を、ただ眺めて、吐き気を催して、なにもすることができないが、奴は、その悪夢とやらを、かつては全部吐き出すことができた。吐瀉物映画、ゲロ映画、クソ映画。自分ばっかり気持ちよくなってんじゃねえ。

そのとき、空が光った。
一瞬目の前が真っ白になり、爆音が鳴り、車体が大きく跳ねた。わたしの身体は座席ごと揺さぶられ、驚いたわたしは叫んだ。
車の前に視線を向けると、奴が視界から消えていたので、わたしは車から飛び出した。奴が、倒れていた。
先輩は雷の直撃を受け、そして、車がわたしを守ったんだ。


先輩の服と先輩がさしていたわたしの傘は焦げたが、先輩は死ななかった。
その瞬間わたしはほとんどパニックに陥っていたが、救急車の中で先輩は何事もなかったかのように意識を取り戻し、後遺症も残らなかったという。奇跡と言うほかはない。
わたしは焦げてしまったのと似たような黒い長傘を買って、また東京に戻った。
雷の直撃を受けても、先輩の肉体には何ら影響は残らなかった。少なくとも、肉体には。
雷に打たれてからというもの、先輩は自動車教習所に復学し、予定通り運転免許を取得した。それだけでなく、煙草をやめ、Twitterもやめ、大学に毎日通うようになり、精神科から処方される抗うつ剤睡眠導入剤は量が減り、そして翌年には地元の役所への就職をあっさりときめた。働き始める頃には薬は全く必要なくなり、精神科への通院も必要なくなった。
明らかに、様子がおかしい。まるで別人だ。
わたしは用事がなければ地元には帰らず、なので川に呼び出されることもなくなった。奴からは夜中や明け方ではなく、まともな時間にLINEが来るようになって、先に述べた「良いニュース」を教えてくれるようになった。相変わらずわたしは東京で毎日ニヒリストみたいな顔して働いて、首都高の環状線をぐるぐる回っていたが、どこかひとりぼっちになったような気がしていた。


[ 先輩 さんとのトーク履歴]

ハタダシオリ    先輩、東京来る用事ないすか?
ハタダシオリ    飯とか、行きましょうよ。
ハタダシオリ    なかなかそっち帰れなくて

先輩        ハタダさんお久しぶりです。僕もいまは仕事が忙しく、覚えることも多くて大変なのですが、余裕ができればそのうち東京に観光などへ行ければいいなと思っています! ハタダさんもお仕事頑張ってください!

ハタダシオリ    そうすか…
ハタダシオリ    仕事、どうすか?

先輩        大変ですが充実しています!

ハタダシオリ    ストレスとか大丈夫すか
ハタダシオリ    職場にいけ好かない輩とかいないんすか?

先輩        たしかに楽な仕事ではありませんが、まわりのひとたちはみんな優しくて、働きやすい環境ってかんじですよ~

ハタダシオリ    先輩、1浪2留だから同期3つ下でしょ
ハタダシオリ    先輩がそんな屈辱に耐えられるはずがない

先輩        たしかに歳の差はありますが(笑)、良い仲間です!

ハタダシオリ    おかしい
ハタダシオリ    先輩、わたしに隠してることとかありませんか

先輩        実は、職場の女の子に週末いちご狩りに誘われまして…

ハタダシオリ    嬉しいのか?
ハタダシオリ    微塵の恐怖も抱いていないのか?

先輩        照れますね…(笑)たのしみに行ってきます

    《 ハタダシオリ さんがメッセージの送信を取り消しました》
    《 ハタダシオリ さんがメッセージの送信を取り消しました》
 《 ハタダシオリ さんがメッセージの送信を取り消しました》
    《 ハタダシオリ さんがメッセージの送信を取り消しました》

「ふざけんな」「おまえは誰だ」「その女と、新聞部元部長どっちが好きだ?」「上野駅をわすれたか?」と打って、既読が付く前に消した。もう今のこの人には関係ないんだと思ったから。だいたい、このトーク履歴では先輩の方が明らかにまともだ。やれやれ、わたしもまともになった方がいいのか。
あの落雷の日以来、わたしと先輩ではそれぞれ違う時間が流れていた。それはかつてのような同じ流れには戻ることはないような予感がわたしにはあった。人にはそれぞれの到達点があり、目指す場所があり、経由地が同じ人はたまたまそこにいただけで、分岐と分岐の間の一部分を共にしたに過ぎない。わたしはこの流れを、わざわざ選んだつもりはないのだが、結果的に選んだことに変わりはなく、そう考えるとうんざりした。先輩はその流れを脱したんだ。しかし半年後、妙なメッセージが先輩から送られてきた。


「ハタダさんよ、おれは仕事をやめたぜ。はっきり言って、すべてが順調に思われた。おれの中のなにもかもが浄化されたような気がして喜んで仕事をして暮らしていた。だがな、おれは驚くべきことに、また雷の直撃を受けた。そして、おれはすべてを取り戻した。一瞬でな。想像してみろ、いままでの人生でなくしたものが全部一度に戻ってきたら、どんな気分になると思う?おぞましいぜ。無慈悲な雨に打たれながら、発狂するかと思った。もうやることはひとつだ。おれは映画を作るぞ。実家暮らしで給料を全く使わなかったおかげで製作費はそこそこある。おれは仕事を辞めたその足でロケハンに行った。川だよ。最後の映画、『自虐の黙示録』で撮った河原のシーンの続きから撮るんだ。おれは久々に川に行ったね。ハタダさんも来ると良い。川は素晴らしいぞ。おれが1回目に雷に打たれたあの河原にたった瞬間、マーラーの第二交響曲『復活』フィナーレの歌詞を思い出した。『おお わが心よ 信じなさい おまえが何も失っていないことを すべてお前のものだ おまえが憧れ そして愛し得ようとしたものは おお 信じなさい おまえはいたずらにこの世に生まれ 理由もなく苦しんだのではないということを 生まれ出でたものは滅びなくてはならない そして滅びたものは復活する 震え慄くことはない 生きる覚悟をするのだ! 苦しみよ 死よ わたしはおまえからのがれる 今やおまえは征服されたのだ 私はかちえた翼を広げ燃える愛の力で舞い上がろう はるかな光のもとへ かちえた翼を広げて 私は舞い上がろう! 復活するために私は死ぬのだ よみがえるだろう! わが心よ 一瞬のうちに! お前が打ち勝ったものが 神様のところへおまえを連れていく!』おれにはこの歌詞の意味するところが完全に理解できた。おれは、復活する。よみがえるだろう。」


善良な公務員がやばいカルトにはまったのではない。奴は本来こういう奴だ。ほとんど何を言っているかわからないが、元に戻ったことだけはわかった。先輩は高校の時からよく「マーラーになりてえ」とよく言っていた。奴は、マーラーになる気だ。先輩が正気に戻り仕事を辞めて送ってきた正気の沙汰ではないLINEを、わたしはにやにやしながら眺めていた。
数日後、先輩はカメラを持ったまま川に流されて死んだ。


先輩の葬儀が終わっても、わたしの東京でのOLとしての暮らしはなにも変わらない。
わたしには、先輩からの狂気のLINEと黒い傘だけが残された。

ある日、動物園から猿が逃げ出した新聞記事を見つけた。この猿は、生活を、捨てたのだ。逃げ出して、そのあとどこへ向かったのだろう。生活をなげうってまで、行きたい場所が、あったのだろうか。「せいかつ」とは?
坂の上から街を見渡す。無数の屋根が見える。この無数の屋根の下、人々がそれぞれ自分の幸せを見つけ出し、懸命に生活を営んでいる。とは、私にはどうしても思えない。人々にはみんな目指すところがあるのだろうか。みんな、ただ生きることと、意味もなく闘っている。私にはそう思われて仕方がない。そこで起こるのは、喜劇でも悲劇でもない。ただの営み。街は、ただのデカい営み。 ヘッドライトとテールライトが列をなし、無数の光が道路を走る。私はそのうちのひとつになる。街もただ生きている。生きている街の動脈の中を走れば、私の生活も大きな営みの一部になる。すごいことなんてない。あたりまえのことしか起こらない。

 

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